伍話 呼名
山道を歩く。
気温はやや低く、雲の流れを見る限り、天候が崩れる心配はなさそうだった。
「ちょ、ちょっと待ってー……死ぬー……」
後ろから、情けない声が聞こえる。
振り返ると、アリシアが生まれたての子鹿のように足を震わせていた。
「その程度で、人は死なん」
「おぶってー」
即答だった。
里の子供の方が、よほど動ける。
どうやら、運動は得意ではないらしい。
「断る」
「命令」
「…………はぁ」
思わず、ため息が出た。
子供の世話をしている気分だ。
背を向けると、アリシアが素早く背中に乗ってくる。
「お、結構がっしりしてんね」
背中を遠慮なく触りながら、そんなことを言う。
「忍だからな」
荷物を持ったまま、再び歩き出す。
彼女の体重など、負担になるはずもない。
はずなのだが。
妙に、重かった。
「……今、重いとか思ったでしょ?」
なぜ分かる。
「思っていない」
反射的に誤魔化す。
「誤魔化したなー? 魔力で全部分かっちゃうんだからね?」
「……すまん」
背中で暴れられても困る。
「許しましょう」
満足げな声。
「ねね、今のめっちゃ聖女っぽくなかった!?」
「……」
うるさい。
「耳元で大声を出すな」
「ごめん。でもさ、聖女っぽくなかった?」
一般的な聖女像は知らない。
少なくとも、疲れたと駄々をこねておぶられ、耳元で騒ぐ存在ではないだろう。
そう思った。
しばらく進んだところで、休憩を取る。
ワシには不要だが、アリシアがうるさい。
「さっき行商人さん助けたでしょ? お礼にお菓子もらったんだー」
袋から、丸い肌色の菓子を取り出し、頬張る。
「んー! おいしいよこれ!君も……」
そう言ってから、ふと口を閉じた。
「ねぇ、君の名前さ。前に“666番”って言ってたよね?」
唐突な確認だった。
「そうだ」
事実なので、そう答える。
「別に、名前なんてなんでもいい。呼びたいなら、好きに呼べばいい」
そう言うと、アリシアはぱっと表情を明るくした。
無邪気な子供のような笑顔だった。
「言ったね? じゃあ、私が名前考えてあげる!」
考え込むかと思ったが、案外すぐに決まったらしい。
「……カゲマル、とか?」
「……それは、名前なのか?」
「名前って言われたら違うかも?まぁ、いいから、私がそう呼びたいの」
そう言われれば、黙るしかない。
「好きにすればいい」
「やった! じゃあ君は、カゲマル!」
そう言って、勢いよく菓子を口に突っ込まれた。
噛んだ瞬間、顔が歪む。
「……なんだこれは?」
明確に、不快だった。
非常に苦い。
「なんか──が入ってるやつらしいよ?」
「何を食わせている」
不機嫌さを察したのか、アリシアは慌てて別の菓子を差し出す。
「ごめんって。ほら、こっちはちゃんとおいしいよ」
言われるままに口に入れる。
程よい甘さが広がった。
「……うまいな」
「でしょっ! ほら、こっちも!」
それからしばらく、菓子を突っ込まれ続けた。
うまい、と感じたのは初めてかもしれない。
苦いも、同じだ。
悪くない。
カゲマル。
伽藍堂、666番、カゲマル。
呼び方が、また一つ増えた。
ワシはそれを否定せず、北へと歩き続けた。




