弐話 伽藍堂
牢屋から脱出することは、容易だった。
二重の鎖を引きちぎり、鉄筋コンクリートでできた壁を蹴破るだけ。
力を込める必要はない。
壁は壊れるものだと、そう認識している。
蹴り抜いた先が屋外であることは、事前に把握していた。
牢屋特有の湿った空気が途切れ、夜気が流れ込む。
月明かりに照らされた中庭は静まり返っており、人の気配は薄い。
そのまま外に出ようとして、声がした。
「ちょっとちょっと!? 置いてかないでー!」
……忘れていた。
鉄格子を掴み、捻じ曲げる。
金属が悲鳴を上げ、容易く歪んだ。
「うひゃー、噂には聞いてたけど、忍ってやっぱ凄いんだね。鉄筋コンクリって蹴破るものじゃなくない?」
「周りの人間はみんな蹴破っていた。蹴破るものだと認識していたが……違うのか?」
「違うでしょうよ。普通蹴破るって言ったら精々扉くらいでさ。その扉も、鉄だったら無理だしね」
どうやら、認識に齟齬があるらしい。
成長するにつれて勝手にできるようになったことなので、疑問を持ったことがなかった。
「ま、君が世間常識を知らないのは分かってたし。追々教えてくから安心してくれていいよ」
妙に偉そうだが、特に思うところはない。
主人が偉そうなのは、当然のことだ。
「そうそう。君、名前なんていうの?」
「……名前?」
「そう。私はアリシア。君は?」
呼び方の話か。
ならば――
「666番」
一瞬だけ、彼女の表情から冗談が消えた。
「……それ、本気で言ってる?」
「事実だ。里では、666番と呼ばれていた」
里の長や諜報員にはコードネームがあった。
だが、暗殺を担う戦闘員に与えられるのは番号だけだ。
「流石に666番って呼ぶのはさ……人道的にどうなのって感じだし。仮にも私は聖女だし……」
聖女。
その言葉に、思考が反応する。
聖女とは、魔王を討つ役割を持つ人間。
勇者と同類だと、教えられていた。
「お主、聖女なのか……?」
「ん? そうだよ。合わなすぎて逃げてきたけどね」
軽い口調で、彼女は言う。
「護衛の目的の一つは追手対策。君の仕事は、私を生かすこと」
聖女の護衛。
相手取る敵は想像がつく。
人間であれ、魔族であれ、殺す手段はいくらでも――
「あ、でもね」
アリシアはくるりと振り向いて言った。
「追手が来ても、殺さないでね。その人たちにも家族とか、大事な人がいるんだから」
意味が、分からない。
敵ならば、殺すのではないのか?
「おーおー、混乱してるね。忍のくせに、結構顔に出るじゃん」
混乱?
顔に?
そんなつもりはない。
表情筋は常に制御している。
そもそも、感情が動くほどの要因がない。
「私これでも聖女だからさ。
人は、できるだけ死んでほしくないし、
役目である魔王討伐も放棄したくない」
夜風が、ローブを揺らす。
「だから、魔王を倒すまで守ってほしいの。
君は命令さえあれば、主人の目的はどうでもいいでしょ?」
「それは構わん。だが……混乱していた、という点は看過できん」
アリシアは首を傾げた。
「あ、そっち? 聖女の役割とかじゃなくて?」
なんだー、と拍子抜けしたように笑う。
「真面目な顔して損したー。君、さっき困惑してたよ。
殺さないのか? なぜ? って」
「していない」
「してた」
「していない」
「してたしてた」
しばらく言い合った後、彼女は大きく息を吐いた。
「私ね、魔力感知が異常に高精度なの。人の中を流れる魔力の動きが、ほぼ全部わかる」
指で、自分のこめかみを叩く。
「君の魔力、ちょっと怖いくらい統制されてる。でもさっき、ほんの一瞬だけ、乱れた」
……覚えは、ない。
「今もね。言い合ってる時、微妙に揺れてる」
楽しそうに語る彼女を見て、理解できない不快感が生まれた。
「ワシは、伽藍堂の忍だ。感情など、持っていない」
「あー、はいはい」
アリシアはあっけらかんと言った。
「いいじゃん、別に。伽藍堂が感情持っちゃダメなんて、誰も言ってないでしょ?」
伽藍堂。
感情を持たない、空っぽの忍。
それが、ワシの定義だった。
「どうせさ、本当に伽藍堂なやつなんて、この世にいないよ」
それより、と彼女は言った。
「君、自分のことワシって言うんだね」
視線が、一瞬だけ逸れる。
「……そう呼ぶように、なっていた」
「へー。嫌いじゃない」
彼女は、少し考える素振りをしてから、言った。
「こう言えばいいかな。命令」
足を止め、こちらを見る。
「君は、感情を持っていい」
静かな声だった。
「喜んでいいし、怒っていい。混乱したって、別にいいよ」
命令。
それを否定する選択肢はない。
「……分かった」
そう答えた瞬間、
胸の奥に、処理できない余剰が生じた。
不快ではない。
だが、効率的でもない。
それでも――切り捨てる気には、ならなかった。
これが何なのか、ワシはまだ知らない。
だが、命令ならば、覚えておく。
伽藍堂と呼ばれた忍は、
その夜、初めて“無駄”を抱えたまま、歩き出した。




