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壱話 契約

捕まった理由は、単純だった。

命令が、なかった。


忍は命令なしに動かない。

それが生まれた時から叩き込まれた、唯一の行動原理だ。


王都外縁での任務を終えた後、次の指示は届かなかった。

撤退命令も、待機命令も、殺害命令もない。


だから、忍はその場に留まった。


三日後、包囲された。

騎士団三十余名。魔導士を含む完全包囲。

逃げることは容易だった。殺し尽くすことも、同様に。


だが、命令がなかった。


結果、伽藍堂と呼ばれた忍は、生け捕りにされた。



石造りの地下牢は、静かだった。

拷問はない。尋問もない。

ただ、生きているかを確かめるように、日に一度食事が運ばれるだけ。


鎖は二重。

だが、それも意味をなさないことを、看守たちは知らない。


逃げない理由は一つ。

逃走の命令が、ない。


忍は壁にもたれ、目を閉じていた。

呼吸は浅く、心拍は極端に低い。眠っているように見えるが、意識は完全に覚醒している。


敵意、殺気、魔力の揺らぎ。

すべてを感知し、すべてを無視する。


そこへ、足音が一つ。


軽い。

警戒心がない。

そして――生き急いでいる匂いがした。


「ねぇ、あなた私と契約しない?」


気配を隠す気もない女が、牢の前に立っていた。


「君、忍ってやつでしょ? 私さ、今護衛として雇われてくれる人探してるんだよね」


誰にでもそうなんだろう。

見るだけで人を火傷させそうな明るい表情。

場違いなほど、馴れ馴れしい。


「……」


返答しない。


「あれ? だんまり? 返事聞きたいんだけど?」


無視してやり過ごすつもりだったが、女は引かない。

仕方なく、最低限の言葉を吐く。


「……忍との契約の意味を、理解しているのか?」


忍との契約は絶対遵守。

二つ血判を作り、互いがそれを持つ。

契約を違えれば、主も忍も等しく死ぬ。


それを承知で言っているのなら、常人の発想ではない。


「分かってるよ」


即答だった。


「血判の元もちゃんと作ってきた。あとはお互いに血で判を押すだけ」


女は懐から布包みを取り出す。


「君の力なら、ここから抜け出すのは簡単でしょ? 抜け出す指示がないから、抜け出さないだけで」


それとも、と女は首を傾げる。


「こう言ったほうがいいかな? 私と契約しろ。じゃなければ、殺す」


瞬間、空気が変わった。


思わず、戦闘態勢に入る。

突然の殺気に、体が勝手に反応した。


思考より先に、体が殺し方を計算していた。

三歩。首。頭。心臓。

すでに三通り。


「あ、そうなるよね」


女は一歩も引かない。


「安心して。今は殺さないから」


「私は君の力が欲しい。私は君の力を借りる。代わりに――」


女は血判を一つ作り、鉄格子越しに差し出した。


「私は君の主人になる。それだけだよ」


「……最終確認だ。いいんだな?」


形式上、最後の確認を取る。


「もちろん」


なんでもないように笑う女を見て、自分の歯で指を切った。

血を落とし、判を作る。


「契約完了だ。これより、お前に手を貸す」


「これからよろしくね。マイダーリン♪」


この女が、新たな主人か。


違和感はなかった。

忍は、主人を選ばない。


こうして、伽藍堂と呼ばれた忍は、

追放された王国の聖女・アリシアの護衛となった。

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