9.
九月になった朝、吹は久々に自分で作ったものではない朝食を摂っていた。
今日から新学期。そして来週月曜からは、誰もが待っていた、執事との研修が始まる。
教室に向かう準備をしていると、久々に出会うクラスメイトたちとの再会を喜ぶ声が聞こえてきた。教室に入れば、どこへ行った何をした何を買ったとの会話で盛り上がっていることだろう。話している本人たちにとって、そういった会話は自慢ではない。ありふれた日常だ。聞いている人も気になるから尋ね、わざわざ耳を傾けているのであって、不快には思わない。ただ、人によっては自慢に聞こえてもマウントをとられたと感じてもおかしくない内容がずっと飛び交っていて、静かになるのは先生が入ってきたとき。
「みなさん、追試を受けたいですか?」
来週からの研修のためにお嬢様らしからぬ言動は控えたほうがいいはずなのに、久々の登校ということで、大切なこともすっぽ抜けてしまったらしい。
おはようございますの挨拶前に先生が発した言葉は強烈で、一気に教室が静かになった。その様子を見て、よろしい、と朝の挨拶を仕切り直した先生は寛容だったのだと思う。
「始業式で学園長がお話したとおり、いつどんなときも気を引き締めてください。研修は来週月曜からですが、来週に担当者がいる生徒は、金曜の放課後に顔合わせです」
さすがに月曜当日に学園外の相手の一日のスケジュールを把握することはできない。一人目だけには顔合わせの場を作り、次の人に引継ぎをしてもらうことになっている、という話を耳にした。実際あちらの高校がどう通知されているのか、こちら側は知らない。正しいのは、顔合わせの点だけかもしれない。
吹の場合、一週目は空きなので、顔合わせもない。相手はこちらの顔を知っているから、一週目の研修を行いつつ把握しろ、ということだ。なんとなく執事たちのほうが課題が多い気がするが、お嬢様はいろいろ尽くしてもらう側だからそういうものなのだろうか。それくらいできるようになれ、という校長の方針と、できてもらわないと困る、という学園長の意図が感じられる。
「主人にふさわしいと受け取ってもらえる言動すること」
と、始業式で再度釘を刺され、実はこちらもひやひやしていたりする。課題がどうこうについては、こちらも向こうもトントンかもしれない。こちらは誰が執事として来てくれるか顔も知らないため不安もある。なにもかもしてもらえるわけではないが、荷物を持ってくれてスケジュールも把握してくれて身支度も整えてもらえて、なんてことに慣れているのは一部の生徒だけだ。どこまでやってもらっていいのかわからない部分もあり、自分ですべきこととそうでないことの線引きがつかないのも問題だ。やらせすぎて審査に悪影響を及ぼすのも怖い。
今回は初の試みだからそこまで構えなくていいとは言われているが、学園の名を汚すことはできない。これから始まるのは五週間という長い長い試験だと思うと、生徒の最初の高揚感はどこかへ吹き飛ぶ気持ちだ。吹はそもそも高揚感など持ち合わせていなかったが。生徒たちが期待するのは先生から聞いた噂のような、外面も内面もかっこいい人が来ることだ。さて、どうなるのやら。
ただ、この長い試練の後、楽しみが設けられた。
「五週目の最後の日曜の夜、パーティーを行う」
パーティーと聞くと、楽しく賑やかできらびやかなイメージだ。しかしお嬢様たちにとってパーティーは、それこそ情報収集の場であり、自分を売る場であり、社交を広げる場である。決して楽しいと言い切れるものではないのか、嬉しい声はあがらなかった。ぴしりと空気が固まるのがわかる。
「そう構えなくてよろしい。お疲れさま会とでも思いなさい」
お疲れさま会。聞こえはいいが、どんな内容なのだろう。
「ただの知人、友人として、好きに歓談し、食事をし、踊る機会だ。純粋に楽しむ場と考えてほしい」
パーティーを楽しめる。それだけで気持ちが高まるのに、噂に聞く人たちだけでなく、もっと多くの男性と関われるとなると、女心としては見逃せないチャンスだ。
そして五週間の間は、お互いの家に誘う、雇用先として自分を売るなどの行為は禁じられているが、この時間だけは名刺交換やスカウトも許可されるという。生徒の家にはきっとどんな人と会ったか、どんな人がいるかの情報が娘から伝えられているだろう。実家はその情報をもとに相手を調べる。使えそうな人間に、先につばをつけておきたいならそうしていいということだ。執事のほうもそれを受けていいし、担当にならなかった相手であっても自分を売り込むことができる。学園でも高校でも、うまくいかなかった場合の保険なのだろうと推測できる。それがわからないほど馬鹿ではないが、生徒たちは好きに執事たちと、異性と交流できることに心躍らせていた。たしかに楽しむための時間になりそうだ。
吹は欠席を即決する。研修とは違い、パーティーの参加不参加は自由だそうだ。歓談したいとは思わないし、きらきらしたところは苦手。凝ったおしゃれな食事は、皿などの見た目が違うだけで同じものが食堂にも用意されるという。
学園長は踊ってくださいと言ったが、ダンスなんてしたくない。マナー講義でダンスレッスンもあるため、とりあえず基本的なステップは覚えたが、相手がほしいとは思わない。ほんのちょっと気になるのは、おとぎ話に出てくるようなシチュエーションが現実にあることを、この目で見る機会を逃すこと、その一点のみ。不参加なのは自分だけだろうと思っている。このせっかくの機会を、ここへ娘を通わせるような家が見逃すはずがない。
「どんなドレスにしようかしら」
始業式から教室に戻るときの会話は、パーティーとドレスの話でもちきりだった。平和だなぁと思う。きっとだいたいの家が、娘のためのパーティードレスを寮へ送ってくるか、家で身に着けて学園に向かう用意をしてくるのだろう。ダンス用でなくても、娘が恥ずかしい思いをしないおしゃれなものを。
吹はそんなこと期待していないし、自分に似合わないこともわかっているから、ずっと制服でいるつもりだ。寮で遠くからダンスの曲を聴きながら、執事服に身を包んだ彼らと踊る彼女たちを想像する。それで十分だ。
金曜日、一週目から執事がつく生徒たちが一時間ちょっとの時間、顔合わせをした。寮でこぼれ聞いた話によると、すでに相手の好みやスケジュールをだいたい把握していたという。すごい、と驚き褒めていたが、どこでそんな情報を入手したのか、吹にはただ怖いばかりだ。三日後にやってくる月曜日は、朝からどこを見ても女子生徒と男子生徒執事がカップルのように歩いていることだろう。一週目が空きの吹のような生徒を除いて。
そしてその日はすぐにやってきた。
「あなたは、優秀な執事さんですね」
三日目、一週目は空いていた吹にとっては、二週目水曜日の放課後のこと。伝えた言葉に彼は驚いた様子だ。口数が少ない吹からそんなことを言われたから、というよりも、自分が褒められたことに対する驚き。こういうとき、執事でも秘書でも冷静に、「光栄です」みたいな返事をするのが合格なのかもしれない。吹としては、彼の素の表情を見られたことを嬉しく思った。
「そんなことありません」
自信なさそうに視線だけ落として返ってきた言葉は、褒められたことに対する謙遜ではなく本心だった。
「あの、どうして、そう、思う、の、ですか?」
これは吹からの質問だ。吹は誰に対しても敬語を使う。
優秀と思ったのは本当なのに、なぜ素直に受け入れられないのか。
「先週の審査で、私の評価は低かったのです」
少し間があってから、彼は口を開いた。高いとは言えなかった、ではなく低いと言い切った。先週に誰の担当をしていたのかは知らないが、成績が良くなかったという。こちらは五週間を終えてから評価が公開されることになっているが、執事のほうは一週間ごとに公表されると今知った。次のためにすぐ活かせるように。
「きっと、お相手、との相性が、よくなかった、のでしょう」
「たとえ相性がよくなかったとしても、私たちはその方にご満足いただける行動をしなければならないのです」
即答だ。一理あるとは思う。そのための秘書であり執事であり、今回の研修なのだ。でも、そんなことありません、とは。
「あなたは、今、主人であるわたしの言葉を、疑うの、ですか?」
少し意地悪な言い回しをしてみる。案の定、彼はうぐっと言葉を詰まらせた。
吹の朝は早い。それをどこかで知った彼は、吹が部屋から出てくるのを早い時間から待っていた。一週目から、次の週に担う仕事のため目の端に捉えていたのだろう。さすがに寝ている間及び着替えるまでの時間に部屋に入ることは許されていない。主人である生徒が部屋から出るそこからが仕事開始で、持ち物の用意もしっかりなされていた。
彼は最初に、朝食に付き合うかどうかを尋ねてくれた。人との交流が少ないことを事前に確認してあったうえでの質問だ。質問攻めになると思っていた吹は、それで息をできた気持ちになった。もちろん朝食の付き合いは頼んでいない。
朝食から戻ってきて、カバンを持った彼は校舎まで控え目についてきてくれた。最初はいくつか質問をしてきたが、何時にどこへ迎えに行くか、今後も食事の用意はしないほうがいいか、いない間に部屋に入って制服の手入れをしていいか、など必要最低限のものだった。
イエスかノーかで答えられる投げかけ方をしてくれたのもありがたく、とてもやりやすいと感じた。他を見ていると、くっついて回る執事がほとんど。正直なところ、それは吹としては嬉しいことではなかったのだ。彼は一日目でそれをつかみ、二日目には実行してくれた。
気が付けば制服はきれいになっているし、いつのまにか好みのお茶も把握されてサロンや食堂ではなく部屋で飲めるよう用意されている。しかも好みの本までさりげなく用意されている。主人の気持ちを汲んでくれる、優秀な執事だと思っての言葉だった。が、彼にとっては評価が低かった先週を思い出す言葉になってしまっていた。
本心であったとしても、誉め言葉のはずでも、簡単に相手を傷つける武器になる。それが、言葉。
「あの、よかったら、今は執事として、ではなく、えと、先輩後輩として、話をしたい、のですが」
彼は一年生。吹のひとつ下の学年だ。
じっと見つめると、彼は用意してあった椅子に座った。もしだめなら、命令にでもしようかと考えていたが、必要なかった。やはり彼は意図を読んでくれる。思ったことを素直に話した。
「ありがとうございます」
感謝の言葉は、はっきり伝えたほうがいい。彼が最初の執事で本当にありがたいと思っている。きっと今後の人たちの情報は共有することになるため、なにかと過ごしやすい環境になるだろう。
「だから、です、ね、もっと、胸を、張ってほしいのです」
「胸を張れとおっしゃるのですか? 自信がないのに」
自信がないのは、先の一週間の評価だけでなく、学校での成績なども関係してくるのかもしれない。それに、彼が自信を持てないのは、吹は自分のせいでもあると思っている。自分がなるべく人とかかわらないようにしているから、他の生徒から見るとお世話しているようには思えない。
「あなたが、わたしのためを思っての行動をしている、と、あの、自信を、持ってくれないと、主人であるときのわたしは、えっと、申し訳ない気持ちで、いっぱい、に、なるのです」
きちんとやってくれているのに、吹のせいで彼が肩身の狭い思いをしていると、彼もそう見えてしまう。
「ぴしっとしろ、とは、申しません。自信を、すぐに持つ、ことも、その、難しい、でしょう」
失ってしまったものは、すぐには取り戻せない。でも。
「でも」
しっかり目を合わせる。
「わたしにとって、あなたは、素晴らしい執事、です」
彼の眼にほんのり光が宿る。
「本人が、そう、言っているのに、信じられませんか?」
一時、彼が下を見た。そして今度は彼から目を合わせてくれた。
「信じられます」
今度は強い光になった。
「堂々と、していて、ください」
やるべきことは成している。主人の心を尊重している。すべき指摘もしてくれる。
「はい」
にっこり笑った。さっきの揺れる瞳ではない。
では、と彼は立ち上がった。
「もう先輩後輩はやめましょう。お茶をお淹れします」
もう終わりにしてしまうのですか? と尋ねると
「私はあなたの執事ですから」
主人を先輩として会話しているわけにはいきません、ときっぱり断られてしまった。
「あの、さっきのほうが、都合がいいの、です、が」
「その話し方に目を瞑っているのです。これ以上あなたのわがままを聞くわけにはいきません」
執事に対して敬語を使うことは本来ないらしい。
「お嬢様、その話し方はなりません」
最初の指摘がこれだった。でも吹はこれを直さない。癖だからどうにもできないと言いはっても、その癖は直すべきだと言われ、それでも直さない吹を諦めた。もともと会話が少ないことも諦める理由のひとつにあったと思う。
わがままと言われてしまうと、そのとおりのため口答えできなかった。執事なんていらないと思っているのに学園の方針でこうなって、マナーのレッスンも忙しくなって、いいことがない。
「ありがとうございます」
カップと一緒に、感謝の言葉があった。
「明日からは、もっと胸をはって仕事をします」
「お願いします」
「そのお願いしますというのも、よくありませんよ」
カップに口をつけることで、指摘を受け流す。
「おいしいです」
「お気に召したようで光栄です」
ミルクをたっぷり入れたアッサムティーだ。ほんのりはちみつの香りがする。なぜ今飲みたいものが彼にわかるのだろう。
「お休みをとりましたら、お勉強にいたしましょう」
「え」
この甘さは、勉強させるための餌だったのかもしれない。本日の講義内容をまとめてあります、とノートと関係書類をするりと取り出した彼は、もうさっきの自信がないと言っていた彼ではなくなっていた。
翌日からは、図書室で勉強を教わることになった。なんとあちらの高校ではひとつ上の学年の勉強も進めているらしく、聡明な彼は吹が苦手とする理数系の問題もするする解いてしまう。教えてもらうにはちょうどよい機会だ。お部屋で取り組みましょうと提案してくる彼に、図書室で、とお願いではなく命令したのは、自分のせいでまわりからの視線が痛くなっている彼に対する小さな謝罪である。世話をしてもらっているところを見せることで、彼がきちんと仕事を成していることが伝わるはずだ。図書室では飲食が禁止なのは残念だがそれは仕方ない。
彼は理系が得意らしく、楽しそうに問題を解く。説明も上手だ。ただし、説明が上手だから吹が理解できるわけではない。それでも彼の見せる表情がずいぶん明るくなって安心するとともに、嬉しくも思う。あとは自分がこの勉強の成果をみせるだけだ。
「今日は、あの、顔色が、よくないよう、ですが」
昨日と一昨日は明るくなっていた。でも今日はなぜか良くない。教えてもらった勉強の小テストは、下の上だった順位が真ん中より上になって喜んだ。休み時間もひとりにさせてもらえるようお願いしていたのはこちらなのに、自分から結果を伝えに行ったくらいだ。当然の結果です、と褒めてくれた。が、期待を下回ってしまっていたのか。
黙り込む彼に、話すよう無言で促す。しばらくは、蝉の声だけが聞こえてきた。
「さみしくなります」
さみしい?
来週も新たな主人のもとに仕えることが決まっているのに、なぜさみしいのだろう。
「あなたのお傍にいられなくなることです」
目を見開いたのを見て、彼ははぁと息をつく。これは溜息だ。
「あなたのおかげで私は自分を少しだけ変えることができました」
まわりからなにがあったのか尋ねられるくらいです、と彼は続ける。
「わたしは、えっと、なにかした覚えが、ないの、ですが」
そんな吹に、今度はくすりと笑った。
「それこそ吹さまです」
なんだか楽しそうだ。それでいい、それがいいと思う。
さみしいだなんて言ってもらえるなんて、思ってもいなかった。
「ありがとう」
吹が伝えると、今度は彼が目を見開いて一瞬動きを止めた。敬語でないことに、自分を認められたようで内心とても喜んでいたことを、吹は知るはずもないし、彼も言うつもりはなかった。
「もし」
勝手に口が動く。
「もし、日曜にお時間、があったら」
「もちろん、ご一緒します」
まだなにも言っていないのに了承を得てしまう。
「えと、図書館と、本屋さんに、その、一緒に、行ってもらえませんか?」
「手配いたします」
さみしいと言ってくれたことが思った以上に嬉しかったのかもしれない。自分からこんな提案をするとは思ってもいなかった。それに日曜は、主人と従者ではなく友人、知り合いとして過ごしていい日。
外出届の提出は彼に任せることにする。なにかを頼まれることが彼らの喜びだそうだ。信頼の証でもある。
彼の選ぶ本は、吹の知っているものもあり、好みでもある。手に取らなかったジャンルも作家もあった。彼も次の準備があるだろうから、午前中だけと約束してたくさんの本を紹介してもらうことにした。
「君、変わったね」
同級生の巧に言われた。巧はここのお嬢様と研修中に寝泊まりする宿で会ったという唯一の一年生だ。
「そうかな」
「うん、なんかおどおどしてる感じが消えた」
今まではそうだったということか。胸を張れという吹の言葉に励まされ、褒められ、少しずつ自信がついてきたおかげだ。
「だとしたら今の主人のおかげだ」
吹もその宿で会ったという一人ということを、彼は知らない。巧もわざわざ伝えなかった。
いい顔をしている、雰囲気が変わった、と先輩からもどれもよい意味で言われて、さらに自信につながる。
「ありがとう。もっと励まないと」
彼があの人のためにと思って言っていることは十分伝わってくる。良い主人がいると、従者も良くなると実感した。前の人が悪かったとは言わないし、思わない。自分が評価を気にしすぎていたのと、力が足りないのを自覚していたのが、みんなの言うおどおどの原因だ。それがさらに主人に頼りないと思わせてしまったことに、吹との時間でやっと気づいた。それだけだ。きっかけとは、小さなもの。でもその小さなものをくれる人は大きな存在だ。
「とても素敵な主人だよ。日曜も午前中、出かけるんだ」
巧は優秀だ。一年生のなかでは一番をキープしている。ずっと一年でのトップを譲らない。班の先輩方には手を焼いているみたいだが、同級生のなかでは憧れの的だ。そんな彼が詳しく知りたいと追及してきて、嬉しくてつい長話をしてしまった。表情明るく話す彼に、珍しさからか変わったことを聞いて興味を持っていたのか、まわりから人が集まっていたり、遠くで聞き耳を立てていたりする人がいるのを知りながら、話を続けたのだった。お誘いを受けるとは、信頼の証であり、知り合いや友人として一緒にいられる存在になった証明だ。
彼はこれからライバルになる。
今までライバルの候補に入れることもなかったのに、巧は感じたのだった。
最後、土曜の務めを終えて、挨拶を済ませた。吹からは期待しているとの言葉をもらい、それだけで満足だ。残りの三週間も、なぜかうまくいきそうな気がする。
その前に明日の日曜日、彼女にどんな本を紹介しようか、パソコンに向かって調べ始める。次の主人の情報はだいたい手に入っているが、すでに仕えた人からの本物の情報も得ておきたい。それでも彼にとって、明日の吹との時間のほうが大切に思えた。パソコンの画面に向かった彼は、吹と話しているときよりも、ずっと自然な笑顔をしていた。
当日、彼は吹にたくさんの本を紹介した。お金と場所の問題で購入はできないという彼女に、図書館で借りられるシリーズものの本をいくつか紹介し、本屋で新刊のポップを見て感想を言い合ったり、同じ作家の別の本が学校にあることを伝えたり。
彼女は学校にいるとき、ほとんど表情がなかった。あるとしたら、なにかを食べるときだけだった。でも今は、自分の紹介した本に関心を、興味を、笑顔を向けている。それがとてつもなく嬉しい。秘書は向いていないと思っていたが、この人なら、と思える相手ならなんでもできると知った。知ってしまった。いつか素晴らしい秘書になって、もう一度この方に褒めてもらおうと、心に決めたのだった。
残念ながら午前はすぐに終わってしまった。知り合いとして過ごしていたが、女性に重いものを持たせられない。これは執事としてはなく、男としてのプライドなのかもしれない。袋にたくさん詰まった本は、すべて自分が勧めたものだ。重くは感じない。持ちますという申し出を嫌がることなく持たせてくれたことも嬉しかった。
最後、別れる間際。
「読書をすることはたいへん良いことだと思います」
本が好きな彼女も、うんと頷く。
「が」
少し構えるそぶりがあった。
「同じくらい、理系の勉強にも励んでくださいね」
目を逸らしてむっとした表情を見せた。これが彼女の素の姿なのかもしれない。さて、次の人は、この表情を見られるだろうか。
どうか、見せないでほしい、と彼は願ってしまう。
でもこれは研修だ。仕事だ。
一週間で得た情報は次の人たちと共有する。取引だ。仕方ないが、好みなどは伝えなければ取引にならないし、こちらも欲しい情報を得られない。表情だけもらっておこう。そうしよう。これは共有する必要のないものだから。




