7.
――夢を見た。
この夢を見るのは久々だ。そう思うくらい、何度も見てきた夢。
まわりにいる人がみんな、わたしのまわりを避けていく。
怖がる。
遠くでひそひそ言っている。
こいつがしゃべると不幸が起きる。
――ちがう、なにかがおきそうだから、あぶないよってつたえたいの
名前のとおりだ、こいつが吹聴しているんだ。
――そんなことない、そんなことない
そう訴えたいのに、声が出ない。
出ない。出せない。
悪魔だ。あいつは言葉を操る悪魔だ。
吹聴して、ほんとうにするんだ。
不幸の言葉を聞いちゃだめだ、あいつにしゃべらせるな。
――そんなことない、心配なの
――誰か、聞いて
そう願っても声が出ない。
なにかが口を押さえている。
人がこちらを振り返ることもせず、遠くへ、見えないところへ、去っていく。
助けてくれる人は、近づいてくれる人は、誰もいない。
手を差し伸べてくれる人は、いない。
求めて伸ばした手は、空をつかむ。
真っ暗な世界に、自分だけ。
そんなこと、ない
ほんとに、ない?
あるんじゃない?
あるから、だから、吹聴の吹って
そう呼ばれるんじゃない?
吹の吹聴したことは、事実になる。
不幸が、起こる。
だって実際に不幸があったでしょ?
数えてみる?
いーち、にーぃ、さぁん、……
はっと目が覚めた。汗が噴き出している。じっとりと、滲んでいる。
体が、重い。呼吸が、辛い。
ああ、コントロールできていたのに、昨日の出来事がきっかけで出てきてしまった、記憶。
時計を見ると、まだ五時にもなっていない。昨日の朝は計画して早朝に起きたけれど、今日は考えていなかったのに。
昨晩は送ってもらってすぐに大浴場へ行った。言われたとおり、温かくして寝た。朝焼けはもう見たため、目が覚めて間に合うようならまた朝のお風呂に行こうと、それくらいしか考えていなかった。
しかし今、大浴場に行きたかった。じっとりと濡れた身体を、どうにかしたかった。部屋に風呂場があることさえも忘れていた。たとえ覚えていても、同じ部屋の生徒が寝ているのだから音を気にして使うことはなかっただろうが、そんな気もまわらないほどなにかが消耗している。
なんとか着替えて、ふらふらと大浴場へと向かう。昨日のことを体が覚えていたのか、大浴場ではなく、無意識に最上階の混浴へと向かっていた。
「誰とも会いたくない」
ぽそり。ひとり呟いていたことに、自分で気づかぬほど。
きっと、朝日を浴びて、温泉のお湯を浴びて、身を清めたかったのだと後で思った。
湯着を身に着けて、外へ出る。
湯船の出入口の手前にある洗い場で髪を洗い、体を洗い、噴き出していた汗を流す。
熱くなっていた体が、朝の空気でだんだんと冷えていく。
大きく上下していた肩が、やっと落ち着いてきた。
息が、できる。
ふぅ、とゆっくり息を吐いてまわりを見ると、先客は誰もいなかった。
長居はしない。朝日を浴びて、湯に浸かって、心が落ち着くのを感じられればそれでいい。
気持ち悪い汗を流せれば、それでいい。
着替えながら、自分に自分で、
「大丈夫、わたしは大丈夫」
唱え続ける。
そう、わたしは大丈夫。もう、弱くない。大丈夫。
あのときとは、ちがう。
湯船に浸かっている今、水が流れてくるはずなどないのに、顔から滴る水があった。
せっかくの修学旅行、最後まで楽しむんだ。今日も体力を使うイベントが待っている。自分を鼓舞して、外へ出た。
大丈夫。大丈夫。
昨日の早朝、人がいなかったことを聞いて孝支と幸は混浴へ向かった。星空と日の出を楽しんだ。美しい景色を望み、男二人、無言で湯に浸かっていた。そこでなぜか、もう出ようという気持ちになり、思ったより早く湯から上がる。もっとゆっくりしていてもよかったはずなのに。意識していなかったが、男二人ではさみしいものがあったのだろうか。
ちょうど外へ出てきたとき、男性脱衣所の奥にある女性入り口への廊下を、ふらふら歩く人影を見た。
「あれは」
顔色が悪く、足元もおぼつかない様子。でもあの子は、昨日のふいだ。近寄ろうと動く幸を孝支が止める。
「昨日の様子を忘れたか。必要以上にかかわると逆に傷つける」
幸は足を止めた。
昨夜別れた時も、作った笑顔で、笑顔なのに泣いていた。
「心開いてくれるまで、待て」
そんなこと言われても、もう会うことはないかもしれないのに。
なにもできない自分に、腹が立った。
孝支はこの幸があの子をやけに気にしていることを珍しく、そして嬉しく思っていた。当の本人は、自分が他人を気にしていることに、気づいていなかった。
朝食の時間となった。朝から見栄えも質も豪華な食事だ。普段だったら、香草やら出汁やらの香りに惹かれてわくわくが止まらないだろう吹も、今朝の目覚めが悪かったからか、五感のすべて、なにも感じない。大切な食糧を残すことさえしなかったが、気が付けば朝食は終わっていて、味を感じることはなかった。旅行の間に味わってきたものはすべて、五感で幸せを感じさせてくれたのに、今日の朝だけはもそもそと口に運んでは飲み込むだけだった。それだけあのときのことは吹にとって大きな傷を与えていると、改めて実感する。まだ、今も。この後はグランピングなのに、楽しみが湧いてこない。
部屋を片付けてバスへ向かう。受付へ人数分の鍵を返すと、選べる浴衣のコーナーが見えた。いつでも多くの種類を取り揃えていて、なくなることはないようだ。共同の浴衣も見えている。あの、丹前も。貸してもらったあの夜とユキを思い出して、ほんの少し、気持ちがあたたかくなる。あのときの丹前のあたたかさも、頭に乗った手の重みも、一緒に。
バスに乗らないといけない。時間厳守だ。動いたら、麗華たちが嬉しそうな目で二階を眺めている。ついその視線の先に目を向けてしまった。すると、あの五人が、見送りに立っていた。これからの研修のため、浴衣姿ではなくスーツで、髪もぴしりと決まっている。胸に手を当ててお辞儀をする姿は、秘書の専門を勉強しているのに執事を想像させた。
また、会いたいな。
気がつけば上を向いていた。ちゃんと上を見られる。大丈夫、わたしは大丈夫。
グランピングを思い切り楽しんで、高校生活一回きりの旅行を締めくくろうと自分に誓う。
あの人たちだれー、とたくさんの生徒に尋ねられても、うふふ、ちょっと、と答える麗華たちは意地悪ではなく、本当に自分たちの素敵な思い出としてとっておきたいのだろう。
いつのまにか修学旅行は終わっていた。あっという間だった。
戻ればまた、いつもどおりの高校生活が始まる。嫌な思い出が蘇ったが、おいしく楽しい時間だった。出会いもあった。きっとこれから少しの間は、物足りない生活と感じるのだと思う。当たり前の日常が、日常であることを取り戻すまで。
吹たちのいつもどおりの生活。それは高校生活とひとくくりにしてしまえば本当にただの高校生の三年間だ。だが、多分ほとんどの他の高校生やほとんどの人たちが想像する高校生活は、吹たちの生活とはかけ離れている。
吹たちの通う学校は、ご令嬢が通うことで有名な、清水女学園なのだ。
昔は貴族と呼ばれた家柄だったり、古くからある大地主の家だったり、大企業の社長だったりと、そういったいわゆる良家の娘たちが、多くここへ通う。
ご令嬢でなければならない、という入学条件はない。だがわれらが清水女学園は昔から格式高いと有名な学校で、そこの生徒というだけで色がつく。ここへ通っているご令嬢だからと結婚の話がくることも多いと聞く。
入学条件にないのだから、全員がそういったご令嬢ではない。家系図を辿るとそういった家柄とどこかでつながるという程度の人もいれば、両親や自身の憧れで入学する人、教育方針を良く思って、などさまざまだ。一般の高校生の授業だけでなく、社会に出るためのマナーや社交界のことも習う。昔は女に知識はいらないと言われていたが、現在のお嬢様に勉学は必須だ。したがって偏差値は高い。加えて社交のマナーなど、その一部は人によってはなくてもいい知識が入ってくるのだから、勉学はなかなか大変といえるだろう。ただ、その社交には、社会人になるためには必要なものも含まれるため、今のうちから身に着けておくと便利なものともいえる。
古めかしい校舎だが、警備はしっかりされている。麗華のような本物のお嬢様が通うからだ。ちなみに麗華は大地主であり大株主の、昔から多くの領地をおさめてきた神宮司家の本家当主の姪にあたる。当主が彼女の父の兄なのだ。麗華の父はその一部を任されているが、叔父は子がいないため、いつか麗華が担う部分もあるだろう。
彼女のようなお嬢様は学園に通う。通うということそのものが本物のお嬢様ということの証明でもある。本来、生徒は寮生活を求められる。したがってほとんどの生徒は寮で暮らしている。いわゆるミッドタウンの小高い丘の上にあるこの学園は、学園での暮らしでもマナーや社交を学ぶことを推進しているため、人とのかかわりを増やすため、原則寮生活。大切な娘を寮に入れるのは、両親からすると辛いことだろう。かわいい子にはなんとやらの精神で娘を寮に入れさせているのだと思う。長期休暇には寮生活の人がほぼいなくなることから、想像に容易い。
その寮生活をする“ほとんど”に入らないお嬢様たちが本物と言われ、実際本物が多い。豪華な車に専用の運転手をつけ、毎日行きも帰りも車で通学する彼女たちは、寮で生活する必要などないくらい、普段からマナーなどについての訓練を受けている。必要もないし、通える手段もあるからこそ、通うことを選択できるのだ。一部の人間以外にはできない。だからこそ、麗華を筆頭とした人間は本物のご令嬢と呼ばれる。本物とつかなくても、どこぞの有名企業の娘はご令嬢と呼ばれてもおかしくない。憧れで入学したり、吹のように親の都合で入学させられたりするもののほうが、お嬢様もどきと呼ばれていい立場だ。
とはいえここは学校である。みな平等でありそういった差別はしない。麗華が麗華様と呼ばれるのは、本人の発するオーラ、所作と容姿の美しさと、それこそ憧れが多い。本人は実家で呼ばれ慣れているのか、拒むことはしなかった。本人があのとき拒めばよかったと後悔していることを、今はまだ誰も知らない。
ただいま、と言える場所はここだと吹は思う。そう重くない荷物を丁寧に床へと置いた。今頃、生徒たちがごっそりと抱えていた荷物の荷ほどきを始めている頃だろう。そのあとは友人や先輩後輩と思い出話に花を咲かせることになる。おみやげもたくさんある。郵送するか連休に持っていくか、それぞれ考えているところだろう。寮の生徒は平日休日かかわらず学内から出ることは禁じられさえしていないが、申請と許可が必要だ。夏休みなどの長期休暇は、逆に寮にいる生徒が届出を行うことになっている。
さて、静かに食事を摂るのは今の時間が一番都合が良い。そう判断して、吹は食堂へ移動する。生徒からはカフェと呼ばれる食堂は、レトロな雰囲気漂うおしゃれな空間だ。古民家をリフォームして作る、いわゆる古民家カフェと似た見た目。調度品もおしゃれで昔から大切に使われてきていることが、今につながっている。色合いが歴史を刻んでいる。宿泊した宿と似ている色合いだが、経た年月が違う。目を瞑れば、それこそ明治時代のお嬢様がたがドレスをまとって歩く姿が浮かんでくる。現在は制服姿の生徒が歩き回るのが、それこそ時代の流れだろう。
ちなみに食堂ではなく、サロンと呼ばれる場所は本当にある。客間として、または通学する生徒が休む場を作るために用意されているのだ。
それはさておき、お嬢様学校とはいえコースメニューを出すことはさすがに難しい。食事のマナーレッスンは講義として行われるため、普段の食事では出されない。それでもいくつかのメニューを用意して、好きなものを選べるようにしてくれているから、作ってくれている人たちには心から感謝だ。ずっと和食が続いていて、グランピングでは素材そのものを楽しむ食事をしてきたからか、生活感ある食べ物が恋しくなっていた。
そんなところに、スパイシーな香りが漂ってきた。これはカレーだ。いつもシェフがそれぞれの香辛料を駆使して、毎回違う味のカレーを作ってくれる。吹はこれが大好きだ。献立表によると、今日はポークカレーらしい。地方の特産豚肉を使用していると素材について細かくボードに書かれている。豚肉というだけで十分嬉しい。そのほかの献立は、白身魚のムニエルと小籠包だ。どちらも好きだけれど、今日はカレー一筋でお願いする。
カレーは豚バラ肉がたくさん入っていた。溶けた玉ねぎが甘みを出し、とろみも加えてくれている。スパイスがどんなものなのかはまったくわからないが、この香りだけで十分食欲をそそられる。朝はほとんど味を感じなかったが、それももうなくなった。カレーの力はすごい。サラダも生野菜がたっぷり。見た目だけで潤いを放ち、選べるドレッシングも手作りだ。宿での野菜は加熱されたものがほとんどだったため、生野菜を食べるのを久々に感じる。サラダのしゃきしゃきした触感を楽しんでいたら、だんだんとテーブルが埋まってきた。
帰ってきた二年生に三年生と一年生がくっついている。同じ部活に所属していたり、家の関係で仲が良かったり、こうして学年など関係なくまとまっていることが多い。特に今日は修学旅行の感想を聞きたくて、一年生が二年生にたかっているかんじだ。三年生は懐かしそうに聞くのかと思いきや、行き先は毎年変わるため、一年生と同じく二年生を質問攻めにしている。大変だ、と思うのは吹だけだろう。思い出すのも楽しそうに語る二年生の姿。お嬢様でもなんでも関係なく、楽しかった思い出は楽しく誰かに話したいものなのだ。
「かっこいい人がいたって聞きました」
一人の一年生の言葉が耳に入ってきた。情報が伝わるのは早いものだ。お家柄がいいところでは情報は武器でもあり社交の一部だ。知っていないほうが危ういかもしれない。
「そう! 実際会って話をしたのは麗華様たちだけなのだけど、宿を出るときにちらりと見たわ」
「めちゃく……こほん、とても美しい殿方だったの」
まだ言葉遣いが素に戻ったままなのは、旅行の興奮が残っているのを表している。
「どんなかた?」
「どこかの学校の生徒で、インターンをされていると小耳に挟みました」
そこまで知っているのか。だとすると、あの庭園での場に吹もいたことが知られるのも時間の問題だ。同じ食堂にいる以上、捕まると厄介だ。おいしくおなかにおさめたカレーのお皿を片付けながら、早々に食堂を離れようとする。
と、入れ違いに麗華たちが食堂に入ってきた。すでにたくさんの人が群がっている。
「その人たち、男子校のかたなんですか?」
「かっこよくて上品で気遣いもできて、最高」
「まるで王子様ね」
話題はそれしかないのか、と思うくらいにあの人たちの話しか聞こえてこない。行先や出来事は他にもたくさんあるのに。
「お名前はうかがったの?」
「もちろん、会話にお名前は必須ですわ」
「きっと素敵なお名前ですね」
なんというかた? という遠回しな問いかけに、「個人情報は教えられないわ」と答える麗華は常識を持っていた。
「わたくしたちが会ったのはほんの五名です。学校があるのですから、素敵な殿方はもっとたくさんいらっしゃいますわ」
「来年のあなたたちの修学旅行でも、ご縁があればお会いできるかもしれないよ?」
「それ、三年生には言えない台詞ね」
ふふふ、と楽しい笑い声が聞こえたところで、吹は部屋に戻った。
ここの寮生活のいいところは、部屋がひとり一部屋のところ。話を聞くに、そもそも寮を置いている学校は少なく、あるとしても数人で一部屋だそうで、もし相部屋だったとしたら、相手はゆっくり休むことができないだろう。普段から一人で行動することがほとんどの吹は、ひとりでいることに慣れている。が、まわりはそうではない。気を遣わせることも遣うこともない一人の空間は、居心地が良いとも感じられる。
ベッドと勉強机、クローゼットがもとから設置されていて、あとは好きに持ち込みできる。ソファとカフェテーブルを置いて友人を招き入れている人がいるくらい、寮にしては広い。トイレと風呂場、洗面所も共用ではない。別々の空間に各部屋にある。大学生の一人暮らしのワンルームより広いかもしれない。誰かが吹の部屋に入ったら、さみしい空間だとか、ものも用意できない家だとか思われるだろう。置いてあるのは、もとから用意されていたものと、持ってきた箪笥棚だけ。吹はそれでいいと思っていた。特に増やしたいものはないのだから。
明日からはいつもどおりの日常が戻ってくる。授業も再開し、苦手なマナーレッスンもある。旅行中はお咎めもなく忘れることができた言動に気をつけねばとそんなことを考えて、布団に入った。また、あの夢を見ないことを祈って。
時は遡り旅行二日目の夜。
校長は自分の専門学校の生徒たちが、女性たちと仲良さそうに会話し、移動していくのを目撃していた。会話の内容も他の先生からしっかりと聞いている。
あの佇まい、普通の女子高校生ではないと直感した。そして、これは使える、とも。見たことのある女性が何人もいたのだ。どこの生徒かはすぐにわかったが、こうして交流があるとは思ってもいなかった。
この機会を逃す手はない。
校長はすぐに行動した。
「失礼いたします。突然のお誘いを受けていただき、ありがとうございます」
コネを使って会う約束をとりつけてもらったのは、もちろんあの女子生徒たちの通う学校、いや、学園の学園長、清水だ。学園長も宿の共同浴衣を身に着けている。なのになぜか体から高貴なオーラが漏れ出ている。これがお嬢様学園と呼ばれる女学園を統べるトップか。
「いやいや、こちらこそお声をかけていただき光栄です」
先にいただいています、と揺らしているのはワイングラスだ。赤い液体が波を打つ。
「そちらもどうですか」
ワインのボトルを持ち上げられたら、受けないわけにはいかない。これから交渉が始まるのだ。
「いただきます」
注ぎかたは、われらが育てている秘書たちよりずっと自然だ。辛口なのか、香りが鼻につんとつく。
「申し遅れました、わたくしは」
「秘書専門学校校長、真塩さんですね」
「……ご存じでしたか」
「もちろん」
余裕たっぷりの笑み。主導権は最初から相手が握っている。
「清水女学園学長の清水様にまで名が及んでいるとは、光栄です」
ちょっとした意趣返しのつもりで、相手の名前を言い当てる。
今日はたまたま、自分の生徒の様子を見に来ていた。たまたま、女学園の生徒がいた。たまたま、その生徒がわが生徒たちと交流していた。この偶然の重なりは、偶然といえるのか。たとえ偶然だとしても、見逃すにはもったいない。
「そちらの生徒さんとうちの生徒が仲良くしているようだね」
学園長の清水が、軽く話す調子になる。ひとつの学校の長であることは同じ、敬語はやめようということだ。遠回しな物言いはお貴族様にとっては皮肉でもなんでもなく、当たり前のこと。もしかしたら通じているか試されている可能性もある。
「そうですな。普段から主人がいるものとしての言動を叩き込んでいるが、こうして高貴な女性たちと時間をともにする機会があるのは幸運だ」
「それはこちらも同じこと」
女学園では社交会に出たときのためのマナーも教えているという。男性とのかかわりも、一般の高校生とは違う彼女たちにとって大切なことであり時期尚早とはいえない。
「まぁ、見ている限りはそのままに、時間をともにしているだけのようだが」
主人と従者、婚約者、その候補、など様々なかかわり方があるが、あれだとただただ一緒にいられることだけを楽しんでいるようだ。
「楽しそうでなによりだ」
修学旅行だからね、と目を細めて笑う学園長には、現在庭園で会話が弾んでいるであろう彼女たちが見えているのだろう。
ちょうどグラスが空になりそうなところに、今度は自分から勧め、注ぐ。
「ところで」
ご提案があるのですが、とつなげるところだった。しかし最後まで伝えることはかなわなかった。
「提案がある」
先に清水が言ったのだ。
「伺いましょう」
承諾できることならそうする。そしてこちらの要件も承諾してもらいやすい。
「そちらの生徒さんを、こちらに出向かせることはできまいか」
「えっ」
驚いた。その言葉が学園長から出てくるとは。こちらからの提案も、まさにそれだったのだ。
「ぜひ」
「では、この出会いに乾杯、真塩くん」
「乾杯、清水くん」
提案について交わしたのは、それだけだ。詳細についてはなにも話すことなく、あとは二人で酒を酌み交わしたのだった。