6.
逃げることはできない。
ただ無言でついていった先は、大浴場前のフリードリンクコーナーだった。ここだと生徒も多く来るはずなのに、いいのだろうか。お話したいという人が増えてしまうと思う。時間に限りがあると匂わせていたのに。
食後すぐだからか、まだすっきりとしているフリードリンクコーナー。少し経てばわさわさと生徒が増えて、入浴前でもあたりはピンク色に染まるだろう。
「どうぞ」
「え、なんで」
渡された飲み物に、自分の好みを当てられて驚く一人。
「何飲む? 持ってくるよ」
「あ、ではあちらを」
「ありがとうございます」
進んで用意してくれる人にほれぼれする一人。
「これ、おすすめですよ」
「あれ、昨日同じの飲んだのに、香りが違う」
同じものなのに違う香りで驚く一人。
「オレ特別ブレンド、どうぞ~!」
「あ、ありがとうございます」
斬新なアイディアに驚きつつも技術に驚く一人。
そして吹は、丹前を貸してくれた人に、何を飲みたいかを尋ねられていた。
「自分で、あの、取ります、ので」
お気遣いなく、という意味を込めて伝える。
「そうか」
吹がホットレモネードを入れたときは、全員が手にカップを持っていた。
「ロビー行く?」
椅子も多くある。おしゃべりにはちょうどいい。
「せっかくなら景色がいいところがいいだろう」
吹はお風呂に行く前に庭園を散歩する予定だった。体が冷えても温泉で温まることができる。もう会ってしまったが、また会ったときに「冷えるから温かくしろ」と言われることのないよう準備していたのだ。
「庭園行くか? 庵もあった」
あの人が言った。壁越しになんとなく庭園がある方向を見ていたのを気づかれてしまったか。
「ライトアップが女性には人気らしい」
「いいっすね!」
「そこにしましょう」
「よろしいですか?」
女性陣全員が、はい、と答える。
庭園に出ると、夜だからか昨夜と同じくほんのり冷えている。庭園の色味は、深緑色なのにあたたかく照らしているからか、寒色とは感じない彩がある。が、食事を終えて体が温まっている女性たちは、どことなく寒そうだ。浴衣だけを着ていて丹前を持っていない。着ているのは吹だけだ。少しずつその寒さが体に染みてくるだろう。
「空いててラッキー!」
大きく手を振ってこちらを呼ぶ明るい男の人。庵に入ろうとしたとき、
「お待たせしました。羽織借りてきましたよ」
どうぞ、と女性に配る柔らかい人。
「体を冷やしてはいけませんから」
「冷たいものを勧めた男もいるからな」
「いいじゃないっすかー」
吹以外全員が羽織を着せてもらっている。手が空いている今日の従者だったあの人が、それをじっくりと見ていた。
コの字の椅子にぐるりと座った全員。日本庭園がぼんやりと映し出されている。
「じゃ、再会に乾杯!」
「乾杯!」
嬉しそうに女の子たちはカップを持ち上げる。おいしい、初めての味、とまたもそれぞれの感想が出るのを、渡した男性たちは嬉しそうに見ていた。彼らが何を飲んでいるかはわからないが、カップからは湯気が浮き上がっている。あたたかい飲み物だ。視界のやさしさを邪魔するような、苦い香りを感じさせない。
「俺とこいつはこの子以外再会じゃないんだがな」
リーダー格の人がこいつ、と指したのは丹前を貸してくれた人だ。
この子というのは吹のことだ。この流れは嬉しくない。話題が自分になってしまう。が、そんな心配はなかった。
「失礼ですがみなさま、今朝がたスーツでいらっしゃいませんでしたか?」
先の会話で吹が朝に会っていた人たちと目の前の彼らが同一人物とわかった麗華が尋ねる。多分この中の一人があの遊園地にいたことまではわかってないだろう。今、一番の話題はそれなのだ。
「オレたち、インターンでこっちきたんで」
「インターン?」
その意味をこのお嬢様たちが知っているだろうか。首をかしげる麗華にこそりと話しかけた隣の人を見るに、知っている人もいたようだ。
「学校の方針で、定期的に研修しているんです」
一番年下と思われる愛嬌ある男性が付け足す。
「旅行ではないんですね」
お疲れ様です、と女の子たちが彼らを労う。そのわりにはいい宿に泊まっているものだと思ってしまった。その答えはすぐにもらえた。彼女たちはその理由を知っているが、一緒に混浴に行かなかった吹は知らない。
「仕事は大変ですが、お疲れ様代みたいなかんじで、宿はちょっといいとこなんです」
にっこりと笑って、と柔和な人が教えてくれた。吹は混浴にいなかったため、一度話したことにもきちんと答えてくれている。
「君たちは?」 従者さんがこちらへ訊く。
「わたくしたちは修学旅行ですわ」
「修学旅行か! いいねぇ!」 元気な人がそのまま元気な反応だ。
「とても楽しかったですわ」
「ってことは今日で終わりですか?」
過去形から察して、柔和な人がシンプルな質問として尋ねてくる。
「ええ」
明日、学校へ帰りながら日帰りのグランピングをして終わりだ。
「しっかりこのお宿を味わってお帰りください」
一番弟分らしき人が真面目に挨拶をくれる。
「「ありがとうございます」」
「研修はまだ続くのですか?」
「うーん、一週間だからあと」 明るい人が悩む。
「三日だね」 柔和な人が代わりに答える形となった。
今までの会話を聞いていると、元気な人と柔和な人は同年齢、リーダー格の人と丹前を貸してくれた人はそれより上で同年齢、もう一人は一番下、といったかんじだと推察。
「高一からこんなに実習が多いとは聞いてませんでした」
一番年下らしき男性の言葉から、この人は高校一年、先輩と呼ばれた二人は二年とわかる。この三人が混浴にいた人で、残りの二人は“先輩”だったり“さん”付けだったりと呼ばれていたから三年生だ。
「あの、どんな学校かお尋ねしても?」
男性たちが顔を見合わせた。
「秘書育成に力を入れた学校です」
東京にあるという。そんな学校があるとは知らなかった。朝にスーツ姿だったのは納得がいく。ただ気になるのは、遊園地にいた三年生の彼だ。
彼はなぜ、遊園地に少女と一緒にいたのだろう。秘書の仕事にそんな内容も含まれるのだろうか。それにあのときの雰囲気は、秘書というより、小説に登場する執事のようだった。
ちらりと見ると、やはり気づいているか、というように口の端が小さく上がる。聞かないほうがいいなと吹は判断した。
「実は執事としての教育もしているんですよ」
それを言ったのは当のリーダー格の人だった。
「先輩」
それを言ってしまうのか、という咎める雰囲気を出す一年生の彼。
吹の気遣いは無用だったのか、わざと聞かせたのか。どちらでもいい。スーツ姿は秘書の準備をしていたが、インターン先で求められたのは執事としての仕事で、この人はどこぞのご令嬢が遊園地に行くのをお伴する執事としてあそこにいたのだ。まだ同じ高校生なのに、もう社会に出る準備ができるなんてうらやましいと感じる。ここのお嬢様たちは、大変だなぁとしか思っていないだろう。
「まあ、執事」
日本には執事を育てる専門の学校は存在しない。ただ秘書としての教育と一緒に執事の勉強をさせている珍しい学校があると今知った。仕える、という意味では、秘書も執事も似通った点があるのかもしれない。
「オレたち今仕事モードじゃないから直球で聞くけど、麗華様ってさ、神宮司家のお嬢さんじゃない?」
「ご存じなのですか?」
「そりゃ、仕事柄」
な、と周りに同意を求めるその人を、誰も否定はしなかった。仕事柄、という単語からして、高校に通っていても彼らは社会人として動いている。
「もしかしてわたしたちのことも?」
「合っているかはわかりませんが、想像はしております」
「なんてこと」
なぜか嬉しそうなのは、相手が彼らだからだろう。やんごとなきお方は個人情報だだ洩れらしい。相手が特別な学校に通い専門の教育を受けている彼らでなければ、そんな人と接することに対して恐怖を感じ、すぐにこの場を離れていたはずだ。ということは、彼らは吹たちがどこの学校に通うかも、もうわかっている。
「あ、詳しく聞かないから安心して」
やわらかい声で安心感を与えてくれる二年の彼。この気遣いは、教育からではなくこの人の性格だろう。
「そういや自己紹介まだだったな」
「ニックネームなかんじにしましょ」
「それなら僕たちからですね」
「オレはイチ! 二年!」
最初に話を聞いてくれた、明るく前向き、でも吹をこの場に存在させる原因となった二年生の人。
「僕も同じく二年の、ええと、サトシです」
やわらかい物腰で人当たりのよさそうな彼。この人は本名だろう。
三年の二人が一年生を見る。さきにどうぞ、という合図だ。
「僕はタクミです。一年です」
かわいがりたくなる見た目に反し、飲み物を勧めていたときは判断が早く的確で、つっぱしるイチをフォローするところもあった。
「俺はコウシ。三年。一応このなかのリーダーだ」
研修は班分けされているという。たくさんの宿にそれぞれのグループで泊まり込み、決められた場所へと出向くそうだ。ビジネスホテルに泊まらないのはご褒美の意味もあるが、良い宿では接待や会議も多く行われるため、先に知っておくという理由もあると説明してくれた。会社や政治家などが料亭やホテルで会合、宴会というのはあることだそうで、このインターンの泊まり先は選択肢を増やす手段にもなっている。実際に宿泊先で接待をしたこともあるらしい。
そして最後が、あの、彼。薄い色のサングラスは、今はつけていない。
「俺はユキ。同じく三年」
三年生は二人とも背が高いが、ユキのほうがほんの少し低いだろうか。
よろしく、よろしくお願いします、とそれぞれ元気に締めくくられた。
こちらも簡単に自己紹介をする。最初はもちろん麗華だ。
「私たちは全員、二年生ですわ。私は神宮司麗華。もう自己紹介の必要はありませんわね」
くすりと笑うと、
「みなさんは名前だけでよろしいですわ」 次を促した。
麗華様と普段一緒に行動するのは三人。いわゆる取り巻きではなく、ちゃんと友達だ。どうしても麗華をリーダーとして扱ってしまうのは、三人とも麗華のファンと公開しているから。麗華は学校の中でも数少ない、ちゃんとしたお嬢様なのだから。
「わたしはいづみです」
「私は澄子です」
「菜穂です」
全員名前だけ伝えるだけで、吹の番もすぐに来てしまった。
「ふい、です」
名乗るのは得意ではない。苗字でも嫌だ。名前も。ぼそぼそと、小さい声が人工的に作られた霧に吸い込まれていく。
「えっとぉ?」
イチが首を傾げた。それはそうだ。もともと聞き取りにくく間違えられやすい名前。すみません、と言おうとしたら、
「ふい、だそうだ」
ユキが言った。
届いていた。小さく頷くことで、そうです、と示す。
「みんな綺麗な名前だね」
「名は体を表すってやつですね」
そうだ。みんなきれいな名前をしている。わたしは、名前のとおりだ。
嫌な記憶が蘇る。
……ふいがしゃべると、
……ふいのなまえは、
……ふいは、
誰の声かはもうわからない。頭のなかでずっとずっと、反芻するいくつもの言葉。
「中へ戻るぞ」
突然の声かけは、ユキの口からだった。時間に限りがあると言っていたから、もうその時間なのかもしれない。
「おいユキ、誰に対して言っているのかそれじゃわからない」
「ふい、……さん」
呼ばれた。名前。あたたかい、声だった。
ゆっくりと顔を上げると、体をかがめて視線を合わせようとする顔と、手の平があった。大きくて、でもどこか遠慮している手。瞳は髪で隠れてしまっているが、こちらを気遣ってくれているのがなぜかわかってしまう。
「明日も朝の出発前に羽織を返されても困る」
「ユキさんそれ、なんか今朝の文句言われてるみたいに感じられてしまいますよ?」
「訳すと、もう一枚貸しましょうか、でもまた直接返すのはお手間でしょう? ですよね」
「たしかに顔色が優れません」
「ユキ、さっさとお連れしろ」
吹は、麗華たちが勇気を出して作り出した時間を、自分のせいで壊してしまうのが怖くて、動けない。
「ふいさん、大丈夫?」 麗華が心配してくれる。
「一緒に行きます」
三人も気にしてくれた。なのにそれが本心なのか疑ってしまう自分がいて、顔を上げられない。もっと縮こまる肩と下に向いていく顔。
「いやいや! ユキさんに任せてマジだいじょぶ」
「またお会いできるかわかりませんし、もう少しみなさまのお話聞かせてください」
麗華たちと吹の両方を尊重する言葉が、この場を保たせてくれた。
「早く行け」
「お大事に」
おずおずと立ち上がる。途中で抜けようと思っていたが、こんな形になるとは考えもしなかった。
目の前にあった手の上に自分の手を重ねることは憚られた。いや、できなかった。わたしの手なんて。結局大きな手はすっと本来の位置へ戻っていく。
「……おやすみなさい」
麗華たちからの挨拶に小さく手を振ることで返し、背を向けた。
そっと、両方の肩に手の感触を感じる。顔をあげて斜め後ろを見ると、
「行くぞ」
とそのまま言ってきた。
あ、ユキさんだ。
手は、押すのではなくそっと乗せられていて、空気を挟んで抱えるような感覚で吹を支える。近づきすぎないが、なにかあったときにすぐに抱えられる、そんな距離感。
たくさんの気遣いをいただいたのに、なにも返せなかったことを申し訳なく思い、また視線は下に落ちる。
庭園から室内へ入った。あたたかい。
外が寒かったわけではない。心配してくれたとき、すぐにそう言えればよかったのに。後悔がどんどん心の中で重みになっていく。
「なにかあったか」
大丈夫? と聞いてくれれば、大丈夫と答えられたのに。もう、大丈夫なはずだから。一人で部屋に戻れるから。その問い方は、ずるい。どう答えればいいか、わからない。
「ごめんなさい」
蚊の鳴くような声で答える。もう、謝罪の言葉しか出てこない。
ユキは吹の歩幅に合わせて歩いてくれている。吹は今、罪悪感もあって、もともと小さい歩幅なのに足を動かすペースも遅くなってしまっている。重い。なにもかも。ユキはさぞかし歩きにくいだろう。しばらく間があった後、
「風呂に入って、あたたかくして寝ろ」
ぽん、と頭に手が移る。
「わたし、は、子供、ですか」
「それが言えるなら問題ないな」
表情が読めなかった顔に、一瞬だがなんとなく、笑みが浮いた気がした。反論できるくらいになった、という安心の、それ。
そのままなにも話さずに部屋へ到着した。
「ご迷惑を、おかけ、しました」
まともに顔が見られない。あの人たちはきっと今頃、楽しくお話しているだろう。
「迷惑じゃない。心配だ」
つい顔を上げてしまう。背の高いユキの瞳が、下から見えた。惹きつけられる。
「おやすみ」
「おやすみ、なさい。みなさん、に、も、その、お気遣いへのお礼、を、伝えて、いただけます、か」
「承知した」
見えなくなるまで見送ろうと思い、部屋には入らないでおく。
と、ユキが立ち止まり、片足を引いた。右の頬が見える程度に。
「言い忘れた」
お風呂のことだろうか。厚着をしておけ、とかだろうか。
「いい名前だな」
え。
「ふい」
どくん、と胸が大きく動く。
大きな背中は、どんどん小さくなっていった。
二人で庵から出ていく様子を、全員がしっかりと見ていた。同級生からは、わぁ、と羨望の眼で見られていたことを、吹は知らない。
「先輩、帰ってこないでしょうね」
「だろうな」
そんな会話に、
「なぜですの?」
麗華が素直に尋ねる。気になることをあやふやにしないところは麗華のいいところだ。
「ユキさん、大人数苦手なんだ」
「これでも大人数なんですか?」
さっきの二人を含めれば、ちょうど十人だ。多いとも少ないともいいにくい。
「いろいろあってな」
麗華もこれは踏み込んではいけないやつだと判断して、そうですかと引き下がる。
「わたくしたちもそろそろおしまいにしましょうか? たしかお時間が」
「まだ早いよ」
「でも冷えてきましたよ」
「お話ししながら庭園をお散歩とか、どうかな?」
本当はもっと話していたかった女の子たちは、嬉しそうに目を輝かせる。
「はい、よろしいのであれば、ぜひ」
そこそこ広い庭園内を、ゆっくりとまわりながら会話を楽しんだのだった。
コウシのところには、部屋に戻っているというユキからのメッセージは届いていない。連絡がないのは珍しいと思っていたら、
「部屋に送ってきた」
後ろから声があった。
「珍しいな、てっきりあのまま部屋に行くのかと思ってた」
「伝言を頼まれた」
それを言うためにわざわざ帰ってきたのか。やつらしい。
「あ、おかえりなさい」
「ふいが、礼を言っていた」
何に対してのお礼なのかは、それぞれが思うように受け取った。お礼のことより、すでに呼び捨てになっていることを気にかかる。
その後、全員そのまま庭園をまわって別れたのだった。少なくとも麗華たちにとっては、とても有意義であり夢のような時間となった、二日目の夜。
星々から降り注ぐ光は、彼女たちのきらきらした笑顔の明るさに、今夜ばかりは負けてしまっている。