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4.

 早朝。時間は四時頃。

 思ったとおり、隣には誰もいない。もう一枚あったはずの布団もない。ほんのり寒いのは、まだ朝早いからだろう。


 独りということに、少し安心してしまう。早朝にがさがさと音を立ててしまうと、もう一人を起こしてしまう。同室の生徒たちは昨晩、談笑していた。寝室はしっかり防音されていて話の内容までは聞こえてこなかったが、会話をしていることだけはわかった。そして、楽しい、ということもしっかり伝わってきた。せっかくの修学旅行、夜に布団のなかで笑いあうのは物語のなかだけではなく、現実でもあることだった。


 朝の気温はほんのりと冷たい。昨夜とはまた違った冷たさだ。今朝は昨日の失敗を活かし、肌寒いと感じることのないよう、部屋の備品である丹前を忘れずに羽織る。それと共同の浴衣を(とう)の籠に持ち、昨日着ていた朝顔の浴衣を身に着けた。寝巻は絹で作られたパジャマを使わせてもらった。さらさらと手触りがよく、眠るにはちょうど良かった。もちろん浴衣で眠っても問題はないのだが、それは選択肢にない。さすがにパジャマで部屋から出るわけにはいかないため、昨日の浴衣に着替えている。


 まだ太陽は出ていない。暗い空には、昨夜より輝きが薄くなってはいるものの、昨夜は見えなかった星が浮いている。太陽がおはようと顔を出せば、星たちは眠りにつく。見てくれる人がいなければ、たとえずっと輝いていても、星だって休憩をとりたくなるだろう。早朝と思っていたが、まだ夜と言っていい時間帯。ほとんどの人が寝ているのだから。眠そうになってきた星には、もう少しがんばってもらいたい。じき陽が昇る。これなら両方見られる。

 (ふい)は最上階まで急いだ。息が上がりそうなのと同時に、気持ちも高まっていく。


 到着したのは混浴の入り口だ。暖簾はかかっている。小さく中を覗くと、幸運なことに誰もいない。昨日の話を聞いてしまったから、男性側のことが心配ではあるが、この時間にここへ来るとしたら、目的は同じ可能性が高い。とすれば、彼女たちと同じ目に合うことはないと思いたい。


 用意されている湯着(ゆぎ)に着替え、露天風呂へと踏み出す。外の空気は思った以上に冷たく、つんと肌を刺してくる。しかし、湯気が早くおいでと招いている。美しい景色と有名な混浴だからこその配慮だろう、星空を邪魔しないよう電灯は蝋燭の形になっていて、最低限の明るさで仄かに揺らめきを放っていた。まだ暗いため、足を滑らせないよう気を付けながら岩の湯船へ向かう。

 足の先を湯に入れて、足元を確保してから空を見上げる。星がまだ輝いている。


「きれい」


 まだしばらくの間ここにいることになる。のぼせることのないよう、しっかり浸からずにおく。入り口から一番遠い場所にあった岩に腰かけた。高さもちょうどいい。寒さはお湯を桶で腕にかけることで凌ぐ。ふわふわと上り消えていく湯気は、きっと星の布団になり、太陽の目覚ましになる。


 見上げる先は、紺色の地に白い模様。昨日のわたしの浴衣みたいだな、と思った。きらきらと輝いているところだけが違うところだ。一人でこんなにきれいな夜空を独り占めできるなんて、幸せだ。

 ずっと上だけを見ていた。


 どれくらい見上げていただろう。だんだんと空が白んできている。気づけばお湯をかけることさえ忘れていた。


 目的の二つめを見られる。

 入り口側に移動する。もう湯に映し出されるのは蝋燭の光ではなく、白んだ空の色だ。岩から下りて、肩下のあたりまで湯に浸かる。

 夜色の景色が、蝋燭から代わってランタンの色に染まっていく。

 きら、と太陽が顔をのぞかせた。ちょっとまぶしい。輝いていた星々が、出番交代、と太陽に主演を譲る。


「おはようございます。 ……きれい」


 太陽に向かって挨拶だ。


 そのつもりだった。


「おはよう」

「?!」


 返事があるとは思わなかった。それも、男性の声で。だって、「おはよう」は太陽に向けたはずなのに。すぐに肩までお湯に浸かる。


「え? あ、お、おはよう、ございます」


 ちらと隣を見ると、挨拶に挨拶を返したはずなのに、さらに挨拶が返ってきたことに首をかしげる男性の顔があった。

 それは、昨日丹前を貸してくれた、あの男性だった。


「きれいだな」

「……きれいです」

「きれいしか言葉が出ないのか」

「え」


 いつからいたのだろう、この人は。


「昨日からこれを見たがっていたな」


 なんでそれを知っているの、この人は。


「朝も冷えるぞ」

「今は、あたたかい温泉に、浸かって、いますの、で」


 言い方がどこか嫌味に聞こえてしまって、つい言い返してしまった。そういえば、こんなに長く会話をしたのはいつぶりだろう。


「体を冷やすなよ」

「わかってます」


 男性は帰ろうとする。あ。


「丹前、返しますから!」


 聞こえたのか聞こえないのか、男性はそのまま消えてしまった。今持っていればよかったと思ってももう遅い。次、朝食を摂るときは持ち歩こうと決めた。

 太陽はすっかり昇りきって、朝だよ、と陸に目を覚ますよう呼びかけた。






 展望窓でたまたまあの子を見たとき、見たいと言っていた。星も、太陽も。独り言だったと思う。自分でさえ、口にしていたことに気づいてなさそうだった。それはいい案だ、と自分も行ってみることにした。早朝なら人も少ないだろう。夕食後の夜では、混浴は混んでいるに違いない。実際、仲間たちの話によれば、女の子たちが多くいたという。行かなくてよかったと思っていた。


 今朝、混浴には先に浸かっていた。先客がいる気配はなく、来ないだろうと思っていた自分の勘は当たっていたと思った。なのに、少し経ったらとカラカラと反対の扉が動く音がした。人が来たのだ。自分がいることを悟られないように気配を消して、静かに空を眺めていた。


「きれい」


 あの声だ。すぐにわかった。年頃の女の子が同じく年頃の男と二人きりで混浴にいたいとは思わないはず。こっそり出るべきかと思ったが、相手はこちらに気づくことなく岩に腰掛けて夜空を楽しんでいる。このままでいい、と思った。


 空が明るくなってきた頃、岩に座る彼女が体を捻ったのがわかった。その動きに反応し、つい見てしまった。きれいだ、と思った。白い湯着がオレンジ色に染まっている。しっとりと湿った髪が艶やかに光る。

 はっとしてすぐに視線を逸らした。


「きれい」


 何度も聞いた。それだけでこの景色も十分嬉しいだろう。


「おはようございます ……きれい」


 突然挨拶が聞こえて、自分へのものかと思い答えた。そしたら戸惑った様子の返事がさらに届く。このかんじだと、最初の挨拶は誰へのものだったのだろう。

 しまったと思ったときにはもう遅い。夜が明ければ人の姿が認識されてしまうことは確か。そうしたらすぐに退散しようと思っていたのに。


 なんとかこの場を埋めるためにいくつかの言葉を交わしたが、なにを言ったかはよく覚えていない。最後、脱衣所へ戻るとき、返しますから、と背中から聞こえてきた。


 返す? 無理だろうな。





 (ふい)は新しい浴衣に着替える。共用のもので、山吹色の地にところどころ、緑と橙色の繊維が浮き出ている。

 部屋に戻ると、三人は昨日とは違う模様の浴衣に着替えている。


「おはよう」

「「おはよう」」


 目に入った持ち物からして、大浴場に行ったことは明らかだった。特になにも尋ねられないし、尋ねない。この後は朝食だ。


「今日はバイキングだっけ?」

「そう! 自分でなんでも選べるなんて、幸せ!」

「一回やってみたかったんだ~」


 個室での朝食のほうが高級なのが一般的なのに、バイキング形式を喜ぶ彼女たち。やっぱりそうなんだ。

 昨夜の夕食は藤の間で囲炉裏を囲んだコース料理だった。今朝は和洋中なんでもあるバイキングで、しかも他の客と一緒だ。明日の朝は再び個室でお膳だと聞いている。

 吹とすると今朝も個室のほうが嬉しいが、学校とすると他の人がいる環境も味わってほしいという考えらしい。


 バイキングは立ち座りが激しいため、大きな荷物は控えたいところだが、さっきの後悔からあの男性に借りた丹前を入れて籠を持つ。部屋を出ようとする三人に続いて、吹も会場へ向かった。朝の宿の中も爽やかで、ほんのりと元気な色がある。温泉で温まった身体はまだほこほことしていて、これからの食事を楽しみにしている。


 会場はいっぱいだった。朝食後の集合時間に間に合えば、いつでも朝食を食べていいこととなっている。ちょうど他の客も多くいる時間帯にあたってしまい、席もバイキングコーナーもぎゅうぎゅうだ。


「わ、人多い~」

「ね。あ、でもあんなに食べ物あるよ!」

「迷うね!」


 カウンターコーナーの端に空いている席を発見。すぐに“食事中”の札を立てると、食べ物を取りに行った。食事は和を中心にはしているが、和洋中なんでもあり。せっかくだから、旬のおこわと豚汁、卵焼きなどのおかずをいくつかピックアップして席についた。


 おこわはお釜から溢れ出す香りに惹かれて選んだ。香りって大事だな。もち米は固すぎず柔らかすぎず、もちもちとした触感がちょうどいい。見た目はなんとなく塩辛そうな色合いなのに、しつこさがなく、山菜がこりっとアクセントを与えてくれる。

 豚汁も豚バラ肉からしっかりと出汁が出ていて、ごろごろと大きめに刻まれたたっぷりの具材がうれしい。じゃがいもが具材のひとつとして選ばれることが多いが、ここではさつまいもを使っていて、意外な嬉しさがある。どうしても茶色っぽくなってしまう汁物を明るくしている。

 他のおかずも、これぞ和食と思えるおいしいごちそうだった。朝から幸せを噛みしめる。


 あとはデザートをいただいて部屋に戻ろうと立ち上がると、一組の家族がバイキングの列に並んでいるのが目に入った。幼稚園くらいの男の子が両親の足元にくっついている。


「転ばないようにね」

 小さく声が漏れた。


 男の子は食事を皿に乗せる両親を待っているのに飽きてしまったのか、二人のもとを離れた。両親はおかずを取るのに夢中で気づいていない様子だ。

 男の子の視線の先には、吹が向かおうとしているデザートのコーナーがある。果物もアイスもケーキもありカラフルで、惹かれるのは子供だけではない。吹も事実、惹かれてしまってこれから行くところだった。

 男の子がデザートコーナーへのその途中、バイキングの品を追加するための厨房につながる扉があるのが見えた。吹はすぐに動いた。


 急ぐ男の子が躓く。暖簾越しに出てきた汁物の鍋を持った従業員が、小さな身長を捉えられず男の子に足をとられ、男の子に熱々の汁がこぼれる……

 男の子が躓いたその瞬間、吹は後ろから男の子の腹を片手で抱えるように支えた。

 間に合った。

 失礼いたします、と鍋を持った女性が頭を下げて前を通り過ぎていった。

 ふぅ。


「お姉ちゃん、ありがとう」 礼を言ってくる男の子に、

「どういたしまして」 にっこり返す。

「ご両親は、どちらですか?」

 わかっているが尋ねると、男の子は指さした。

「一緒に甘いものをとりに行きましょうか」

 顔を明るくして走り出そうとする男の子に

「ゆっくり歩きましょう。デザートは逃げません」

 男の子はうん、と言って人を避けながら歩いて向かう。賢い子だ。もう大丈夫。


 食べたいものを尋ねて一緒にお皿に乗せ、をしていると、両親が声をかけてきた。またも礼を言われてしまった。余計なお世話かもしれないと思いつつ、伝える。

「なるべく一緒にいてあげてください。わたしより、ご両親と一緒のほうがいいお顔してます」

 目を離すな、とは言いたくても言わない。この両親もこの子のために動いていたのだ。二人のお盆には、子供が好きそうな料理がたくさん乗っている。


 自分のデザートをたくさんお皿に乗せる。果物、ケーキ、アイス。できるだけ全種類を少しずつ。お皿がいっぱいになった。朝から幸せをこんなにチャージできる。個室での食事を望んでいたが、バイキングもなかなかいいなと思った。

 食べ終えると、同じ部屋の三人はまだ朝食を楽しんでいる。先に部屋へ戻ることにした。籐の籠を持つ。


 出会えなかった。せっかく持っていたのに。

 ここで会えるのでは、と少し期待していた。現実はそううまくはいかない。そう、準備していないときにいて、準備しているといないものなのだ。


 直接は難しいと判断し、ロビーへ向かう。事情を話すつもりだ。あの人が貸してくれた丹前は、部屋の備品。使わなかった化粧用品などのアメニティのように、持ち帰ることはできない。数が合わなかったら宿の人が気にするだろう。いくらなんでも宿側が相手に連絡することはないと思うが、伝えておくに越したことはない。もしものときを考えると対策は必要だ。善意で貸してくれたのに、迷惑をかけるわけにはいかない。


 一階へ向かう。二階から一階は、入り口の目の前にある大階段を使った。まだ出発には早い時間だからか、ロビーに人は少ない。空気を遮るものが少なく、どこか動きやすさを感じる。

 そこへ、男性の声が入ってきた。


「準備はいいか?」

「おう」

「切り替えしました」

「ここから仕事ですね」

「はい」


 あの人の声が聞こえた気がする。ついさっき、あの男の子に歩いてと話したばかりなのに、自分は小走りで靴棚に向かう。玄関からは隠れた靴棚のコーナーに、男性が五人立っている。正装と言えるような、なんというかしっかりした服装をしている。


 ――いた。


「あ、あの!」


 ちょうど出かけるとき、こんなところで渡されても困るのはわかっているのに、勝手に声が出てしまった。ロビーに預けておきます、と言えばいいのに。


「これ、ありがとうございました」


 おかげで温かかったです、と彼へ差し出す。

 彼は、ぽかん、としていた。


「?」


 一時(いっとき)の間があった。


「あ、ああ。わざわざどうも」

「あ、あの! 失礼、します」


 なぜだろう、勝手に体が動く。声が出る。

 丹前を受け取ってもらった後すぐに、彼がしていたサングラスに手をかけていた。

 するりと外す。目が、合った。

 きれいな瞳。


「あなたの眼は、人を惹き付けてしまうみたいですね」


 吹の視線はサングラスにあったため、彼の表情まではわからなかった。でも、彼がまた驚いたのは伝わった。


「悪いものを、引き寄せませんように」


 サングラスのレンズにそって、手を滑らせる。もちろん実際に触れてはいない。


「あの、その、し、失礼、いたしました」


 丹前を腕にひっかけた両手に、サングラスを返す。


「気を付けて、あの、いって、らっしゃい、ませ。えと、良い一日に、なりますよう、に」


 ではまた、とぺこりとお辞儀をして、すぐに踵を返す。

 あの男の子に言ったのもあって、今度は歩く。本当は、すぐにでもあの人たちから離れたかった。走っていきたかった。どくどくと脈打つ心臓と同じくらいの速さで、走っていきたかった。


 なんてことをしてしまったのだろう。

 なぜか、口が、体が、勝手に動いてしまった。

 不快に思わせてしまわなかったか、心配でならない。丹前のことなら他の方法もあったのに。そのうえ他人様(ひとさま)がかけているサングラスを勝手に外すなんて、とんでもない話だ。


 とりあえず人の眼から離れたとき、


「吹さん?!」

「あの方たちとお知り合いなの?!」

「なんで?!」


 クラスメイトに捕まった。どこからか見ていたのだろう。


「さっきの人たち、すごいかっこよかったよね?」

「シュッとしててさ」

「執事みたいだったよね」

「王子様でしたわ……」


 顔を赤らめる麗華は、王子様に恋するご令嬢そのものであり、本物だ。


「う、うん、かっこよかった、ですね」


 この流れのまま、するりと会話からフェードアウト、部屋へ逃げようと思った。一歩片足を引いたところで、腕を捕まれてしまう。


「なにをお話ししていたの?」


 答えないわけにはいかない。クラスのリーダー格でありご令嬢に嘘をつけるはずもない。


「えっと、あの、昨日、食後の自由行動の時、あのなかのお一人が、その、丹前を貸して、くださったんです。お返し、してまし、た」


 わざわざ直接返しに行った理由を、この人たちは理解してくれるだろうか。あざといとか抜け駆けとか、男性には積極的とか、そんなことを思われてしまう気がしてならない。

「それだけ、です」

 それだけ、を強調して口を塞ぐ。余計なことはしゃべらないほうがいい。


「まあ!」

「優しいかたですのね」

 吹が直接返したことよりも、彼女たちはあのなかの一人が丹前を貸してくれたことに焦点を当てた。

「次に会えたら、こちらからもお礼申し上げないとですわね」

「それはいいね」

 吹をダシにお近づきになる作戦を練り始めた。

「それでは、あの、わたし、戻りますね。」

 一歩下げた足を、止める声も手もなかった。


 ふぅ。

 なんとか乗り越えた。次に一緒に来るよう頼まれたときの断り方を考えておこう。

 そういえばあの人もまわりの人も、ひどく驚いた様子だった。なぜだろう。自分の行動を顧みると、もちろん恥ずかしいことをしたと思う。今すぐにしゃがみこんで顔を抑えたい気分。でもそんなに驚くことだったろうか。サングラスのことはさておき、借りたものを返しただけなのに。

 そう、ただそれだけなのに、体が朝の温泉から出たとき以上に熱く感じるのは、なぜだろう。






 あの子が足早に去っていく。手元には茶羽織だけが残る。この服装に茶羽織をかかえているとは、なんとも似合わない。

 直接返すのを選択した理由はわかる。タイミングが良いとは言えないが、こちらへの気遣いだ。


「なぁ、あの子誰だ」

「昨日、河原で羽織貸した」

「ああ、あのときですね」

「わざわざ追いかけてきたってことっすか?」

「いや、たまたま。だと思う」

「なんだよ思うって」

「どんな子でしたか?」

「うまそうに団子食ってた」

「だんご!」

 ははは、と軽い笑いの後、

「なんでわかったんだ」

「それっすね」


 あのときは普通の格好をしていた。髪をおろして、浴衣を着て。観光客のひとりとして存在していた。でも今は、仕事着を着用し、髪を上げて整えている。サングラスに見える色付きの眼鏡までかけている。全員が昨日とはまるで違う風貌をしている。特に自分は、サングラスで顔は見えにくい。昨日は下ろした前髪で目元は隠れていた。今朝も顔さえ合わせなかった。なのに。


「身長とかっすかね?」


 混浴で後輩たちが会ったという女子高生たち。この服装になった後すれ違ったらしいが、その際視線が合ったのに同一人物とは認識されなかったという。それほどなのに。


「なんか不思議ちゃんっすね」

「サングラス、なにしてたんでしょう」

「おまえのこと知ってるみたいな言動だな」

「……」


 自分の気にしているところがある。とても気にしている。今までの経験から、ある種のトラウマでもある。それもあり、仕事で主人の前にいるとき以外、外からレンズの向こうが見えない程度の薄い色眼鏡を付けている。


「あの子、バイキングで男の子助けてましたよ」

「見た! アブねって思ったけどだいじょぶでよかった~」

 転びそうになった男の子を支え、従業員にぶつかるのを避けたという。

「たしか、転ばないで、とかなんとか言ってましたね」

 独り言が多い子のようだ。

「おい、話は終わりだ。おまえはそれ置いてこい。戻ったら行くぞ。遅刻する」

「おう」

「「はい!」」


 茶羽織を受付に預けると、全員で宿の外へ向かった。目も、雰囲気も、振る舞いも、靴棚で話していたときと違うものとなった。


 しっかりと太陽が昇った時間。さあ仕事だ、と太陽は彼らのもう一つの顔を照らしてきた。


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