38.
幸と巧は、時間通りに孝支の職場へ赴いた。スーツ姿の二種類の美男子がいたら、誰もが目を奪われる。特に女性の視線を辛いと感じてしまうこの二人。だんだん慣れてきたとはいえ、やはり辛い。
「お、待ってたぞ」
片手を軽く持ち上げて寄ってくる孝支。待っていたということは、始業時刻より前にここへいたか、自分たちと時間が違うかのどちらかだ。孝支のことだから、人手不足の今をどうにかしようと前者に違いない。
「必要な情報は頭入ってるな」
「はい」「おう」
近況、スケジュール、設定、相手先についてまで、重要なことはひととおり調べて共有してある。
「おまえは休んだほうがいい」
見せないがやつれた気がする孝支に言うが、初日のおまえらを置いていけないと応じてくれない。
「お願いしたのはパソコン使う作業だけだから」
実際に動くのは孝支。それを聞いて、事務を行うのがこの二人。スケジュールに合わせて場所を予約、調整、相手先の情報収集など。
女性秘書もいるが、彼女たちは同じく事務作業が多い。体術があるものだけが、代表取締役の近くで仕事をしている。なにかあったときのことを考えているのだ。女性は訪ねてくるお客様の相手をしながら情報収集をし、またはお茶くみをし、その時々に時間を稼いだり早くしたりと調整をしている。そして同じように情報を書き出す。秘書というより、職員の補佐のように感じられるが大切な立場だ。
孝支の勤め先は中小企業のリサーチとエムアンドエーをする会社。業界内では大きい。そんな会社の代表取締役の隣で、入社して一年も経たない彼が動いているのは素晴らしい功績だ。
「気に入らないやつもいるみたいだが」
仕方ない、と割り切っているところがまたかっこいい。
「じゃ、これ頼んだ」
書類をぼんと二人の胸に押し付けた彼は、細かい指示もなくすぐに離れた。個別に場所を用意してくれているのは、彼の心遣いである。
「やりますか」
「おう」
さくさくと仕事は進むが、途中でちまちまと連絡が入り、返事をし、また続きから始めるとさらに連絡がきて、が繰り返される。仕事が滑らかにできるはずの二人でも、思ったより早くは進まない。
研修は行っているが、本職の実務となるとまた違うんだと巧は感じた。秘書になるつもりはなかった幸も、孝支のすごさがわかる。
「あいつ、体壊さないか心配になるな」
「そうですね」
夜になっても帰らない孝支。社長はフットワークが軽く、自分が動くことで社員の背中を押し、さらに取引先からの信頼を得ている。それについていく孝支は重労働だ。
時間はとうに終業時刻を過ぎている。
「そういえば」
終業時刻後はやらなくていい、と言われていても、孝支が働いているのに終わらせることはでいない二人は、ペースは遅くしても手は止めずにいた。だが、会話が入る。
「どうですか、吹さんと」
「うまっくやってる。多分」
「たぶん……」
たぶん、というのが引っかかるが、どうにかなっているということだろう。
「そうだ、これ」
巧が首を捻る。これ、というのは幸の手に乗っていた。白いハンカチだ。スーツのポケットに入れられる、薄いもの。なんだろうと見ていた。
「あ」
そこには、ローマ字でTAKUMIと刺繍が施されている。
「ほれ」
どう見ても不満を顔に出している。
「これはなんですか」
「ハンカチだ」
見ればわかる。そうではない。
「吹が、おまえのために刺した」
「吹さんが?」
今日のために、吹が刺してくれたそうだ。
「孝支に渡すの忘れた」
本当に忘れたのだが、巧はわざと忘れたのではないかと思ってしまう。
「お守りだと。持っておけ」
「ありがとうございます」
あとでお礼のメッセージを送っておこう。吹が渡してくるのだから、なにか意味がある。
その日、遅くに帰ってきた孝支にもきちんと渡していた。孝支はからかう元気もないようで、どうもと受け取るだけだった。
同じような仕事をするのは慣れてきて、二人のペースはどんどん早くなる。連携もとれてきて、うまく穴を埋められてきた。ちょうど年度末のための準備に入っている会社としては、今は修羅場だ。
別の部屋を手配してもらったとしても、がんばって働く学生二人が目に入らないはずがない。他の秘書たちも、同じ職場の人間も、だんだんと二人を意識し始めた。若いうえに容姿の整った男性ということで目を引き、さらには思った以上に有能。女性からの視線は関わりたいと思うものが多く、ばりばり働く男性社員からすると、年下のくせにと悔しがる気持ち。だんだんそれが強くなっているのがわかる。
巧はお手洗いに行った帰り、女性陣に捕まった。この忙しいのに群れる女性たち。ちょうど昼休みの時間だったため仕方がないが、悪いタイミングだった。
「若いのにすごいね」
「アルバイトにしておくのもったいない」
「かわいい~」
そんなかんじで年上の女性からたくさんの声がかかる。早くここから抜け出したいが、うまくやらないと孝支に影響があるかもしれない。どうしようかと愛想笑いで流していた。
「あれ、それ」
一人が目を落としたのは、使っていたハンカチだ。吹の刺繍が入ったあれ。
「もしかして」
「彼女?」
きゃ~、と黄色い声があがるのを覚悟した。男子のなかでは女性からするとかわいいに当てはまってしまうのを自分で知っているが、本人からすると嬉しいことではない。またか、と思っていたのに、空気が静まった。
「そっか」
「彼女いたんだね」
「そうよね~」
興味を失くしたように、女性たちは離れていく。見ると、ハンカチの刺繍の糸一本が、ぷつんと切れていた。
これも言霊の力なのか。
たぶん吹が助けてくれたと伝えたら、必ずお礼を伝えろと強い口調で幸に言われた。ハンカチ自体については、その日に伝えてある。
「おかげさまで、女性たちから逃げられました」
その返事は、役に立ってよかったです、だけだった。ということは、吹はなにかしていたのだ。
吹は糸に力を込めた。コントロールの練習を兼ねていたが、本当に孝支と巧を守りたかったのが大きい。糸は、縁。吹にとっては大切なもの。切れたのは、巧が嫌と思う環境や相手との縁が切れたからだ。
幸に渡さなかったのは、幸にはそれが必要ないと思ったからで、二人を優先したわけではない。幸に大切にされていることを吹は自覚している。悪いものは、そこに刺繍やらなにやらがなくても寄らない、とあのときのおまじないでしてある。
翌日、女性たちにちやほやされていたと男性職員たちに絡まれたときも、それぞれに仕事が入ったりその人たちが上司から呼ばれたりといろいろあって、ぷつんと切れた。吹はすごい。幸は自分がいるせいで悪いものを引き付けると思っていたが、それは幸のせいではない。容姿に加え、能力もある人間に嫉妬心を抱く者も羨望を持つ者も多いのだ。容姿はともかく、能力は自分自身の努力で磨いてきたというのに、嫌味なものだ。
それは孝支にも当てはまる。代表取締役の近くにいる数人のうち、ひとりから強い目で見られているのを本人は知っている。もちろん、数日見ただけの幸も巧さえも。社長が近くにいないときだけなのがまた性質が悪い。のらりくらりとかわしてきたが、疲れもたまった今、限界に近づいていた。
「おまえ、ああいうときはな」
またちょっとしたことでああだこうだ言ってくる。意地悪もある。押し付けもある。上から目線の偉そうなものいいを、右から左に流すのも大変だ。
「承知しました。気を付けます」
いつもこうして納得させているのだが、相手も心身ともに限界だったらしい。おざなりになってしまった。
「聞いてるのか?!」
怒号がとばされる。
「いつもクールを装って、聞いているふりして、オレを馬鹿にしてんだろ!」
秘書として、この態度はどうなのだろう。
「社長と女性に色目使いやがって! 何様だよ!」
「馬鹿になどしていません。すべき仕事をしているだけです」
かぁ、と相手の顔が赤くなる。孝支とすれば、フォローをしているのは自分のほうだ。ことあるごとに社長の近くで囁いてなにかしているふりをしている。会話を止めているも同然だ。そして女性と男性との態度があからさまに違うのもおまえだろ。
「オレが第一の秘書なんだよ! 思いあがるなよ!」
胸倉をつかんでくる相手を、軽く投げ飛ばしてやろうかと思ったそのとき。
「思いあがっているのは君のほうだ」
重い声が響く。さぁ、と先輩の顔から血が抜け、手もほどけた。この声。孝支の後ろに社長がいる。
「君は向上心が強い。そこを期待していた。だが孝支君が来てから変わってしまった」
自分の地位を脅かす若者がきた。そして実際に自分より若くして同じ位置にいる彼に、焦りと屈辱を覚え、仕事に影響させている。
「そ、それは」
「君は少しの間、事務に戻りなさい」
先輩は、はい、としか答えられなかった。口答えなどできない。仕事について必要なことは意見をできるが、自分のことについて指摘されたたことには、なにも言えない。そして彼には、自覚があったのだ。
「失礼します」
「お疲れさま」
とぼとぼと出ていく先輩。一気に毒気を抜かれたのか、影が薄く見える。
「情けないところをお見せしました」
申し訳ございません、と頭を下げる。
「いやいや、最近はひどかったから」
気づいていたことに感心と驚きだ。もう一人の先輩も、いざこざに巻き込まれなかったことを安心している。
「なぜこちらに」
尋ねてみると、ぺら、とハンカチを渡された。
「これが落ちていたからね、名前も刺してあるし大切な人からもらったものかと思ったんだ」
吹が刺してくれた、名前の刺繍が施されたハンカチ。これは、縁を切り、つないでくれた。
「届けに来たんだ。労いと一緒にね」
そしたら怒号が聞こえてきたという。
「あと少しでこの忙しさも終わる」
たくさんの会社への訪問が、終わる。
「もう少し、力を貸してくれ」
「喜んで」
孝支も吹にお礼を伝えた。返事は巧のときと同じだった。
「ちなみに、アルバイトに雇った彼らは引き抜けないのかね?」
先輩はどきりとした。孝支の友人、後輩だと自分も抜かされてしまうという心配がある。
「一人は難しいです」
幸はもう道を決めてある。
「もうひとりは、わかりません」
たぶん、この仕事をして社会の難しさを実感しただろう。となると、どう考えるかは彼次第だ。思った以上に負けず嫌いな巧だ。やるかもしれないし、やらないかもしれない。
「そうか」
それだけ言って、部屋を出た。急いで直帰の社長の見送りに行ったのだった。
「ほんとに、彼たち来ないよね?」
傍での仕事を離されたあの先輩とは違う、もう一人の先輩が尋ねてきた。
「後輩のほうはわかりません」
ああー、と頭を抱える先輩は、優秀であり、心配性だからこそ準備を怠らない人で、頼りになる。
「先輩が戻ってくるまで、ご指導お願いいたします」
「え、君に教えることなんてまだある?」
認めてくれるのは嬉しいが、この業界でやっていけているのだから、メンタルは相当強い。そして疲れもあまり見えない。自分はあの先輩の口をうまく流せなくなるくらいだったのだが。
「ほら、君も帰って寝なよ」
「はい」
こういう気遣いもできるから、この人の上にはまだまだ行けないな、と思った。
あと五日。あの二人のおかげで、乗り越えられる。
アルバイト中は忙しいらしく、一日一往復くらいのメッセージ交換しかできていない。お昼休みと思われる時間帯も連絡はなく、夜遅くに遅くなってごめんと届くくらい。声を聴けないというのは、思った以上にさみしいものだった。大学に入って同棲を始めて、いつも隣にいたからさらにそれが大きい。
「仕方ないよね」
「許してあげて」
仕方ないのはわかっているし、許すも何も怒っていないから、恵一と仁志の励ましはちょっとずれている。ただ吹を元気にしようということは伝わってきたため、うん、と頷いて答えるだけだ。
「気晴らしに、おでかけしますわよ!」
「いえー!」
麗華の誘いに恵一も乗って、警備として仁志もついて、四人で出かけることになった。先は、河津桜がきれいに咲いている通りだ。
「わぁ」
歩いて通る道がある。ゆっくりと歩んでいく。ちょうど天気もよく、青い空に濃い桜色がよく映えた。そろそろ終わりの時なのか、風がふわりと花びらを散らしていく。ソメイヨシノの薄紅色だったら太陽の光に溶けてしまいそうだが、河津桜の濃い紅色はくっきりと残る。
上を見て歩いていたら、危ないからと仁志にやんわりと手を組まされた。ぼんやりしてしまうのは前から変わらない吹。仁志は恵一と麗華の秘書だから二人を見ていればいいのに、と思ったが、二人は数歩前で恋人つなぎで、二人などいないかのように仲良く歩いていた。仁志ならこの距離ならなにかあっても問題ないし、吹もいる。うん、大丈夫。
「いいね、ああいうの」
「幸せそうでなによりです」
「僕はちょっと怖いよ」
「なにがですか」
「幸さんにこの場を見られたらと考えると」
くす、と笑う。にこにことした顔のまま、顔を青くしている。
また、風が吹いた。さら、とさっきより多くの花びらが吹かれていく。
「吹」
呼ばれた気がして、振り返る。
あ。
トレンチコートを着て、桜の木の下に立つ幸の姿があった。
なんだか懐かしい。
初めて会った日。電灯の下に立って、飛ばされた吹越が照らされて、まるでスポットライトを受けたかのようにきらきらと光を受けていた姿のあの日。
今はそれが桜になっている。
吹は仁志の手をほどいて駆け出した。
ねぇ、幸さん。
どっちが先に、恋をしたと思いますか。
もうわたしは、あのときから、あの瞬間に、恋に落ちていました。
知らないでしょう。
わたしも知らなかった。
でも、サングラスにおまじないをかけたことを思い出して、はっとしたんです。
あれは、幸さんに、他の人が近づいてほしくなかった、そんな気持ちから、無意識にやっていたんです。
ああ、わたし。
気づきました。
一目惚れしたんだって。
わたしのほうが、先だったんですよ。
負けた気がしていたけど、わたし、あなたに勝っていました。
好きの気持ちも長さも、わたしのほうが、ずっとずっと大きく、長いです。
ひらひらと舞い落ちる恋色の花弁をふりきって、吹は幸に抱き着いた。
わたしにも、こんな行動力があったんだ。
あなたがいたから。
出会えたから。
ありがとう。
走る体が風を切る。同時に花弁が、二人の間を彩った。
もしここまで読んでくれたかたがいらしたのなら、幸いです。おつきあい、ありがとうございました。
ひとりひとりを主人公にもう少し……と思う気持ちがありますが、今はここでひと区切り。




