37.
バレンタイン後約一週間。幸から孝支に電話があった。
吹は唇を震わせながら眉を八の字にしていて、ほとんど話してくれない。もともと口数は少ないが、思った以上に心に刺さる時間だ。幸は怒ってしまったかと心配しているが、吹はただただ、混乱した脳が恥ずかしいという気持ちだけを主張してくるため、声を出せないだけ。またいつものすれ違いが起きているだけだ。今回ばかりは、吹も幸が勝手に思い違いをしているとわかっている。が、怒っているのではないと教えてあげるほど優しくはない。優しくしたくないほどに寿命が縮む一夜だったのだ。それが現在進行形。
夜になると距離感が開く。どうやって縮めればいいか。
を、電話したのだ。
「おい、相談料とるぞ」
いつも電話がくるときは、吹に関する悩みがほとんど。友人だから話は聞くし、相談も乗るには乗るが、同じような内容ばかりでそろそろ面倒になってきた孝支である。
「どうせ吹ちゃんとなんかすれ違いがあるんだろ」
『よくわかるな』
おまえの相談それしかないだろ、というのはさておき、想像できたため、
「どうせなんかやらかしたんだろ」
なんか、というのははっきり言わないが、この間バレンタインデーがあったばかりだ。吹の件になるとどこかのネジが外れてしまう幸。想像に難くない。
かくかくしかじか、と説明を聞いた孝支は、やっぱりな、と思った。あとは、内容としては話しにくいというか、どう考えても恥ずかしいことを他人にするすると話してしまう点を心配に思うほどだ。
「吹ちゃんは耐性ないんだから、少しずつじゃなきゃだめだろ」
『それじゃ抑えるにはどうすればいい』
「知らん」
そこは自分で制御しなければならない。
「吹ちゃんに嫌われたくなければ、我慢することだ」
ぴしり、と幸の心にひびが入る。
「いつか出てっちまうぞ」
ただ恥ずかしいだけなのでそんなことは絶対ない。孝支もそれをわかっているが、わかっていない幸には効く一言だった。
『それは困る』
しばらく沈黙のあと、さんきゅ、と聞こえた。
次はこっちの話だ。ちょうどこちらからも相談があったのだ。
「仕事はうまくいっているんだが」
最近、孝支の職場は人手が減ってしまった。秘書が少ないのではなく、女性も男性も育休やら産休やらがたまたま重なってしまったのだ。結果全体的に仕事の量が増え、困っているという。現在不足を補うために調整しているが、それまでの期間は大変だ。派遣などには任せにくいため、幸や仁志、恵一に一時的な手伝いを頼みたいという。つまりアルバイトだ。
『派遣はだめなのに俺たちはいいのか』
「学校に対しての信頼が厚い。俺も活躍しているしな。問題ない」
さすがだ、自分が活躍しているなどと言える人間は少ないのではないか。
「もうすぐ春休みだろ、そっちのTAも減るはずだ。どうだ?」
『了解』
幸はすぐに了解を出した。秘書としてなら仕事はできる。
『ただ、恵一は神宮司家の仕事があるし、仁志もそっちだ。難しいと思うぞ』
「そうだな」
『巧は短い期間だけになるだろう』
高校生の春休みは短い。研修として行くかたちになりそうだ。
「巧には俺から連絡してみる。穴はほとんどおまえに頼ることになるが、問題ないか」
『先に資料をもらえればなんとか』
さすがトップを維持していた二人だ。なんとかなるだろう。
「ただな、泊まり込みになりそうだから、それ、今日の相談料ってことで」
『え』
あとで詳しいデータ送るから、と残して幸の返事を待たずに電話は切る。
「吹」
「はい」
最近ソファには座ってくれない。こちらがソファにいるとダイニングテーブルの椅子にいる。逆もありだ。隣にいないのがさみしい。
「春休み、いないことが多くなりそうだ」
すでにデータが送られてきていた。さすが、仕事が早い。孝支からのお願いだと伝えると、
「そうですか」
とだけ。
「がんばってください」
さみしいとか、そういうことを言ってほしかったのに。
「やりすぎないようにしてくださいね」
心配はしてくれただけましだろう。
「吹」
「はい」
「この間のこと、怒ってるか」
会話が少ない。こちらから持ち掛けるのがほとんどだ。この間、というのは詳しく言わなくても伝わった。
「な、な、な、なんで」
「ずっと距離が空いている。口数も少ない」
「幸さん、いつも斜め上です」
「ななめうえ」
「わたしはただ恥ずかしいのです!」
言わせないでください! と体ごとくるんと向こうへ向いてしまった。恥ずかしい?
ということは、怒っていないのか。嫌ではないのか。
「もう少し、その、人の、わたしの、声、聴いて、ほしい、です」
後ろから見ても、耳も首まで真っ赤なのがわかる。こういったところが、抱きしめたくなる原因なのだ。が、コントロールについてたった今、孝支から指摘されたばかり。我慢我慢。
「怒っていないんだな」
「ちょっと怒ってます。ああなると、わたしの声、聞いてくれないんですもん」
声は聴いている。が、それは吹の言う声とはまったく別物だ。
「嫌じゃないんだな」
「強引はいやです」
あの上書きのときのように、せめて一言先にほしいというのが吹。ぎゅうされるのが嫌なわけではない。刺激が大きすぎるから抑えてほしい。そう思っている。
強引じゃなければいいのか、と理解したのが幸。
またどこかでねじれが生じそうだが、とりあえず今はうまくまとまった。
「ごめんな」
「え」
幸のごめんには気持ちがしっかりこもっていて、吹は恥ずかしさを収めることにする。避けているようで、きっと幸は辛かったのだ。出ていかれないか、嫌われないかを心配していた幸は、それはないとわかって安心した。理由はまったく別物だが、今度は自分が出ていくことになった。
ちょん、とソファの隣に座ってくる吹。一週間少しがものすごく久しぶりに感じる。
秘書専門高校の男子生徒たちは、顔だちが整っていると言える人がたくさんいた。ほとんどだと言っても過言ではない。となれば、女性もそうだろう。
「きれいな人にアタックされても、ちゃんと帰ってきてくださいね」
幸が好きな吹は、見た目はもちろんだが先に惹かれたのは中身。ちょっとした表情、仕草、言葉。人はもちろん悪いことを引き付けてしまうと思っている幸は、他人に興味を持たないが、他人は幸に興味を持つ。
「吹以外には興味ない」
興味のあるなしではなく、幸も孝支もみんな、ちょっとしたなにかが老若男女をたらしこめるのだ。向こうが勘違いして寄ってくることは大いに考えられる。また独りぼっちはいやだ。
「誓う」
頬に手を当ててくる幸にすかさず、「キスだけにしてください」と言った吹は近くに寄れるようになったが、まだ警戒心を解いたわけではなかった。とりあえず今は我慢。だがアルバイトから帰ってきたあとは自信がないなと思っていた。
「行ってらっしゃいませ」
幸の出発の日。二週間のアルバイトになった。巧もあとで合流だ。話はしてみたが、やはり恵一と仁志は来られない。二人だけでも百人力だと孝支はありがたく思っている。
「なにごともなく、帰ってきますように」
駅にて見送ったあと、こっそり、意識して言霊を発した。
これくらいいいだろう。だって、お守りみたいなものだ。急ぎで作ったけど、持ってもらったものもある。その間、吹は神宮司家に帰省となった。
「おかえりなさい、吹」
出迎えてくれたのは麗華と叔母。
「恵一さんと仁志さんは、今は仕事の手伝い中なの」
そこで久々に直接お話することに。
「れいちゃん、恵一さんとどう?」
聞かれる前に聞くことで、自分の件をあやふやにするか同じ内容にしようと作戦を立てた吹。そこで麗華が赤くなる。が、どこかむすりとした顔を見ると、吹のように恥じらいというより、怒っている。
「え。なにかあった?」
「あったのよ!」
恵一はなにをやらかしたのだろう。もしかして、せっかくの春休みに仕事を入れているのは、麗華と離れるためか。聞いてくれる? と麗華の話が始まる。それはそこそこ前の話になるらしい。
麗華は恋に恋していた。今は本当に恋している。相手は婚約者となり、近いうちに結婚する。だからまだ婚約者の間に、小説のような、漫画のような経験をしたいと思っていた。
だがなにもない。最初こそ、仁志の意地悪な介入があってうまくいかなかったが、それっぽい空気はあった。麗華でも感じられる、なんとなくの雰囲気。軽い調子と真面目で真摯な声に行動との入れ替わりで、いつもどきどきしっぱなし。だが経験してみたいのは、二人での手をつないだデートや、壁ドンや、危険な時に助けてくれる、そういった甘いシーンなのだ。あの漫画のようなシーンが現実にあると信じている麗華は本当に純粋だ。
デートに行ってもどこか高校のときのような執事としてのエスコートになる。危険なことがないように先回りで準備されている。壁ドンなんて期待できないくらい、最近は避けられている。
「わたくし、嫌われてしまったのかしら」
涙目で話す麗華にかける言葉が見つからない。それよりも、麗華の気持ちを察して行動に出ない、言葉に出さない恵一に怒りをおぼえた。他人を一発殴ってやりたいと思ったのはこれが初めてかもしれない。
「いいのよ、わたくしに魅力が足りないのだわ」
そんなことない、と言っても慰めにしか聞こえない。それにもしかしたら言霊になってしまう。麗華の髪をなでてあげることで精いっぱいだった。
その日の夜、すぐに恵一との時間を作る。仁志には入ってこないでほしいと伝えた。すると麗華のところに行ってくるという。二人で相談して決めた。仁志も思うところがあるらしい。
「どういうことですか」
初恋の相手で、婚約を望んだのは恵一のほうだ。なぜ、麗華のことがわからない。珍しく怒りをあらわにする吹に、恵一は一歩引いた。
「あのね、オレ、自分に自信がないんだよ!」
「そんなふうに見えたことありません」
主席で卒業した人間が、通学しながら今も叔父の手伝いをできている人間が、何を言う。
「そういうのじゃなくて、その、わかるでしょ?! わかってくれない?! 自分の欲を抑えられる自信が、ないの!」
「あ」
ああ~、そっちか。
吹は自分にされた経験から、理解した。そういうものなのか。となると、幸は抑えられていない、恵一に負けているぞ。この間釘を刺しておいてよかった。
「近くに仁志もいるのも問題でさぁ」
いくら友達でも、言いにくいことはある。誰かはさも当然のように相談し、相手のほうが恥ずかしくなるほどだが。
「ねぇふいちゃん、どうすればいい?」
真面目に相談会になってしまった。
「自分で考えてください、と言いたいところですが」
麗華のあの顔を思い出すと、そうとも言えない。行き過ぎないくらいにいいかんじになるには、どうすればいいか。
「行動するしかないでしょう」
「れいかちゃんに突撃しちゃったら絶対怖がられるってわかってるのに?」
たしかに麗華は初心だから、いきすぎた真似をされたら怖がるに決まっている。
「でも恵一さんなら、れいちゃんが怖いと思ったときの顔を見れば止められると、わたしは信じます」
「うう」
「そんなんじゃ早いうちに、仁志さんにとられちゃいますよ」
「え、それ言霊だったり」
「さぁ」
言霊ではない。奪られろとは思っていないし、もう強くつながっている二人を引き裂くものはない。
「今だって仁志さん、今、れいちゃんのところで相談乗ってますよ」
これは本当だ。話をうんうんと聞いてくれる仁志は頼れる存在である。そして見た目と違って体術に強い。
「もしかして」
「あるかもしれませんねぇ」
ばん、音を大きく音をたてて出ていった恵一。あとはお任せしますよ~
「れいかちゃん! 無事?!」
お茶の間に行くと、麗華が泣いている。その頬に手をあてて、親指で涙をぬぐっているのは仁志だ。これぞ漫画のワンシーン。そこはハンカチが普通だろ?!
あるかもしれませんねぇ。
吹の言葉が頭の中を反芻する。あれがもし、無意識のそれだったら。
本来、主人の素肌に触れることはほぼないはずなのに、恵一は自分が触れるのを我慢しているのに、その美しい肌に触れている。そして泣いている麗華。なにがあった。嫌なことでもされたか。
いきなり入り込んできた恵一に、にやりと笑う仁志の眼は主人に向けるものではなかった。
「おまえ!」
駆け出していた。
「オレの麗華になにをした!」
殴りかかると、突然だったのが功を奏したのか、躱されたが仁志がひっくりかえる。
「ついてきて」
がしっと麗華の手をつかんで、仕事部屋にとあてがわれた部屋へと連れ込んだ。仁志がおいかけてこないことにも気づかない。
「なにされたの」
「え」
麗華も混乱しているのか、まともな返事がない。
「なんで泣いてるの!」
自分のほうがよっぽど泣かせるような声と口調と行動をしているのはわかっているが、そうせずにはいられなかった。
「あ、それは」
「なにされたの!」
どん、と大きな音が空気を揺らす。
「言い寄られたりした? 手を出された? 告白でもされた?」
「い、いえ」
「じゃぁなんで泣いてんの!」
どん、ともう一度音が鳴る。
「麗華はオレの婚約者だ」
吹と徳人の婚姻の儀が、なぜか頭に浮かんだ。それを飲んだら契約だ、もうつながりはとれない。盃を交わすのは、誓いのキスと同義だ。
動けない麗華に、強く唇を押し当てる。
「絶対あいつにはやらない」
やっと手に入れたお姫様。麗華が、へなへなと腰から崩れ落ちる。あとはどうにでもなるだろう。
「よかった、うまくいったね」
「仁志さん、演技上手でした」
外からこっそりと、仁志と吹は様子を見守っていた。二人のキスも、ばっちり目に収めた。
吹が恵一にかちこんでいる間、仁志は麗華に元気がないねとうまく相談をさせた。そして涙が出るよう誘導、足音が聞こえてきた頃に、きれいなお顔が台無しです、とハンカチを持っていないからと近寄って頬を拭っていた。
二人または三人のときは、今までと同じように接すると決めたのは麗華と恵一。それを破っていないのだが、あのときの恵一は秘書兼警備員として仁志を見た。うまく吹の話にのって、案の定カチこんできた恵一。殴り掛からんとするところをかわしてころんと転がると、麗華を連れ出していった。
「オレの麗華、だって。初めて聞いた」
くすりと笑う仁志。
「わたしもです。映画のワンシーンみたいで素敵」
なぜかにやけてしまう。れいちゃん、しっかり聞いたかな。
「それだと僕は俳優だね」
「はい!」
どん、という音は麗華が恵一の勢いにおされて後退し、壁にはりついていた横にこぶしをぶつけた音、もう一回はそれこそ壁ドンのそれ。
「キスまでしちゃうとは思っていなかったけど」
「わたしとしては、やっとかぁ、ってかんじです」
もうちょっとやさしく、ロマンチックな雰囲気がよかったけど、これもまた漫画みたいでよし、かな?
そこで、仁志が、吹さんは幸とどうなったか聞かなかったのは仁志のやさしさだ。
「これでうまくいきそうだね」
「よかったです。ただ、しばらくはれいちゃんがまともに恵一さんを見ることはできないかと」
「恵一が落ち込むことはないと思うよ」
もうおいしいところをいただいてしまった。あとはぐいぐいと進むしかない。
「もうのぞき見は野暮だし、別の部屋でゆっくりしていよっか」
「はい」
二人はさっきまで麗華と仁志がいた部屋でお互いの話を話し、聞くことになる。
場所は戻って恵一の仕事部屋。わなわなと体を震わせる麗華は、恥ずかしいというよりも、今どうしてどうなったのかが理解できずにパニックなのだ。
え、イチさん、え??
「麗華」
真面目モードでしゃがんで目線を合わせてくる恵一をまっすぐには見られない。顔をそらすが、「こっち見て」と優しいが強い口調で言われる。ゆっくりと、ゆっくりと顔を前にすると、それこそあと数センチのところに恵一の顔がある。
「仁志と、なにしてたの」
ねぇねぇなにしてたの~?
いつもならこんな口調なのに、今は違う。
「相談に、乗ってもらっていただけですわ」
細い声が震える。本当にそれだけなのだが、恵一は信じていないように見える。麗華の瞳の奥まで見据えて、嘘か本当か、見極めている。
「なんで泣いてたの」
「それは」
言えない。言えない。
「なんで」
もともと近い顔がもっと近づいてくる。
「あなたが遠くに行ってしまったようで、さみしいなんて言えるはずがないでしょう!」
思いきり口にしてしまった。
麗華は、小説のような恋に憧れていた。現実の恋も見て聞いてきた。吹といづみと澄子の恋。自分も、小説のヒロインになった気分が今だった。なのに、漫画のようなことは一切ない。それどころか、縮まったはずの恵一との距離が開いてしまった。置いて行かれている感覚。
「あなただけ家の仕事をして、学校も行って、すべてを任せているのにわたくしはなにもできていないのですわ! なのに、近くにいて非現実的なことを求めてしまう自分が、嫌なのですわ!」
またぽろぽろとこぼれる涙。きれいな透明。
「せっかく近くにいられると思ったのに」
それを話して仁志の前で泣いてしまったのだ。うまくそういう話題に振られたことを彼女は知らない。
恵一は、近くにいると思っていた。同じ住まいにいて、夜は歓談して。麗華が大切にしている麗華の家を守るために、麗華を守るために、がんばっている。それが麗華にさみしさを与えていた。
「嬉しい」
ちゅる、と流れている涙に唇を乗せる。塩辛いはずのそれがなぜか甘い。
「非現実的なこと、ひとつは現実にしちゃったね」
にやりと笑ってみせる。これはいつもの軽い感じで。
「!!」
まさに壁ドンを今やったばかり。それにやっと気づいた麗華は、両手を口に当てて真っ赤になった。
「か、かべどんですわ」
「そうそう」
キスもしたんだけど。そこは触れてくれない。二つって言ったほうがよかったか。
「少しずつ、大人の階段上っていこうか!」
どきどきが止まらない麗華。小説のヒロインの気持ちが、あの鼓動の音が、自分になっていく。どこかのお嬢様でも、こういう恋ができる。
「れいかちゃんがそんなふうに思ってくれたなんて、オレ、チョー嬉しい!」
にかっと歯を見せて笑う恵一はいつもの恵一だ。
この人はずるい、その笑顔だけで自分はどきどきしているのに。
「イチさんは、さっきのとか、恥ずかしくないんですの」
恵一がすっと背中を見せる。
「そんなはずあるわけないじゃん……」
小さく漏れ出た声は、腕で顔を隠して聞こえにくかったが、はっきりと耳に届いた。
「ありがとうございます」
背中のシャツをきゅっと引っ張る。これはよく、腕の裾とかをちょんと引っ張る動作として描かれているのを見た。背中でもいいだろうか。
その背中へ、とんと体を押し当てた。恵一は細身のほうだが、その体がぶれることはなかった。支えられている、と麗華は安心する。恵一といえば、ほどよい肉体の弾力と、大きな胸のやわらかさ、当たってくる手のあたたかさと揺れる髪に、動揺せずにはいられない。乙女の笑みは恵一の背中にあるため見ることができなかったのが残念だ。もうだめ、と思っていたのは恵一のほうだ。
近くへ寄れなかったのは、自分の煩悩を抑えきれるかわからなかったからだ。嫌われたくないのは男女関係なく、同じ気持ち。怖がらせるとしたら、男のほうがすることが多い。
恵一は心を決めた。くるりと振り返り、麗華の背中に手を回す。麗華も、すべて届かないが背に手をあててくれた。
「麗華」
「はい」
うっとりと目を閉じている麗華。
「一緒に寝ようか」
ぴしり、ととろけていた部屋の空気にひびが入る。
恵一の想像では、恥ずかしいからと断られるか、OKだったらお布団にくるまっておしゃべりをするか、そんなかんじだった。厭らしい意味は本当にまったく全然考えていなかった。それこそ、小説や漫画にあるように、ソファでブランケットを一緒にかけて、体が支えあう形で眠るような、そんな意味のはずだった。
「へ、へ、え」
麗華の動揺が大きい。
「時期尚早ですわー!!」
ばちーん、という音は仁志と吹の部屋にまでは聞こえなかったが、生粋のお嬢様が真っ赤になって廊下を走っていく姿はばっちり映した。
「あれ?」
うまくいっていると思ったのに。そこで吹はなんか重い空気を受け取った。
「さとしぃ」
どろん、と泥のような重さを抱えてやってきた恵一。
「あらま」
その頬には、ばっちりと真っ赤に、もみじ形の跡がついていたのだった。
「れいちゃんに、言葉のままに受け取るよう、伝えておくね」
「お願いふいちゃん……」
仁志も、疎い麗華には詳しくことを話すよう、アドバイスをし始めた。
それから数日間、恵一は麗華に軽く接しやすくなったが、麗華は自分が考えすぎていたこと自体が恥ずかしくてたまらない日が続いたのだった。
「平和ですね」
「そうだね」
観察は楽しいな、と二人で笑いあう。
「吹さん」
「はい」
こうして、麗華と恵一が一緒にいる時間が増えたため、仁志も今回ばかりは気をつかい、邪魔はしないことにしている。そのため、吹との時間が増えた。
「幸さんにはあんまり伝えないでね」
「はい」
なにを、を話さなかった仁志のほうが悪いと言える。寮にいたときのように、すでに毎日連絡をとりあっている二人。恵一、麗華の話題ではなく、身を守るための女性向け体術を仁志から習っていることを話したその日の夜は、電話の向こうから無言の圧が届いて、仁志は怖かった。自分は誰かに恋をする日がくるのだろうか。今はあの甘い二人のカップルを目の前で見て、もうひとつの遠いカップルの話を聞いているので十分だ。
「すぐに仁志さんにも良い縁が訪れると思います」
吹の言葉に仁志は、あ、と思った。
これは言霊ではない。だが、吹の想いの詰まった言葉であり、自分が幸せになってほしいという願い。もしかして、と認識してしまった仁志には、そう遠くないうちに、麗華と恵一、吹と幸のような意味での、縁が訪れることになるだろう。




