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36.

 二月がやってきた。もうすぐ春休みが始まる。大学の春休みが長いことに驚いた。たくさん遊べる。遊べるって嬉しい、そう思える。そして、どこに行こうかなにをしようかを考える。今までは、寮で同じような毎日を過ごしていたのに。嬉しい。嬉しい。


 もうすぐバレンタインデーもある。先にそちらを考えたほうがいい。アルバイトをして貯めてきた貯金をたっぷり使って、こっそりなにかを作りたい。が、同棲のためこっそりは難しいが、お夕飯を豪華にしようと考えた。


 アルバイトは、幸はTAという大学でのティーチングアシスタント。接客などの作業は上手に決まっているが、別の点で苦手な面がある。それで、採点やらなにやらの仕事をすることにしたそうだ。(ふい)としても、アルバイト先で女性から言い寄られずに済むのは安心だった。学園祭のときに気づいたとはいえ、こんなに嫉妬深かったんだな、と大学生になって改めて感じた吹である。


 吹は弁当屋でアルバイトをしている。作るのと、売るのと両方だ。自分の料理の勉強にもなるし、人とのかかわりはレジでお勘定、弁当を渡すだけ。幸からもいいんじゃない、と簡単な一言で許可が下りた。居酒屋でのアルバイトだけは猛反対をくらって、やめた。居酒屋は時給が高くて魅力的だったが、重たいグラスをたくさん運ぶのは大変だし、酔ったお客に絡まれることが少なくないからだ。家族にもやめておけと言われ、やめたのだった。


 幸はTAの仕事が性にあっているらしく、紹介してくれた男友達とうまくやっているという。吹も弁当屋の店長と良い関係が築けて、楽しくやっている。翌日のための大きな注文が入って夜遅くまで仕込みがあったとき、幸が迎えに来たら、店長がものすごく喜んだ。始めてから三か月くらい経ってからだっただろうか。同棲とは伝えていないが、彼氏です、と恥ずかしさ満点で伝えたところ、まあ~、と娘を見るような目で見られて、さらに恥ずかしくなったことをよく覚えている。また連れてきてね、と店長は弾む声で言った。それから、幸はたまに、迎えにくる。これは想像だが、店長が幸に惹きつけられる人ではなかったからだろう。


 こうして貯めているアルバイトの貯金。いつか返すと決めている家賃と生活費は別の口座に少しずつ移し、あとは自分のおこづかいだ。ここからお金を出して、なにを作ろうか。



「れいちゃん、恵一さんと仁志さんに相談があるんだけど、いい?」

『わたくしではないんですの?』

 ぷん、と語尾につきそうな声。

「バレンタインデーに喜ばれるもの、知りたくて」

『そういうことなら』

 麗華も気になるらしく、一緒に電話に参加した。

『えーっと、彼女のくれるものならなんでも嬉しいと思うよ』

 これは仁志の意見だ。現状では相手がいない仁志。なにが欲しいとかは関係ないみたいだ。

『それは賛成だけど、オレはれいかちゃんとむぐっ』

『ごめんね、電波が悪いみたい』

 途中で仁志に止められたように思うが、麗華に聞かれたくないみたいだ。多分今、麗華は残念に思っている。

 ごほん、と恵一が言い直す。

『れいかちゃん、オレ、物なら万年筆欲しい』

『え?』

 希望をそのまま伝えている。

「よかったら、理由、教えていただいてもいいですか」

 吹が尋ねると、万年筆はその名の通り、インクを継ぎ足せばずっと使える。文房具だから学校にも持っていけるしいつも使う。近くにもらったものがあるというのは嬉しい、とのことだ。


 前に腕時計をプレゼントしたため、あのときの考えは間違っていなかったと安心した。同じく万年筆もいいな、と思ったが、恵一と同じだと、幸だけでなく麗華も気になるところがありそうだ。やめておこう。


『お料理だけでも十分に思うよ』 仁志はそう言うが、

「形に残るものも、ほしいな、って思いまして」

『もう吹ちゃんが隣にいるだけで形あるじゃーん』

 人間もモノに入るのか、と不思議に思いながら妙に納得感もある。

「たぶん、たくさんもらって帰ってくるので……」

 今年のバレンタインデーは平日だ。大きい買い物バックを持たせようと思っていたくらいだ。

『ああ、そうだね』

『幸さんなら、すべて断って受け取らない気がしますわ』

「ううん、気持ちが入ったものを断っちゃだめだと思うの」

 妬けるが、受け取ってきてほしい。先にお断りをしておいて、ホワイトデーには、プレゼントのお返しとしてなにか渡してほしい。

『ふいちゃんらしいね』

『それなら、吹さんしかあげられないもの、あげればいいんだよ』

『おまっ』

 それがわからないから困って、相談しているのだ。

『悩む時間さえも喜んでもらえますわ』

 ほう、そういう考え方もありか。

「れいちゃん、恵一さん仁志さん、ありがとうございます」

 参考にします、と言って電話は終わる。ちょうど、お風呂を終えた幸が今に顔を出した。首にタオルをかけている。くせのある髪が今はしっとりしている。


「どうした、電話か」

「はい、れいちゃんと」

 基本的に嘘はつかない吹だが、このときは“たち”はつけなかった。麗華と話していたのは嘘ではない。

「そうか」

 内容をなんとなく察している幸は、麗華たちが元気かどうかを聞いてくるだけであとはなにも言わなかった。


 さっきの姿を見て、櫛やタオルなど、普段ここでしか使うことのないものもいいな、と思った吹。女性用でも男性用でも、化粧品などは肌に合う合わないがあるし、足りていないと思われても問題なのでそのあたりは削除。ショッピングモールにでも行って、おすすめ用品を見てみようと決める。今週の買い物当番は吹。ちょうどいい、行ってみよう。



「店長は、バレンタインデーはどうしていますか」

「ええー」

 どうだったかなぁ、と店長が記憶を漁っている。アルバイト先の店長に聞いてみたら、くすくすと笑いながら、若いわねぇ、と言われた。若さは関係ない。店長は夜、どんなお弁当を旦那様へ贈ろうかと考えているのを知っている。

「わたしもお弁当にしようかな」

 聞こえるよう、わざと大きな声で独り言としてつぶやく。店長が、知ってるの? と声をあげた。

「もう。あたしはね、結婚して最初のときは、パジャマをあげたわよ」

 ペアルックというやつか。ちょっとそれは恥ずかしいと思ったが、

「同じ服を着るなら、自分もきれいにならなきゃって気合入ったわよ~」

 自分自身も、着るものも、下着まで変わったというから店長は相当旦那様を大切にしているし、されている。

「素敵です!」

「あんたもあの美男子の彼女なんだから、ばっちりなバレンタインにしなよ」

「精進します……」

 ばっちりは難しいが、できるとこまでやってみよう。



 ショッピングモールに行ってみる。駅のすぐ隣だから使いやすいが、人が多いためあまり行かない。久々に足を運んだら、時期が時期だからか、女性が多い気がする。そういう目で見ているからだろうか。スーパーではチョコレートの特設コーナーがあるし、ギフトコーナーも高級チョコでいっぱいだ。

 そういえばチョコレートのお菓子はプレゼントしていない。ダークチョコを使ってなにか作ってみるか。レシピを調べようと、ひとつやることが決まる。


 ファッションコーナーに行くと、男性へのプレゼント候補として、春に向けての洋服やいつでも使う機会があるベルト、お酒や高級食材などが表に出されている。ペアのグラスなどもあって、今でもペアのものは多いんだな、と感じた。

 そこで見つけたのは箸。いわゆる夫婦箸というやつだ。木で作られていて、目にやさしい。いろいろな模様があって、選ぶのも楽しい。毎日使うものだ。これだ! と形に残るものは最速で決定してしまった。模様を見ていると、イニシャルや動物やらいろいろあった。そういえばマグカップとクッションも、あれはペアではないかと思い出す。それだけで頬が熱くなる自分は重症だ。そこで、動物の模様のなかから、マグカップと同じものを選んだ。プレゼントするものはラッピングしてもらい、使うときに自分のも出して驚かせよう。


 決まってしまえばもう帰るだけだ。スーパーをまわって終わりにしようと思ったが、バレンタインデーは毎年やってくる。次のために予習をしてみようかと一応全体をまわってみることにした。そこで見つけてしまった、とあるもの。そういえば、店長も、言っていたな……。


 き、き、き、きれいに、しておく? 見えない部分も。

 つい足を止めて見つめてしまったら、店員に誘われて中まで連れていかれる。店員のせいにしておこう。あとは店長のせい。これは見えないものだし、そろそろ変え時だし、いいよね、うん。想定していなかった出費は、ちょっとお財布に痛かった。



 バレンタインデー当日、幸はゼミの宴会だったため、吹は次の休日に食事を作ることにする。先延ばしと伝えたら、ほんの少し残念そうな顔を見せたが、こればかりはどうにもできない。休日にして一日たっぷり時間を使って用意します! と幸を元気にさせた。


 宴会から帰ってきた幸は、吹に朝持たされた買い物カバンがあってよかった、と思っていた。たくさんのものが入っている。なんと男子からも持たされてしまった。深い意味はないらしい。相手がいることを知っている奴だからそうなんだろう。早いうちに使うから、と。先に寝ていていい、と伝えてにもかかわらず、ソファに座っていた。ただいま、と言っても返事がない。いつもあとに帰ってくるときは玄関でお出迎えがあるのに。


 吹はソファで寝ていた。もらったものの片づけを手伝うためもあったが、やはり顔を見たかった吹。それを見た幸は、ブランケットをかけて目が覚めないようにそっとする。ブランケットはほんの少し小さく、細身の吹の身体でも全体を覆ってはくれなかった。ホワイトデーのお返しは、ふたりで一緒に使えるような大きさのものにしようと、まだもらっていないバレンタインデーのお返しが決まってしまった当日の夜だった。


 パジャマのままソファで寝てしまうなど、無防備も甚だしいな、と思いながらこっそり髪にキスをして、音を立てずにお風呂に向かった幸。明日が楽しみすぎて仕方ない。いつもは嫌でしかたなかったこの日。楽しみに変えてくれた彼女に感謝しかない。



 土曜は朝からチョコレートの香りがしていた。甘い香りより、鼻につんとつくような苦みを感じる。嫌いではないが、甘すぎるものは避けている節を吹は知っていた。せっかくの同棲初バレンタインデーはチョコレートを使用しよう、と意気込んでいる。気になるのか、こっそり台所を見に来る幸を百八十度回転させて背中を押して追い出すのを何回繰り返したことか。幸はお昼前にアルバイトに出かけることになっていたため、あとは問題なく進んだ。お昼ごはんを食べ過ぎないように、とだけお願いしてある。




「ただい、……」


 帰ってきた幸は、息をのんだ。吹きは普段、家にいるときはズボンのルームウェアを着ていることが多い。ルームウェアでなくても、パンツルックがほとんど。なのに帰ってみると、今日はマーメイドスカートにブラウスという大人っぽい服で出迎えてくれた。初めてのデートのときにきれいと言ってもらえて嬉しかった吹は、今日もきれいをコンセプトに洋服を購入しておいたのだ。ただ、ハートマークが飛び交うこの時期に合うよう、あのときの紺色の色調とは違って、スカートはオレンジ色がかった桜色をチョイスしてある。首元にはあの雪のモチーフのペンダント、耳には桜色のイヤリング。行くときにはしていなかったのに、指先にはマニキュアまで塗ってある。髪はゆるく三つ編みにしてあり、先にはちょこんとかわいらしくリボンまで。徹底したお出迎えに幸は茫然とした。いい意味で。


「お、おかえりなさい!」


 幸の反応に満足したのか、吹はごはんができるので手洗いうがいお願いします、と台所に戻った。このときはエプロンをしていたが、これも新しい。大切にされていることを幸せに思いながら、幸は指示に従った。

「座っててくださいね」

 ほんのり脅迫じみた口調と低い声に、本当は手伝いたいがダイニングテーブルに腰掛ける。テーブルにはすでに、サラダとピクルスが用意してあった。スプーンがあることから、今夜は洋食らしい。吹は和食を作ることが多いため、楽しみだ。


「おまたせしました」


 大きなお皿で運ばれてきたのは、ビーフシチューだ。つるんと光るお皿の真ん中に、でんと肉が主張している。色合いがよくなるようににんじんとブロッコリー、カリフラワーが飾ってあり、ほどよい焼き色がついたバケットが追加で出された。

「ハッピーバレンタイン、です」

 必要でしたらお米もあります、と言われたが丁重にお断りする。

「いただきます」

 手を合わせてスプーンを持つ。肉のかけらはスプーンでさわるだけでほろりと崩れた。だからフォークは用意してないのだろう。


「うまい」


 自分は食事に手をつけず、そわそわしていた吹に向かって伝える。ぱあ、と花が咲いた。午前中からがんばったかいがあったと、吹は嬉しく思う。

 サラダに手をつけていたら、

「よろしければ、お箸を」

 すでに箸を使っているのに、そう言われる。目の前に、リボンの巻かれたお箸が差し出されている。

「お箸、です」

 見ればわかる、なんて無粋なことは言わない。吹の手元を見やると、そちらにも新しい箸があった。

「マグカップと一緒だな」

「はい!」

 気づいてくれたことにまた嬉しくなって、声も弾む。


 バレンタインデー当日にもらったおかしやらなにやらの話はすでに終えている。他の人の話題は出さず、いつもの他愛のない話をして時間が過ぎていった。


 片付けはあとで、とソファに移動させられた幸は、紅茶を淹れていた。自分でやると言うかと思いきや、今日は紅茶で、と頼んできた。台所でなにかしているのを見ると、自分をソファから立たせたくないための作戦だとわかる。頭いいな、と感心した。


「本命チョコ、です」


 そこは声を小さくしないでほしいが、顔を見て満足する。恥ずかしがる吹はかわいい。持ってきてくれたのは、ガトーショコラらしい。朝、苦い香りがしていたのはこれか。

「いただきます」

 丸いケーキにフォークをさすと、やわらかい感触があった。おや、と思うと湯気が立ち上る。

「フォンダンショコラ」

「はい」

 苦い香りはここから漂ってくる。きっと甘すぎないように、自分に合わせてそういう作りにしてくれたのだろう。そしてコーヒーではなく紅茶にしたのは、カカオとコーヒーが混ざらないようにするため。いたれりつくせりで、細かい気配りまでできる、将来の妻。

「いかがでしたか」

 どきどきと鼓動が細かく動く。

「嬉しい。うまかった」

 やった、成功だ。にやけそうな顔を隠すため反対方向へ顔ごと移動する。

「服や化粧や髪型まで綺麗だ」

「服と化粧、髪型」

 ふふ、とつい笑ってしまう。気づいてくれて嬉しい。それを言葉でくれるのも。反対を向く吹が復唱したのを不満と受け取ったのか、

「もちろん吹がきれいだからこそだ」

 追加してきてもっと恥ずかしくなる。

「ありがとうございます」

「お礼を言うのは俺だろう」

 ふふふ、と二人で笑いあって、どちらからともなく、唇が重なる。ほんのりとカカオの香りが、お互いの口腔に広がる。

「ん」

 長い。

 そろそろ、……


「ん」


 ちょっと苦しい、です、そういう合図のつもりでも、幸はそういうときだけ聞いてくれないのだ。


「んんっ」


 それから数秒後、やっと解放された。ふぁ、と息ができた。

「長い、です……」

 それなら自分から押し返して離れればいいのに、という言葉は飲み込む幸。今は吹の体を強く抑えたりはしていない。ちなみに今回も、吹の体内時計ほど長くない。

「悪い」

「ほんとにそう思ってますか?」

 そこは無言で通す。

「プレゼント、ありがとうな」

 話題を変える。それはわかった吹だが、今日ばかり許そうと乗った。

「はい!」


 食事もデザートも、身だしなみもすべて、幸を思って準備した。ありがとうの言葉で充分。もうお返しなんていらない。

「では、片付けてきますね」

 すっと立ち上がると、

「吹」

 名前を呼ばれる。はい、と振り返ると、手首をそっと握られる。

「お願いが、あるんだが」

「はい?」

「上書き、したい」

 上書きとは。パソコンのソフトでも使用しているのだろうか。しかしパソコンは一人一台持っている。コントロールキーにSを押せば終わりではないのか。

「ここ」

「へっ」

 ここ、と言いながら触れるとはいえないほどで感覚が走ったのは、吹の左の太もも、絶対領域と呼ばれる部分だ。

「詳しくは言わないが」

 言えない事情がある。ほとんどないはずの吹への隠し事のひとつ。吹が詳しくは知らない、ギャラリーでの日の夜の出来事。幸はずっと、スカート姿の吹を見ると、いつも思い出していた。

「ここに、キスしたい」

 かちん、と体が固まった。太ももくらい、いいのかよくないのか、混乱した吹は頭がまわらない。

「だめか」

 これを本当にダメ押しというのだ、と思った。

「ど、……どう、ぞ」


 そう言うと、するする、するすると体が後退していく。怖いわけではない。と思う。相手は幸だ。ただ、手首を握られている吹は、幸が近くに歩み寄るとつい体が後退してしまう。とん、と背中に当たったのは壁。

「失礼する」

 幸は手を放して、しゃがみこむ。

 か、壁ドンじゃなくてよかった……。

 なんて思っている暇はなかった。

 マーメイドスカートがまくられていく。


 へっ


 てっきりスカートの上からかと思っていた。タイトになっているスカートは、全体的にまくれあがり、吹の白くすらりとした足が露わになっていった。

「あ、え、え? あの」

 その領域がきれいに出る。ストッキングを履いていることに、自分偉い、と褒める。


 すう、となでられる感触。喉が鳴りそうになるのをこらえた。手をぎゅっと握りしめて胸の前に自分で押し付ける。同じくぎゅっと顔と口に力を入れて、何も見ないように、言わないように、がんばる。


 大きな両手で包まれた、吹の足。そこへ、なにかが触る。一枚でも薄い布を挟んでいると、こんなに感覚とは違うのだな、と思ったのは今日が終わった後のこと。手と触れるもののあたたかさに汗がにじみ出そうだ。心臓もばくばくと大きく動く。


 そしてまた長い。幸さん、最近いろいろと長くはありませんか。

「よし」

 真下なのに、遠くでそう聞こえた。はぁ、終わったのか。そもそも、上書きとはなんだろうかと、そこだけ吹はわからないでいた。

「お、終わりましたか」

「終わり」

 ……ふぅ。


 この後は片付けがある。それが頭の隅にあるおかげで、立っていられた。ここで力を抜けば、壁づたいにずるずる座り込んでいた。

「じゃ、次」

「はい?」

 次ってなんだ、次って。

 いきなり体が持ち上がり、重力が背中と膝の裏に押し込まれた。これはまた、お姫様抱っこだ。

「そろそろ慣れてほしい」

「慣れません!」


 前に、足をじたばたさせて降ろしてくださいと懇願したとき、このまま落っことそうかと聞かれ、痛いから無理です! と胸元にくっついたことがある。そのときの幸の意地悪な顔といったら。あれは忘れるもんか。だがそれからは素直に乗っかるようになってしまい、うまくしてやられた気分だ。むすぅ、とした顔も楽しんでいる幸。きっとあれは脅しだ。


 またソファに座ってしまった。片付けしたいのに。今度は横向きのままではなく、幸の両膝の間にきゅっと収まっている形だ。ちょん、とソファに少し触れているだけ座れているのは、幸の両手が吹の体をしっかり押さえているからだろう。

「もう少し」

 幸が肩の上におでこなのか顔なのか、とりあえずどこかを置いてくる。重くはない。幸は後ろからこう、腕をまわすのが好きなのか。自分の顔が相手に見えない点は安心だ。ソファではよく、軽くだが横から腕を絡ませたりはしてしまう吹。誰かが近くにいる安心感は大きく、今までなかったために吹も嫌ではない。ただ今の問題であり緊張するのは、そこに顔があるためにかかってくる幸の吐息。

 この態勢は恥ずかしいから、せめて隣に座るだけにしてほしいのに。目の前にあるテレビが、うっすらと自分たちの態勢を映してしまっていることに気づいてしまう。耳の後ろを嗅いでいるかのようだ。

 小説や漫画だと、よく相手の腕に頭を乗せるとかするみたいだなー、と別のことを考えて現状を忘れようと努力する。していた。


 そのとき。


「ひゃんっ」


 吹は思わず声をあげた。首筋に、湿ったなにかが触れる、というか押し付けられている。軽くだが。さらには軽く引っ張られる。これは、なにか、ではなくて、唇だ。

「ゆ、ゆきさん?!」

 これは、苦手、です。一度だけ経験した、あのとき。


 でも幸はやめてくれない。あくまでやさしくではあるが、しゃぶりつかれていると気づくのは早かった。ちゅう、と吸われている肌。まるで吸血鬼のようだ。痛くないだけいいのだろうか。


「んぁっ」


 へっ?


 変な声が勝手に漏れる。顔が熱い。手は腕に挟まれているため、口は抑えられない。ぎゅっと顔に力を入れていなかったら、もっと大きな声になっていた。その感覚が移動していくたび、体がびくんと跳ね、顎が上向きになっていることを自分で気づかない。


「ひぁっ」


 ほんの少し、強さを感じた。

「いま、なに、を」

「嚙んでみた。甘噛みだから」

 痛くないだろ? と安心させるためなのかそんなことを言ってくるが、まったく安心できない。体が力む。

 ちゅぅ、と下から上へと移動するざりざりとしたものは、もしかして、舌?


 ん、んふぅぅ、ぁ


 自分から出る、この声がとても恥ずかしく感じる。この声が出ないように、息を止める。なのに、喉から音が漏れる。

「力抜け、窒息するぞ」

「だ、れの、せいで」

 誰のせいじゃ! と噛みつきたいところだが、その台詞まで出せない。ふぅ、ふぅ、と息が、鼓動が、体の揺れが、大きくなる。

 ふ、ん、

 んんっ、ふぁ、ぁ


 少し離れた気配がして、やっとふぅと息を吐けたと思うと、その瞬間に次がくる。

「ひゃ」

 肩を持ち上げて場所をなくそうと抵抗するが、すると反対へ移動。反対、忘れてた。

 あっ、んん、ぅぅ、ぁ

「かわいい声」

 耳元で湿っぽく、色っぽく囁かれる。吹にはない声であり、今までに聞いたことのない声色。


 今日はきれいと言ってもらいたかったのに、などそんなことも思えなくなっていた。

 力んでしまうから息ができなくなって、息をしようとするとどこからか音が漏れる。どうすればいいのかもうわからない。

 ふぅ、ふぅ、と体が大きく動いて、自分が息をしていることだけはわかる。

「かわいい」「好きだ」「もっと」

 耳元で囁かれる甘い言葉。

 んっ、ふ、ぁぁ

 ふぅ、ふぅ、とまだ大きく体が動いているに気づく。ということは今は、なにもないのか。だんだんと体から感覚がなくなってくる。


「ふぁぁっ」


 ぱく、と食いつかれたのは、首ではなかった。耳。それと耳たぶ。細く下がから舐めるように移動して、かり、と少し硬い感触が走る。イヤリングは、いつの間にか外されていた。

「あ、」

 ぁ、んぁ、ぁ、ひゃ、

 離れたい。幸を相手に初めて思った。これは、これでは、わたし、爆発しちゃう!

 体の中が、あつい、芯が、あつい


 もぞもぞし始めたのを感じ取ったのか、幸の腕に力が入った。

「逃がさない」


 ちゅぅ、


 また吸われる。

 あとはもう、覚えていない。気が付いたら幸に体を預けていて、やさしく腕がまわされていた。そんなにもがいたのか、服がよれてきている。

「ゆき、さ」

 さっきまでは勝手に漏れ出ていた声。でも自分から出そうとしても、うまくできない。

「さ、ん」

 もう、

「あ、あつ、い、です」

 そろそろその腕から解放してほしいです。

 思いが伝わったのか、腕が離れた。と、ふわりと持ち上がる体。


 え?


 とんとんとリズムを踏んでいる音。向かうのは二階のようで、音に合わせて横になった体が上下する。


 とさ


 優しくベッドに転がされた。

「ありがと、お、ご」

「もう少し」

「ふぇ」


 幸の顔が上から見える。手が近くへやってきた。しゅるりと、髪を縛っていたはずのリボンが抜けたのには気づかなかったが、その間を隙に押し返そうとしてみるも、力が入らず両腕は押さえるとは言えないくらいに押さえられる始末。


「ふあっ」


 さっきの後ろからとは違い、前からの首への攻撃と耳への攻撃。たまに顔の全体をついばまれて、強く唇が重なる。きゅぅ、と今までのいつよりも、身体が重なる面積が広い。なんか、上半身が、とくに湿っぽい。

 

 っ、んん、ぁ、ふぁ、


 勝手に漏れ出る、抑え込まれたような小さな声は、自分のものだろうか。

「ゆ、ゆ、ゆきさぁぁん」


 熱い。

 熱い。

 熱い。


 はぁ、はぁ、と体が、胸が、上下していて声が出しにくい。

「ん」

 きゅぅ、と口を塞ぐ押し付けが来た。

「ゆ、ゆきさ、ふぁぁっ」

 首筋にぬめりとした感覚が来た。

「ゆ、ゆ、ゆ、んぁっ」

 耳に、かり、むにゅ、とした音と湿りが来た。首の、下、鎖骨、にも。

「ゆ、ゆき、さぁぁぁぁん」

 がんばって、声、ちゃんと、届け。


「ぎぶ、あっぷ、で、す」


 そこで、半分は開いていたがぼやけてほとんど何も見えていなかった目が、本当に閉じていった。



 潤んだ瞳で、ふぁふぁと大きく息をしながらの声で呼ばれる名前。聞いていて心地よかった。答えるための行動をとるまでに時間がかかった。完全に重力がベッドへ沈む吹。

 あちゃぁ、これでは先が思いやられるな、と幸はふたつの意味で思った。

 キスと、首と耳だけでくてんくてんの吹。もう意識がない。ここが敏感なのか全体なのか。

 もうひとつの意味の“先”は、思った以上に自分が抑えきれていないこと。優しくしたつもりだが、吹の意識がないことから察するに、理性が半分とんでいたのだ。気づけば、自分の上半身のシャツは見えない。

 反省が必要だ。しばらく吹は近くに寄ってくれないだろう。その覚悟はできていない。


 だが、あのがんばって抑えた声と、漏れ出る小さな声がかわいくて、熱を帯びた白いはずの体が赤く燃えた温度が心地よくて、やわらかく小さな体を自分の腕に収めたくて、見えている上半身が朱に染まっているのが見たくて、涙をこらえて潤んだ瞳を見たくて、がんばって呼ぶ自分の名前をもっと聞きたくて、また何度もやりたくなる。今のとけている吹も、自分にだけ許しているようで見ていて幸せだ。


 前に一度だけ、お風呂上りの吹に、「ふいのふいうちー!」とぴょんとソファの上でおでこにキスをくらったことがあった。あのときは本当にふいうちで驚いた。押し倒されるのは幸のほうだった。風呂上りのTシャツ姿でなんの妨害のない上半身をおしつけられた自分がどんな思いだったか、吹にわかるだろうか。駄洒落に気を取られていなかったら、たぶん自分は行動に移していた。持っていたコーヒーが体にこぼれたため叱ったら、いつも自分ばかりどきどきしてるからやり返したかった、と言う。まったく。そのときばかりは、頭をぽんぽんではなく、チョップしてやった。

 叱ってしまわないほうがよかったな。吹から機会をくれるなら、またあのかわいい声を聴きやすくなったのに。自分のものだと、もっと印をつけられたのに。


 力が抜けていくような、声にならないあの声と、たまに跳ねる身体。そしてまわしている腕にまで届く大きな鼓動。しばらくは、これくらいで充分かもしれない。とてつもなく満たされる時間だった。

 バレンタインとは幸にとって、今まで忌むべき日だった。必要のないものを押し付けられ、お返しを求められる。勝手に泣かれ、嫌な視線がよこされた。だがこれからは変わると確信する。すべてが自分のものだった。好きな相手から、もらえる甘いもの。幸せな時間は、自分から作らないと。幸は優しくない笑みで、とけている吹を見やる。


 最初にもう少し、と時間をとったのは、いくら煮るなり焼くなり好き勝手OKと言われていたとしても、超えてはいけないところはしっかり線を引けと注意されているからだ。心の準備をとって、おおかみを理性で縛っていた。ちなみに友人がくれたプレゼントを開けてみて、次に会ったときに力いっぱいでこぴんしてやった。それはしっかり隠してある。


 自分も慣れれば、もっとコントロールできるだろう。そのためには、もっと回数を増やそう、と思ったのだった。そしてくてんくてんに溶けているベッドの上の吹に、そっとキスをする。残念ながら今は、王子様のキスでもお姫様は起きない。

「下着もきれいだった」

 小さく囁く。

 上書きの際に、きっちり見えていた肌色の生地の下の白いもの。そして吹と自分のせいで湿ってしまった上半身のブラウスからは白いレースが透けていた。白い肌の吹をさらに際立たせる白だった。隅から隅まで、手の込んだバレンタインデーの夜。さすが吹だと頬を撫でる。


 きっと今夜はもう起きない。それでもとても丁寧に、優しく、幸はペンダントを外した。ブラウスも脱いでいただく。傷まないよう手入れをしておこう、と思いながら、頬にもう一度キスをする。

 吹からしかもらえないものを、幸はもらった。もらった分は、少しずつでも返していく。




 目が覚めると、白いなにかに包まっていた。これは、シーツ? いや、シャツだ。たしか昨日、幸が着ていたような。さらにその上から布団がかかっているのは、二月はまだ寒いから普段からかけているのだが、このシャツはなんだろう。見える景色はいつもの天井だ。もぞもぞと体を動かし態勢を変えると、パジャマではないかさかさとした感触が肌をこする。

「へ」

 目の前に幸の顔がある。なんだか視界が全体的に白と肌色。おなじベッドと……布団? 白いのはシーツと枕と布団だけで、じゃ、肌色は……。


 一瞬で昨夜の出来事がフラッシュバックした。あの感触、温度、音。

「ひ、ひ、ひゃ、」


 ひゃー!


 窓がきっちりしまった冬の季節に、エコのための二重窓。隣の家と隙間を開けて離れているほぼ一戸建ての設計のアパートに、これほど感謝した日はない。


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