34.
引っ越しは順調すぎるほど順調に進み、終わった。幸の大学と吹の大学の中間あたりに最寄り駅がある地域のアパートを借りることとなった。二階建てにしなさい、というのが叔父の意見だった。理由とすると、幸のほうが早く就職すること。一日の時間の使い方が変わったとき、お互いの邪魔をしないようにするには一階と二階でわかれていたほうがいい、ということだった。そんな理由をくっつけたが、叔父はいくら仕切りがあっても同じ空間にいるだけで吹の心がやすまらないのではないか、という心配からだった。幸のことは心配していない。一階に居間と台所などの水回りがあって、二階に二部屋。寝室は一緒にしたため、もう一部屋がなんでもできる部屋、いつかの仕事部屋となった。
大学生としては広すぎる家だ。友人が遊びに来たいとなったらどうすればいいのだろうと思ったが、お互いそのときはそのときで臨機応変ということで。二階には行かせない、という決まりだけ作った。同棲していることが伝われば、へんにちょっかい出してくる異性も減る。
実際の話を聞くと、幸は女性から大変モテているそうだ。そうだよなと納得しつつ、心配になる。自分より素敵な女性なんて数えられないほど存在するのだ。その心配は嫉妬とも言う。
とあるときに、嫉妬心を実感したちょっとしたことがあった。
吹が三年生の秋。大学の文化祭に誘われた。ゼミは二年生からで、サークルなども所属していない幸。友人に手伝いを頼まれてしまった幸は、時間を区切ることで文化祭を二人でまわろうと提案した。その友人は、幸の顔で客を出し物に呼び込むことが目的だったのは間違いない。弓道部の友人だ。
的に矢が当たったら景品ゲット、という射的の弓道パターンの出し物。しかし引き金を引くだけで球が出る射的とは違い、弓道はやったことのない人にとっては矢をとばすことさえ難しい。興味を持つ人は参加しに来るが、射ることさえできずに終わる人がほとんど。五本の矢が終われば景品なしだとかわいそうなので、とばないときも簡単な景品をもらえるよう設定してある。弓道部としてはかなりコスパのいい出し物だ。その友人は、なんとなく恵一に雰囲気が似ていて話しやすいという。
見た目で人目を引くよう、全員弓道着を身につけることになっている。それ着て立っているだけでいいから、と言われて手伝いを悩んだ幸だが、友人は幸に彼女がいることを知っていたらしく、彼女も惚れると言ってきたため、断るという選択肢は瞬時になくなった。ちなみにその友人は知っていたわけではない。幸ならいるだろうと思って言っただけだった。まさか即決するくらいの彼女がいるとは知らずに噴き出したのは言うまでもない。
三日間行われる文化祭。三日目に吹が遊びに来るため、最初の二日間は丸一日、三日目は午前中の十時頃までの手伝いとなった。やってみろよー、と友人は幸にやらせてみたら、五発すべて的に当てられて、先輩たちが熱烈にスカウトするくらいの腕前。最初は飛ばせれば十分なのに。
その様子を見た女の子たちがわらわらと寄ってきて、参加するのがついで、あとは幸とのおしゃべり目的に寄ってきた。幸があまりに人気で、立っているだけでなく見本としてやってもらうことにした友人は、経営にばっちりな能力を持っていると言える。受付だけでも人は増えただろうが、それよりやはり見本の姿がいい。今までにない大行列ができたほどで、最後尾の看板を即席で作らないといけないほどだ。大変儲かったという。
三日目も手伝いをしている幸は、吹を迎えに行けない。集合時間に集合場所で待ち合わせ、ということになっている。吹は幸の手伝い姿を見たくて、こっそりと早くから学校に入っていた。文化祭ってこんなに混むのか、と思いながら人込みをぬって歩く。清水女学園では文化祭は開催していないため、雰囲気だけで気持ちが高まる。たくさんの学生が、看板を持って食べ物の勧誘をしてくる。なにを食べるか考えながら、地図を見て弓道部の場所まで進んでいく。
行列を発見した。最後尾、というどう見ても即席のダンボール看板を見つけた。弓道はそんなに人気なのかと驚く。たしかにやったことがないから、様子を見るだけでなく実際にやってみようと思って列に並んだ。突然現れたら喜ぶか、驚くか。少しわくわくしていた。
そういえばやけに女性が多いな、と思った。弓道着姿の人はかっこいいし、もしかして幸目当てではないかとやっと気づく。後ろに並んだ女性たちが、「超かっこいい人がいるんだって」「マジ?」「なんか一緒にやってくれるらしいよ」「手握られちゃう?」「きゃー」と黄色い声でしゃべっているのが聞こえた。運よく幸のもとになれば、教えるという名目で相手から触れてくれるというわけだ。
胸がきゅっと痛い。
そんなところ、見たくないと思ってしまう自分は心が狭いのだろうか。初めてのお付き合いで、どういうものなのかわからない。
弓道部は矢を使うため、怪我をさせたりものを傷つけたりしないよう、室内で行っている。並んでいる間に、窓から中が見えた。
あ。
幸が女性に弓の握り方を教えている。相手が型を一緒にやってくれとねだっているようだ。あの腕に包まれるのは、自分だけだと思っていたのに。
「おさわり禁止ですよー」
その声は吹の耳には届かなかった。吹は列を抜けて、集合場所に向かって小走りした。待っていよう。たまたま弓の使い方を教えていた幸は、その小さな背中を見つけていた。
待ち合わせ場所は学内の出店地図の隣。たくさんの人がどこになにがあるのかを確かめに見に来ている。友達同士、高校生、恋人。楽しそうだ。お祭りの雰囲気は、いるだけで心躍る。踊っていた。はずなのに。
もやもやとしている。幸は優しく笑っていた。無表情だと言われるほどなのに、笑っていた。もやもや、もやもや。
「ねーねー君」
もやもやしてむすりとしていたところ、軽い声が聞こえた。またどこかのお店勧誘をしているのだろう。
「ちょっと、無視? ひどくね?」
「せっかく声かけてんのに」
軽いな。これではついて行く人いない気がする。
「君だってば、お嬢ちゃん」
とんとんと肩になにかが当たる。顔を上げると、二人組の男の人がいた。
「お、かわいいじゃん」
「ひとり? オレたちとまわんない?」
もしやこれはナンパというやつではないか。誰でもいいから一人の人に声かけました感が半端ない人についていく人はいないと思う。まとわりつくような厭らしい視線が体中に這っている。恵一の軽いとはまったく別物だ。こういうとき、いつも恵一と比べて悪い気がするが、それだけ彼はすごいということで。
「待ち合わせしていますので」
つんと返す。こういうときは答えちゃだめなんだよ、と前に誰かから教わった。麗華にも教えた。気にかけてくれていると勘違いしてくるからだ。
「時間までいいじゃん」
「待ち合わせいつ?」
「もうすぐです」
あと二十分後です、とまでは返さない。お手洗いにでも逃げ込むか。
「ずいぶん中途半端だね~」
「お友達も一緒にいいんじゃね?」
「それいい!」
「行こう!」
待ち合わせ相手を女の子と勝手に勘違いされた。腕をぐいと引っ張られる。これはずいぶん強引な人たちだ。縁を切ってしまおうかと思ったが、言霊などはなるべく使わないことを約束している。本当に必要な時とは、今ではない。今後、この人たちの事象に影響してしまうかもしれない。
「お断り、しま、す」
と言っているのにもう引っ張られている。背中まで押されてしまえば足は勝手に動く。どうしよう。どうしよう。
「なにか、御用ですか」
目の前に、ずんと暗い影が立ち上る。
「俺の彼女に、ご用ですか」
弓道の袴。高い身長。たくさんの人の眼。
ナンパ男たちは、う、と声を詰まらせる。このままだとなんかやばい、と悟った顔だ。
「なんでもありませぇん……」
ぱっと手を離すと、そそくさと逃げていった。逃げ足が速い。
「ありがとうご」
「なにをしている」
「はい?」
なにをと言われても、さっきの状況なら見ればわかるだろう。なのになぜ怒っている。なぜ。これは、怒っている。
「さっき俺のところに来て、出ていったのを見た」
それで手伝いを終わらせて、早めに出てきたのだろうか。気づかれていたとは。それでもなぜ怒っているのかわからない。
「慌てて来てみれば男と仲良くしていて」
どうすれば仲良く見えるのだろう。みしっと吹のなかでなにかにひびが入った。
「あなたも参加者さんとよろしくやっていたではありませんか」
わたしも見ていましたよ、という意味を込めて、言い返す。
「時間までやっていればもっと人が集まりましたよ」
「声くらいかけろ」
かけられるはずがないだろう、あの状況で。そんなこともわからないのか。
ぱりん、となにかが割れた。
「なにを怒っているのかわかりません」
「それくらい想像しろ」
吹の気持ちは想像していないのに、なにを言っているのか。いつもならわかっているようなことを言うのに。
「あんな男とはさっさと縁を切れ」
力を使えと? そんな簡単なものではないと知っているはずなのに。
「わかりました」
吹はあの時と同様、じゃんけんのチョキの形に手を作る。
「今日のあなたとの約束はなしです」
ちょきん
なにかが切れるのがわかる。
「なっ」
「たくさんの人の眼を引いていますよ。どうぞおかまいなく」
吹がその場から離れると、たくさんの女性が近寄ってきた。動けなくなっている幸の視界から姿を消すように、建物の影へと滑りこむ。
怒るのではなく心配してほしかった。自分だって女性に笑顔を向けていたくせに、吹が男性にはさまれていたら怒るとか、自分のことを棚にあげるとはまさにそれではないか。
「お、おひとりさま、発見!」
今度は違う人声がした。手に看板を持っている。マッチョと撮影会。うわ、なんか出た。体の大きな男性が三人。運動部かなにかがやっている出し物だろうか。筋肉が好きな人には嬉しいイベントだろう。よくアイドルのイベントである、チェキ会、みたいなものらしい。
「ご希望なら女装もしますよ」
ご希望でないです。
「思い出一枚どうですか?」
まったく全然ご希望ではないが、約束もなくなったため、たしかに思い出にはなる。ほんのり嫌なかんじがした。でも、もう嫌な思いはしている。これ以上の嫌を今日体験するはずがない。やけくそで、行ってみますと答えた。
「ありがとうございまっちょ!」
徹底してるな、と思いながらついていくと、小さな一画だった。並んだ教室のなかでも端で、物置のような部屋。ここまでくる人は少ないかもしれない。これでは、せっかくイベントをやっていても人を集めるのは難しそうだ。失礼だが儲からなそう。だからこそ看板で勧誘しているのだ。入るとき、カメラ部と書いてあるのを見た。ラグビー部とかの体育会系が行っているのかと思った。共同かもしれない。
「なかへどうぞ」
お代はいくらか確認しなかった。だが大学の文化祭というのは高くても夏のお祭りより安いらしく、見てきた出店は高くても五百円くらいだった。心配はいらないはず。
入ってみると、プリクラの機械を手作りしました、というかんじで段ボール箱と布で作られた入れ物があった。外にはカメラとプリンターが置いてある。
「あのなかです」
「マッチョ好きですか?」
「い、いえ、そういう、わけでは」
この部屋自体が小さい。こんな中だと二人でもきついだろう。しかも名目はマッチョと撮影会。このがたいのいい男三人とぎゅうぎゅうとは、失礼だが汗臭そうだと思ってしまって、
「やっぱり辞退し」
「はいどうぞー」
カーテンの中に入れられる。押し込められるという表現のほうが正しい。
「へ」
ぼん、となにかにぶつかった。硬いと思ったら、上半身はなにも包んでいない、あの三人の一人にぶつかっていた。
ああ、たしかに筋肉? の硬さ? なのかな?
なにが起こっているのか、頭が一時停止したがそんなことを考え出す。ここに二人は狭い、とも。
「マッチョはお好きでないようなのですが、マッチョと撮影会なのでこれで行きまーす」
このなかでマッチョの一人とぎゅうぎゅうするのは遠慮したいが、遠慮できない状況を作られてしまう。作られた環境が、心にほんのり黒い靄を作った。
「やっぱり出ます」
カーテンを押す。
あれ?
さっきまでカーテンだった布の向こうに、固いものがある。押せない。出られない。
閉じ込められた、とやっと気がついた。
「いい写真が取れたら、終わりですからねー」
あくまで営業風に声がとんでくる。そしてそこへ、すっとさっきの営業あと二人がぎゅぅ、と入ってくる。
「ムキムキが好き?」
「細めが好きですか?」
「割れた腹筋も魅力ありますよ」
パシャ
「わ」
どこからかフラッシュの光が浴びせられる。どこから?
ぎゅうぎゅう押される。人の身体にはさまって、身動きが取れない。
「ひゃっ」
たくさんの感触。こういうポーズをして~、と勝手に動かされる身体。ねばりけを感じる。体が押されたり引かれたり、よけたくても動けない吹はぎゅっと目を閉じて小さくなるしかなかった。きれいにしてきた髪も服も乱れていく。
「いいですよ~」
最初の嫌なかんじは、幸の嫌よりもずっと重かった。幸のほうが嫌だと自分に言い聞かせていたため、感じ取れていなかった。粘り気のある声。どこからなにが、どこが、撮られているのかわからない恐怖。
「本日は最終日なので、無料でーす。代わりに、お写真のデータはいただきますね~」
体がすっと冷たくなる。あいつらの誰かがしゃべっているのが聞こえる。しかしなにも理解できない。どこを向いていいかわからない。
「だれか、たすけ」
ごん!
大きな音がした。体が震える。
ばり、という音ともに、光が入った。光の一番近くにいた人が外へと飛んでいく。
「無事か?!」
幸の顔があった。なんでここがわかったのだろう。
どん、という音とともに、密度が減少する。あとの二人はそのままに、吹だけ箱から脱出させられた。
「カメラは没収した。ここのことも報告する」
吹は顔をさらさないようにするため、トイレに隠れるよう指示された。それからは流れるようにことが進む。その場で、先生のいる前でデータは粉々にしたという。被害者は誰にも見られたくないはずだ。学園側は騒ぎにならないようにこっそり取り締まった。
吹はトイレにとどまらずにいた。幸の指示になんて従うつもりなどあるはずがない。そのあたりに混ざって地図でも見ていたほうがずっと普通だ。しかし部屋から出てきた袴姿の幸はすぐに吹を見つけて、弓道部の部室へと連行した。
「なんでいるんですか」
先に吹が聞いた。今日の縁は切ったはずだ。
「女性たちと仲良くしていればよかったのに」
縛っていた髪はほどけてぼさぼさ、フレアパンツの中で電線してしまったストッキングは履き替えた。ポーズをさせられていた際、まくれあがるか擦れるかしていたのだろう。電線の内側では擦り傷ができていた。押し付けられていたため、最初の一人が箱から出されたときに打ち付けてしまった肩には多分痣があるし、手の甲にも傷ができている。甲ばかりは隠しきれないため、絆創膏を貼った。
問題ない。さっさと仕事に帰ってほしい。そのほうがいろんな人に喜ばれる。そこまで広くない部室に男女が二人のほうがよっぽど怪しい。
「なぜいつも危ない真似をする」
「いつもとは失礼ですね。たまたまです。そういう自分だって、四対一でなかに入り込んだくせになにを言いますか」
幸が強いのは知っているが、それでも数の力は大きい。
「データは消えました」
これは事実である。それをさらに強固する。
「わたしの心配はいりません。帰ります」
「弓道部は接触禁止だ」
突然話が変わった。
「構えだけは形で見せるだけ。手とり足とりの噂は嘘だ」
ではあのとき見たのはなんだったのか。向こうから、と言われて苦しい。
「トリックアートのように画像編集のための写真を撮る人がいたのはたしかだ」
写真までは禁止できない。それが拡散されたのが本当のところだと言いたいのだろう。それを伝えてなんなのだ。
「おまえも嫉妬してくれたんだな」
なっ
「おまえのまわりに知らん男がいたら、ブレーキが利かなくなる」
俺だけじゃなくてよかった、と幸は一人で安心している。
「アクセル踏んで、ハンドルをわたしに向けるのは間違いです」
怒る相手はあのナンパ男たちだ。なのになぜ、吹にも怒りが向けられたのか、それがわからない。
「……最初に俺が行ったとき、彼氏と言わなかった」
むすりと横を向いてしまう。ナンパ男とのときか。
「手伝いしてるとこに来た時も、声もかけてくれない」
弓道部のところでの話だろうか。
「俺だけ嫉妬してる」
負けている、とたまに思う。が、それは幸も同じだったのかもしれない。
「それを、怒っていたのですか」
毒が抜けてしまう。ずいぶんと小さなことなのに、あんなに怒らなくてもいいではないか。けっこう、怖かったのだ。
「怒って、悪かった」
今日、わたしは悪くない。吹はそう思っている。怖かったのは、嫌われると一瞬でも思ったことかもしれない。
「うむ。許してしんぜよう」
上から目線の変な言葉に、ぷっと幸が笑う。そして背中に手をまわして引き寄せる。
「ふぎゃ」
額が胸当てにぶつかった。痛い。
「悪い」
「悪いです」
そのあとは、袴姿のまま二人で文化祭を謳歌した。吹は髪だけきれいに戻してもらい、服装はそのまま。見てくる視線は多い。社交界とはまた違った視線だ。着替えるかどうかを聞かれたが、そのままでいいと答えた。幸は意外だったようだが、吹としては、弓道部のイベントで話題になった人がこの人で、そして彼女が、吹がいると、隣にいることで示したかった。服装なんてどうでもいいことだった。そのあとも、弓道着のまままわっていたこと自体が話題と宣伝になり、幸がいなくなった後も、弓道部は大変儲かったという。
あとから聞いた話によると、本当にマッチョとの撮影会とやらは行われていた。好きな人は本当に筋肉が好きなようだ。そのせいで、みだらな行為は隠されて大学側に見つからずにいた。数人が餌食になっているそうで、それが誰かはわからない。部活は停止処分となり、行っていた学生は停学となった。
トイレにいるように言われたとき、吹は意識して言霊を放った。
「被害者の人にトラウマを与えるな」
文化祭にも、男性にも、図体の大きい人にも、怖いと感じませんように。
帰るとき、幸が言った。
「最初の質問の答えだが」
最初の質問とはなんだったか。
「縁を切ってもつながるべき縁はまたつながるって、前言ってたな」
なんでここにいるのか。そう聞いたのを思い出した。
二人の縁は、切れない。
ちょっかい出されては困る。あのときはちょっかいでは済まされない、犯罪だった。幸は気を引き締める。
あんなに人に囲まれてしまう幸。あれは文化祭だったが、大学の学生だけであっても、声をかける人はたくさんいる。素敵な人だから。同棲と伝われば、少しは女性も諦めがついてくれるのではないか。吹も祈る。
へんなところですれ違いがあり、一度離れてもまたつながる縁は、吹にも幸にも、素晴らしく幸せなものであって、この件でお互いに独占欲と嫉妬心があることを実感したのだった。
「明日の入学式のあと、よろしくお願いします」
入学のお祝い兼吹の見送りパーティーのあと、電話で話す。
入学式は麗華と同じ日だ。四月になっている。吹たちももう大学生。麗華の入学式に行ってほしいと話したら家族会議が始まった。吹も家族。だが入学式は同日同時刻。そこへ運転手が同伴を提案した。父が運転して母と麗華をつれて入学式へ行き、終わったらドライブだそうだ。父は久々の運転のため、運転手に講義を頼んでいた。吹はこっそり、なにも起こらないよう声に出さずに祈った。
よろしくお願いしているのは、ついに明日から同じ屋根の下で暮らすことになる点についてだ。明日のために早く寝ろと電話は早々に切られた。
そして当日はびっくり仰天、幸が親の席に座っていた。あのサングラスをして。思い切り目立っている。歩きながら気づいた吹は、通る道に思いを込めた。
「ご入学おめでとうございます、……」
と始まった挨拶やらなにやらが終わったあと、説明などもろもろあって、あとは家に帰るだけ。
「駅で待ち合わせのはずでは」
「サプライズでもしようかと」
たしかにサプライズだった。幸は、吹に相手がいることを大学の同級生に示しておきたかったのだ。あの人誰、と次の日吹のことを目ざとく覚えていた同級生から聞かれることになるきっかけを作ってしまった悪い人であり、そして友人となるきっかけをくれた良い人である。
「入学おめでとう」
引っ越しが終わってからすでに住み始めている幸は、もう慣れた様子で部屋を歩く。吹は入ったことはあっても住んでいる感覚は初めてで、そわそわしてしまう。ここは幸の家ではない。二人の家。
ちん、とグラスが軽やかに音を立てる。ただの炭酸ジュースでも、ワイングラスに入っているだけで特別感がある。クリスマスパーティーを思い出した。
食事は、幸が作ってくれた。てっきり洋食かと思っていたが、和食だ。
「お祝いだから」
と用意されていたのは赤飯。肉じゃが。サラダ。
「おいひいれふ」
ふわふわと頭の上にお花が飛びそうなおいしさだ。家っていいなぁ、と思う。寮にいて、たまに神宮司家の実家に行って、どこが自分の家かよくわからなかった。ここがあなたの家よ、と神宮司家は言ってくれたが、まだ帰る場所がここだ、と思うには時間がかかって、そう思えるようになる前に、ただいまを言う場所はこの二人の家になった。これから、帰る家はここになる。家賃は出すと言われているが、二人で、アルバイトで貯めたお金で返すことを決定している。受け取ってくれるかは別である。
もうここは自分の家。一緒に家事をする。分担制。気づいたら、というのはなし。交換はあり。でないと幸が全部やってしまいそうだ。たまに甘えよう。
すべて片付けも終わり、ソファでお茶タイム。デザートは幸特製のティラミスだ。ほんの少し、ラム酒が香る。
「保護者席にいるのを見つけたときは驚きました」
「よく見つけたな」
「お互い様です」
幸にも吹にも、お互いの居場所がなぜかわかってしまう。
「これで悪い虫も少しは減るだろう」
「いませんよ、そんな物好き」
「俺が物好きだと言いたいのか」
「そうかもしれませんね」
ふふふ、と笑うと幸が黙る。
「俺は見る目はあるつもりだが」
今度は吹が黙る番だ。なんだかむずかゆい。
こうして一緒にいる時間が、これからは長くなる。
「わくわくです」
すくっと立ち上がって、お皿を持つ。シンクへ移動だ。
「大学か」
「いいえ」
振り返る。
「一緒にいられる時間、なにをしようか」
お話しできる時間が長くなる。家族を亡くしてから、その日起きたことをおしゃべりすることはなくなった。一時引き取られた藤原の家でも、言葉は発しないできた。高校も必要最低限に抑えていた。二年の六月、それが変わって人とのかかわりが増え、お付き合いを初めて毎晩電話をするようになった。他愛もない話。それがずっとできるなんて。
わくわく。
会話ができるって、こんなに幸せなんだ。
すっと手から重さがなくなった。お皿を取られてしまう。もうそういうのはいい。これではお手伝いさんになってしまう。
「あの」
お皿はまたテーブルに降りた。
目の前に、幸が立っている。
両手が頬に触れた。
これは。
額に、やわらかいものが触れる。
綿あめの、あれ。
気を抜いてはいけなかった。目じり、頬、口の端など、両方に点々と移動していく。小さく、ほんとに触れるだけなのに、吹はきゅっと力を入れてしまって、しばらく息ができなかった。
頬に触れている手から力が抜けた。終わった、とふぅと息を細く吐いた。
その瞬間。
吐いたはずの息が吸い取られた。やさしい綿あめが、感触はやさしいままに、でも触れるのではなくきゅうと押されている。
ふと離れたと思うと、また重なる。
離れる。
「ふぁ」
だめだ、立っていられない。
「ん」
触れる。また離れる。
「ふ」
重なる。
何度繰り返したのだろう。腰が抜けたのか窒息しそうになったのかわからないが、くてんと膝から力が抜けた。背中で一本の腕だけに自分は支えられている。
「お祝い」
祝っていない! と言い返したいが息がうまくできなくて、そのまま体を預けたままになってしまった。ふわりと体が浮く。ソファにどん、と腰を下ろした幸。乱暴なかんじが珍しい。いわゆるお姫様抱っこで、吹はその上にいる。
「あ、あし、しびれますよ」
人を乗せていれば、痺れるし痛くなる。漫画みたいにうまく体はできていない。
「そうかもな」
そのまま頭が幸の肩のあたりに引き寄せられる。この人、そういえば強引だったと、久々に思い出した。
「叔母様より、吹のことは煮るなり焼くなり好きにしていいと言われている」
「え」
「先に伝えたぞ」
ちゅ、と耳の下に長めの、湿った小さな感触があった。
「んっ」
お母さま、なんてことを。
その意味が理解できないほど鈍感ではない。いつもキスの合図はしてくれないくせに、これだけは言ってくるなんて。幸は相当意地悪だ。そして、吹の表情を見て楽しんでいる。
その日、警戒しすぎている吹を見て、幸は逆に安心した。まだ我慢できそうだ。




