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32.

「ただいまもどりました」


 叔母の声が聞こえてくる。そわそわしながら待っていた(ふい)は、玄関へ小走りした。お行儀が悪いとは、このときばかりは言われない。叔父も一緒だったからだ。


「れいちゃん、おばさま、おかえりなさいませ」

「おかえり」


 叔母はにこにことしていて、麗華というとばつの悪い顔をしている。いたずらをして叱られた子供のようだ。様子からして、ただ恥ずかしいだけなのかもしれない。


 結果は先に聞いていた。まさか話には聞いていたあの秘書たちの一人、恵一が相手だったなんて、叔父は考えていなかった。叔父は。たまに出てくるイチの名前は聞いたことはあっても、それが恵一とは知らない。もし知っていたらどうなっただろう。

 叔父は知らなかったが、吹は悟っていた。どこか感じたことのある雰囲気の手紙。なんだろうとずっと引っかかっていた。麗華が出発した後、部屋中のものを次々と触ってみた。結果、ホワイトデーに恵一からもらったあのペンダントが、それと一致したのだ。なんとなく違うと感じたが、最終的に同じと判断した。違ったのは、恵一がいつものイチではなく、企業役員の次男としての恵一としてしたためた手紙だったからかもしれない。


「麗華、良い結果で嬉しいよ」

「お祝いしましょう」

「もう手配は済んでいるよ」

「まあ」

 さすがですわ、と夫婦の仲睦まじい会話に、麗華は顔を赤らめる。

「吹、付き合ってくれるかしら?」

「うん」



 麗華は部屋に吹を招いた。

「あれがイチさんだなんて!」

 麗華の口から飛び出てきたのはほとんど愚痴に近い。なぜ教えてくれなかったのだの、あのときの人とは大違いだの、いきなり告白してくるだのと、麗華としては珍しく冷静さに欠けているというか、パニックで口が滑らかになっている感じだ。

「でもれいちゃん、嫌じゃないんでしょ?」

 キスの件で、嫌かそうじゃないか問われたときに知る。嫌じゃないということは、是の可能性が高いのだ。絶対とは言えないが、心は拒否していない。

「……ええ」

 なぜかしら、と麗華自身が不思議そうにしている。これは脈ありどころか、もう心配はいらない気がする。あとは恵一が首位で卒業するだけで万事解決だ。


「よかったね」

「なにがですの?!」

「恋ができるよ」

 したかったはずだ。憧れていたはずだ。

「まだ恋していませんわ!」

「もう意識しないではいられないはずだよ」


 婚約者になってしまった。相手はすでに麗華に恋している。しかも幼少期から、一図に想い続けてきた。話によるとギャップがあるという恵一の態度は、麗華の心を揺さぶることになるだろう。すでに顔を赤らめているところから察するに、あとは時間の問題だと吹はあたたかく見守ることにする。

「みんなで恋バナ、できるね」

 いつも聞くだけだった麗華が、自身の話をできるようになる。そして相談相手がいる。

「意識だなんて……まだ恋では」

「まだ、なら、これから、があるってことでしょ」

 認めたくないらしい。麗華はツンデレだな、と漫画の知識で位置づける。きっと恵一は楽しそうに麗華を観察するのだろう。

「せっかくだから、楽しんでね」


 それが恋でなくても、これから約一年の期間は、今まで感じたことのないなにかを得ることになる。麗華にとって特別な日が続く。恵一にがんばれとエールを送る。

「今度は吹がつきあってちょうだいね」

 なにに? と首をかしげると、

「お買い物ですわ!」

 言わせないで、ともじもじする麗華。特別な一日のための準備に、吹を誘ってくれている。

「それなら三人も呼ぼうね」

「ええ!」



 その夜、お祝いの食事の後、恵一にメッセージを送った。もちろん、婚約おめでとうございます、だ。すると返ってきたのは、


“ふいちゃんと幸さん、オレたち将来は家族だな!”


 というものだった。神宮司家に養子にきた吹は、麗華と恵一が結婚すれば親戚としてのつながりができる。そこに幸の名前があるということは、恵一は吹と幸のことを疑っていない。なんと返信していいかわからず、主席卒業、応援しています、とだけ返しておいた。



 そしてきっと恵一から話は聞いているはずだが、幸に電話をした。

『そうか』

 幸の反応はそれだけだった。恵一の気持ちには気づいていたらしい。だが企業の次男坊とは知らなかったという。うまく隠していたのだろうか。ただ、業績が急にのぼり調子になったのは最近のことのため、企業の社長の息子とはいえそこまで知れたことではなかったらしい。兄が有能すぎて隠れていた可能性も大きい。幸が知らないのだから、上手に隠していたのだろう。

『複雑だな』

 なんのことかと思いきや

「あいつが親戚になること」

 幸は自分が言っていることの意味を理解しているのだろうか。恵一と同じく、当然のように言ってのける。あの五人は、人をたらす能力を持っているようだ。顔がくしゃくしゃになってしまい、声が出ない。しばらく黙っていたら、

『どうした』

 と聞かれた。

「恵一さんを応援したくなりますが、今のトップは仁志さんだそうなので」

 吹にとってはこっちのほうが複雑だ。

『そうだな。そこばかりは二人の結果だ』

 幸はどう思っているのだろう。二人と言い切るところ、あの二人以外を首席とは考えていないのだ。信頼が厚い。無意識の言霊にならないよう、もう吹はこのことを話さないでおいた。


『仁志は恵一のことを知っていたらしい』

「そうなんですか」


 仁志は恵一と幼馴染で、昔からよく遊んでいた。会社に出入りもしていて、親同士も顔見知り。ちなみに仁志の父は地域の警備会社を営んでいる。大きな会社ではないが、頼られる存在だそうだ。最近は地域を限って行っていた警備も、範囲や新事業を拡張して、事前の防犯も行い、経営はこちらも上り調子だそうだ。吹は知らないが、あのときの盃が効いているのかもしれない。

 ちなみに仁志は、恵一や徳人が麗華と吹に出会ったあの会で、名目は警備員として、遠くから様子を見ていた。修学旅行中の吹の顔を見て知っている顔だと思ったのは、仁志である。


 今後つながりが切れることはないと、心のどこかで確信している。切れてほしいと願ってきたもの、つながりたくないと思ってきたものが、ここ一年ですっかり変わってきた。


「楽しくなりそうですね」

『ああ』


 麗華の表情がくるくる変わるのを見て楽しもう。同じことを麗華がしていることを、吹は知らない。


 こんこん、とノックの音がする。


「あ」

『そろそろだな。おやすみ』

「おやすみなさい」

 電話が切れるのは早い。また明日がある。さみしくはない。


「どうぞ」

「報告を忘れていたことがあって」

「?」

 婚約の件だろうか。

「専門学校との共同研修が行われるわよ」

「そうなんだ」

 おかしいことではない。でもなぜ今その話なのか。

「イチさんと会って思い出したのだけど、学園長から頼まれていたの。またあの学校との研修をしたいから交渉してほしいと」

 そんなことがあったのか。

「いい刺激があったものね」


 たしかに、お嬢様学校と呼ばれる学園としては、気を引き締めるのにちょうどいい機会になったといえる。学園長は次の話はしていなかったらしく、継続したい話を麗華にお願いしたのだった。一番にかかわったのが麗華たちだったのが大きいだろう。そして学園としては、その話題が広まることで入学者を増やしたい。高校としては研修をメリットに同じく売り出したいのだ。


「ということでこれから、淑女のレッスンはより厳しく致します」

「え」


 この家にきたからには、マナーも所作もきっちり身に着けてもらうとは言われていた。がんばろうとは思っていたが、怖くなった。


「幸さんにみっちり教えていただいてちょうだいね」


 それだけ言い残すと、にやりと笑ってぱたんと静かに扉が閉じた。にまにましながら吹が麗華を見ていたことに対する意趣返しだろうか。悔しいが、会う理由を増やせることは嬉しかった。



 翌日、まだ婚約者の発表はしていないが、お見合いの噂は流れていたため、婚約したことだけ公表された。相手が誰とは言わないである。そこで、麗華は四人で話すため放課後に吹の部屋にみんなを招待した。吹に異論はない。


「「ええー!」」


 全員は驚く。まず、恵一が企業の社長ご子息だったこと。見合い相手があの恵一だったこと。そして、麗華がそれを了承したこと。


「嬉しい、麗華様が乙女の顔に」

「きれいがかわいいになる瞬間って、これだよね」

「恵一さん、やるぅ!」

「結婚式は呼んでね」


 そんな三人の台詞に、イチさんが主席にならないと婚約破棄だとぷんすか言い返す麗華。この言い方だと、主席になれば結婚はもう決まっていると同義だ。三人は仁志には悪いが、恵一を応援している。


「今度顔合わせに行きますの」

 デートよりも、まずはまだお会いしていないお母さまにご挨拶に行くらしい。恵一も早いうちに来るという。

「条件のことを伝えておきたいのよ」

 婚約の申し出を先にしたのは恵一だ。恵一が麗華の両親に正式なご挨拶をするのが先ではないかと吹は聞いたが、麗華は恵一が主席を獲らなければ婚約は白紙という条件は譲らないらしく、さきにそれを伝えたいとのことだ。

 もしも主席を獲れなくても、麗華はなんだかんだ理由をつけて恵一と一緒になる気がするが。


「お買い物、お付き合い願えるかしら」


 もじもじ麗華発現。行先も目的も吹の時よりずっと正式なものだが、このもじもじしたときの動作が一緒で、三人は家族だな、とくすりと笑ったのだった。そしてお買い物当日、すべての買い物の購入額を見て目を見張ったのだった。



 麗華が恵一の実家に挨拶に行く日、吹は幸の家に行くことになった。叔父も叔母も、幸に来てほしいと言っていたが、それは理由があってあとになっている。


 恵一の家の家業は、不動産業だ。家も土地も売買する。賃貸もする。管理業もする。仲介もする。とにかく不動産にかかわることならなんでも行っていた。こんなに手広くやっているのにうまくまとまっているのは、社長と兄のおかげだろう。そして最近コンサルタントを雇ったらしく、その効果も大きいそうだ。

「それはオレの功績」

 と誇らしげに胸を張る恵一。


「麗華さーん、いらっしゃーい」


 ノリは恵一そっくりな母親だった。麗華の両親も毒気を抜かれる思いだ。父親はすみませんとばかりに苦い顔をして頭を下げている。これがこの家の日常と見て取れる。兄は後ろでにこにこと立っていた。雰囲気は仁志にどことなく似ている。


 麗華が事情を伝えると、せっかく初恋の相手を捕まえたんだ、必ず主席になれと父親に背を押されていた。条件がついていることになにひとつ文句なく、受け入れてくれた。恵一は父親相手にはお見合いの席での真面目モードなのに、母親相手になると軽い空気で対応している。ふたつの顔を持つのは、この両親がいるからこそなのかもしれない。唖然と眺めていたが、よい家族であることは伝わったらしく、両親はお互いにお互いのなれそめを話し始めて、自分たちを差し置いて話す両親の恋を聞いていて恥ずかしくなった恵一、麗華及び恵一の兄は、こっそりとその場を離れたのだった。



「麗華さん、恵一をお願いします」

 弟はこんなだけど、素直でまっすぐで優しいからと、麗華の手を握り、兄に頭を下げられてしまう。もしご両親にこう言われても、条件付きなため、はいとは言えないと麗華は考えていた。


「はい」


 だが麗華は答えてしまった。あまりに兄の顔が弟への慈愛に満ちていたからだ。これが兄の人柄なのだろう。

 優しいのは兄も同じなのね、と思ってしばらく見つめていたら、べりっと手を強制的にはがされる。恵一には二人がキラキラしたトーンの張られたシーンに見えていた。


「オレの婚約者なの! オ・レ・の! 気安く触れないでくれる!」


 ふんすと麗華の手を握りしめる恵一の手を、麗華は振りほどくことはなかった。くすくすと面白そうに笑う兄。弟の顔はこんななのか、と麗華はもっと恵一の顔を見たくなった。ふふふと笑っていたら、


「なに笑ってんの! 行くよもう!」

 手を握ったまま、どこかへ進む。兄のほうへ振り返ると、ゆるやかに手を振ってくれた。

「失礼ですがお兄さまは、お相手は?」

「仕事一筋でまだ独身」

 仕事が恋人だよ、と吐き捨てる。

「素敵な方なのに、もったいないわね」

 学園にきたら、捨て置く生徒はいないだろう。

「あのねれいかちゃん!」

 歩くのがストップした。

「オレの前で、他の男の話しないでくれる? 一応婚約者なんだし」

 拗ねた調子でむすっと吐かれた言葉には嫉妬心がこもっている。兄でさえ他の男になる。

「一応、なのね」

「言い直す。本物の婚約者!」

 ちょっとおもしろくて、麗華はついからかってしまう。と、きゅっと手が前に引き寄せられた。とん、と顔が肩に乗っかる。


「絶対逃がさない」


 さっきとは打って変わって、耳元で甘く囁かれて麗華はぎゅっと体が縮む思いだ。しばらく、その態勢のまま離れられなかった。手が近くに握られているのもあるが、麗華が恵一の態度の急変に混乱し固まってしまったためだ。そのときの麗華は、はたから見れば、恥ずかしくて真っ赤になったロマンスヒロインそのものだ。


 いつも堂々としている麗華がおどおどとしている姿は新鮮で、そのうまみを恵一はしっかりと覚えた。まだ恋愛に疎い麗華をどう扱い気づかせるか、組み立てている。落とす必要はないと思っている。もう落ちているから。だからなるべくたくさん、彼女が読んだ小説や漫画のようなシーンを実現させようと考えて、にやりと笑う。


 その様子を、兄は遠くからこっそり見て、安心した。ふと弟と目があった。さっきまでの意地悪い笑みから、満面の笑みに変わる。兄はグーサインを出した。弟も返す。あの顔だけは、いくら麗華にでも見せたくないなと思った弟想いの兄。




「あの子と結婚する!」


 そういったあの日から、兄の真似をするのではなく、自分の長所を生かした方面の勉強や言動を始めた。兄を支える仕事を調べ始めた。兄と比べられてしぼんでいた恵一を兄は知っている。あの子が恵一を変えてくれたのだと、感謝している。仕事が恋人、だなんて言われないように、自分も行動を起こしてみようと思った兄である。今度は、弟が兄の意識を変えたのだった。




「今頃どうしているか」

「恵一さんだから、大丈夫」

 恵一だからか、と不満そうな幸。そういえば、三人から指摘されていた。なるべくほかの男性の話はするな、比べるな、と。わざとならまだしも、無意識にやってしまうと不快な思いをさせてしまうこともあるよ、と。そうなの? と問う姉妹に、もし恵一または幸が、自分たち以外の女性の話をしていたらどう? と聞かれて、胸が苦しくなったのを思い出す。

「ご、ごめんなさい」

 きゅっと縮こまってしまう。不快な思いをさせてしまった。たまにしか会えないのに、そんなことはしたくない。麗華だからとは言えなかった。行く前から麗華らしくなく緊張していて、大丈夫のように見えなかったのだ。あの二人なら、と言えばよかった。

「おまえは俺の気持ちを読めるのか」

「え」

 心を読むことはできない。

『よく、表情が読めないとか、何考えているかわからないと言われる』

 そう言っていた。他の人からも聞いたことはあるが、吹には伝わってくるものがあった。ほんの小さな口の動き。口調。仕草。前髪やサングラスの向こうにある瞳。

 だがいつも同じことを思っている。幸も吹の思っていることを当てるように、言葉をくれるのだ。

「読むことはできませんが、合っているかはおいといて、わかるつもりです」

 今はなんだか嬉しそう。口元があがっているし、視線がやわらかい。くしゃ、と頭を撫でられる。わたしは犬ではない。でもこの感触は好きで、嫌とは言わない。



「さて、始めましょうか、お嬢様」


 秘書または執事モードになった。これから幸からのマナー講義だ。大学に入ったのに高校のときの勉強を教えることになるとは思わなかっただろう。今日は吹の苦手な勉強付きだ。


 幸は厳しかった。さすがトップクラスというべきか。口調を強めたりはしないが、細かい指摘がたくさん入る。帰ったらメモを見直し復習ノートを作っておかないと、忘れてしまいそうだ。終わったときにはもうソファの背にだらりとおなかを預けていた。干された布団になった気分。神宮司家のためだ、しっかりしろ。幸に余計な世話をかかせないためにも、一度で覚えなければ。


「それをやったら成績がガタ落ちだぞ」

 それとは干した布団の格好である。

「お休み中くらいはお許しください」

 楽しそうに口元を持ち上げる幸。これは半分冗談だ。半分は本気。

「れいちゃんはすごいです。いつもしゃきっとしていて、マナーも完璧で」

「それは幼いころからの教えがあるからだ。吹だって和のマナーはしっかりできているほうだ」


 藤原の家は和を主にしている。浴衣も着物も着られるし、決め事も多く、それは一般的にやるべきこと、やってはいけないことだ。ただ、そこはできているほうだ、ではなく、できていると言い切ってほしかった。


「学園は洋式なので、あまり役に立ちません」

「いつどこで必要になるかわからない。忘れないようにしておけ」

「はい」

 先生モードが抜けない。こと、と置かれたうさぎのカップが甘い香りを立てていて、やっと息が抜けた。ティーカップでないのが嬉しい。隣ではおおかみが持ち上げられている。

「一息ついたら勉強だ」

「はい」

 厳しい。せっかく会える数少ない機会なのに、これでは恋人ではなく先生と生徒だ。しゅんとしている吹に気づいたのか、隣から「ほら」と声がした。


「ふご」


 口にクッキーが挟まった。さくさくのクッキーは行きつけのコーヒー屋さんで買ってきたという。

「おいひぃ~」

 ここで、食べながらしゃべらない、とここで指摘があったらへこんだだろうが、優しい目線のまま何も言わない。

「恋人らしいことができたな」

 ふいうち! でもそれもそうだ。恋人っぽいこと。

「幸さんこそ、わたしの心が読めるのですか?」

「吹はわかりやすい」

 顔でわかるというのか。

「会った頃より、豊かになった」

 と言っても、会ったときはだんごを食べながらにこにこしていたが、と付け加えられてほかの気持ちが一気に小さくなる。

「悪い」

 ぽん、と乗っかった手は、これで許せ、と言っているようでそれも気に食わない。

「早く終わらせて、帰るまでの時間ゆっくりしよう」


 そこで「はい」と言ってしまったのが悪かったのか。幸の指導は一緒に考えて解くというより、どう解くかの講義で、本物の先生。人によって教え方は違うんだと実感する。解き方がわかるので良いといえば良いのだが、それを覚えるのと実際に解いて慣れるのにはまた別に時間がかかるのだ。帰ったらこれも復習だ。思った以上にハイスピードだ。


「はぁぁぁ」


 麗華から出された範囲がやっと終わったときには、お昼をとうに過ぎていた。食べることが好きな吹でさえ、時間を忘れて必死にやっていたということ。神宮司家から預かっていた昼食を一緒に食べる。おいしい。勉強後のごはんはおいしい。

 じーんとしていたら、

「早かったか」

 と聞かれる。

「ちょっと」

 早かったです。

「悪い。早く終わらせたかった」

 理由はきっと、同じだ。幸せな時間がやってきた。


 もうすぐ夏に差し掛かる。出会ってから一年は過ぎた。いろいろあったなぁと思い出す。

「れいちゃんも、今はきっと、同じ気持ちだと思います」

「麗華様の勇気と強引さで今があるといっても過言ではない」

 あのとき、麗華が五人に声をかけなければ、今はない。

「俺がおまえに茶羽織を貸したのも間違っていなかった」

「いつも借りてばかりですね」

 もらってもいる。勇気も、やさしさも、あたたかさも。

「今日もいろいろ教えていただき、ありがとうございました」

 ぺこりと隣に頭を下げる。

「お礼を――」

「これでいい」


 顎に支えの感覚があったと思ったのは一時。唇が重なったとわかったのはそのあとすぐだ。

 前の綿あめとは違う。あのときはできたてのふわふわだったのに、食べやすく固めたかんじになっている。それに


 長い。

 長い。

 長い!


 だんだんと吸われていく感触。


「~~っ」


 声も出せない。窒息しそう、と思ったところで離れた。


「……ふぁ」


 やっと息が吸えた。だが力が抜けてしまって、とんと前に倒れて頭がよりかかったのは幸の胸だった。立っていたら腰が抜けてしゃがみこんでいたかもしれない。


「合図、は」

「了解はしかねると言ったはずだ」


 くぅ! そうだった。


 とはいえ、吹の体内時計はとてつもなく長かったが、五秒ほどしか経っていないさっきである。


「包んでもいいか?」


 こっちは言ったとおり、先に教えてくれた。心の準備をする。どちらにせよ、力が抜けてしまったなにもできない。


「どうぞ」


 きゅっと引き寄せられる。あとはもう、まわされた手のぬくもりを感じるだけだ。なにも考えるな、と自分に言い聞かせる。まだ慣れない吹は、また負けたと悔しくなる。こっちはこんなにどきどきしているのに、目の前にある幸の心臓は同じリズムを繰り返すだけで大きく跳ねたりしていない。


「幸さん」

 下からその端正なお顔を眺める。

 なんでそんなに冷静でいられるんですか。目で訴える。どきどきしてるのはわたしだけですか。なんで。

 そのときだけ、一瞬、鼓動を大きく感じた気がした。


 ぺり、と体が離れる。お茶を淹れてくると台所へ行ってしまった。訴えは届かなかった。


 幸とすると、とても動揺していた。赤くほてった頬、雫を湛えた瞳。花びら色の唇。そんな顔で上目遣いをされたら、我慢できない。危険、と理性が訴えてきて、離れることができた。もしかしたら、あのまま押し倒して窒息させていたかもしれない。

 水の音を聞いて、落ち着こうとがんばる。持ってきたマグカップのおおかみが、うさぎの隣に迫っていた。



「お迎えが来るみたいです」

「そうか」

 四時頃、近くまで運転手さんが麗華たちと一緒に来ることになっていた。

「挨拶くらいしなければ」

 挨拶。その単語にどきっとする。

「あの、今度別の機会に招待すると言っていました」

「送っていかないわけにはいかない」

 そうすると必ず顔を合わせる。せめて自己紹介をして、また今度という形にしておきたい。

「わかりました」


 どこか落ち着かない幸。こんなのは初めてではないか。幸にも冷静でないときがあるのだな、とまた知ることができたことを嬉しく思う。それならもっと、と意地悪な考えが思い浮かんだ。

「行きましょう」

 座っていたソファを立ち上がる。そして、まだうつむいて座っていた幸の頬に両手を当てた。


 ちゅ


 え、と声にならない声が、吹にはきちんと聞こえた。この間の仕返しだ。なにも言わずに玄関へ向かう。

「れいちゃんをお待たせできません。急いでください」

 問うことができないように間を詰める。恥ずかしくないぞ、これは仕返しだ。わたしの気持ちを実感すればいいのだ!

「あ、ああ」

 さっきすでに動揺していたことを知らない吹は、さらなる動揺を与えてしまったことをもちろん知らない。ただ、幸の新しい顔を知れたことを喜んでいる。


 幸は麗華の車まで吹を送る際、神宮寺家の両親に会ったのだが、どのように挨拶したか、まともにできたかをまったく覚えていなかった。夜はそれが心配で寝付けないほどに。吹は仕返しに成功したのだ。

 なお、いつもの行動は体に染みこんでいて、幸はきちんと挨拶をできていた。

 


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