3.
集合時間には無事に間に合った。時間を守れない生徒はいない。そのあたりについてしっかりしているのが、吹たちが通う学園。
この後は宿での自由時間。戻りました、と先生に伝えてから、割り振られた部屋へと向かう。
老舗の宿が、若者や高級志向の客層、あとは外国からの観光客向けに新たに建てたというこの宿は、和をコンセプトにしている。落ち着いた色調と日本の四季をふんだんに取り入れており、心安らぐ空間が広々と作られている。
廊下は歩くときしりと小さな音を立てる。ところどころに花が飾られていて、夜になった今でも瑞々しさがある。電気はLEDを使っているが、色はほんのりオレンジ色で、濃い茶の木目があたたかく照らされていた。
こういう和なら、けっこう好きかも。
部屋の前に着くと、持ち歩いていた籐の篭のなかからカードを取り出した。部屋の鍵は昔ながらよくある、細い木の片に鍵がそのままぶらさがったあれではない。持ち運びが楽になるように、さらにはセキュリティ重視のため、毎日変わるカード式だ。ただ、無機質な見た目が冷たさを感じさせないよう、和の生地を使った薄い容器に包まれている。厚みのない名刺入れのようだ。
吹の泊まる部屋の名前は“朝顔”。たまたま浴衣の模様と同じでちょっと心浮かれてしまう。
タッチする場所はビジネスホテルとは違い、ドアノブの下ではない。そもそもノブがない。引き戸の取っ手にかざす形式となっている。和をコンセプトと謳っているからか、襖を横に流す形式の入り口だ。
ノックをしてから戸を開けると、中には誰もいなかった。机の上に、“お風呂に行ってます”とメモが残してあった。同じ部屋の三人のなかには、混浴を気にしていたあのグループの人がいる。きっとそこへ向かったのだろう。部屋割りはランダムで、先生から指定されている。
部屋は四人部屋。全体が畳になっている。広縁だけが板だ。
主に使う部屋、ベッド二台の寝室と布団が二枚敷かれている寝室、あとは室内の風呂とトイレ、洗面所。風呂はもちろん温泉で、ユニットバスでないのが嬉しい。トイレと洗面所も別。素晴らしく豪華な部屋だ、と思うのは吹だけだろうか。
扉の開いていたベッドの寝室を覗くと、三人分の荷物が置かれている。布団の敷かれた寝室にある二枚のうち片方は、この二台のベッドの間に入ることになるのは想像に難くない。布団の部屋を独り占めして夜を越すことになる。吹は布団の端に自分の荷物を置いた。ここを使います、と伝わるはずだ。
自分もお風呂に行こう。せっかくだから大浴場に行きたい。いくら温泉とはいえ部屋の風呂に浸かるのはもったいない。多くの生徒が混浴に興味を持っていた。何人かが行くのを見れば、最初は怖気づいていても、ためしに行ってみる人が多いだろう。
時間を見ると、宿の他の客はそろそろ湯船に浸かっている頃合。ここへ泊まっている生徒も多くが向かっている気がする。空間を大きく使った部屋の間取りにし、宿泊できる人数を少なくしている宿とはいえ、いくら大きい浴場でも混んでいる時間帯だ。生徒たちは外での自由時間を楽しんでテンションも高まっていることだろう、話題も尽きないに違いない。入浴の時間は長くなりそうだ。生徒たちが出る頃を見計らっていこうと、吹は明日の身の回りの準備を済ませて時間をおいてから、部屋を出た。
それでもまだ早いと思った。ロビーへ行き、浴衣を選んだコーナーに足を運ぶ。見ると、共用の浴衣と丹前に、さっきあの男の人から借りたものと同じものがある。これだ。こだわりの多いこの宿が、他の宿と被るものを用意するはずがない。
部屋の棚にも、丹前が人数分用意されていた。部屋にあったそれは女性用で、大きさも色も異なるが、ここにある男性用とあれは同じもの。もしこのロビーのコーナーから持って行ったものでないとしたら、部屋にある備品の数が合わなくなってしまう。どうやって返そうかと、考えを巡らせる。絶対返さなきゃ。
「返すんだ」
小さく呟くと、宿の中の間取り図を見ながら、まだ歩いていない場所を散歩し始めた。これは間取りというより地図だと思う。
何度も地図を見る。広いなぁ、というのが最初の感想だ。この学園に通っていなければ、この宿に泊まることはなかっただろう。一階は受付ロビーと靴や荷物の預かり所、休憩所。フリードリンクも提供している。休憩所から見えるガラス張りの窓には出口があり、そのまま外に出て広い庭園を散歩することもできる。大きな窓からも、フリードリンクを楽しみながら椅子に座って庭園を楽しめる。この庭園も素晴らしいと有名だ。夜はライトアップもされている。二階には、入口の目の前にある階段からもエレベーターからも行くことができる。二階は主に食事処だ。共同の間と、個別の間がある。
三階は大浴場。アメニティも種類豊富。アルコールを含むフリードリンク、マッサージチェアなどが備えられている。日本らしさを大切にしたのか、四階はない。詳しくは、お客様が泊めるための部屋は四階にはない、だ。宿の倉庫や従業員用の休憩所などになっているらしい、と話しているのを耳にした。五階から上は宿泊のお部屋となっている。どの階にも、ギャラリーや展望窓があり、お客様を飽きさせることのない造りとなっている。
吹は時間調整の間、展望窓からライトアップされた庭園を見下ろして、または夜空を見上げていた。庭園のライトアップは三階の露天風呂からは美しく見え、最上階の混浴からは夜空を臨むのに邪魔をしない明るさと照らし方がされているそうだ。この展望窓から見上げてみても、残念ながら星は見えない。が、さっきまでまわってきた観光場所と庭園は見える。
星も見たい。朝焼けも見たいしなぁ。
そして最上階の混浴。そこからは朝も昼も夜も、立派な景色が見られるだろう。
ゆっくりと歩いていたら、思ったよりも時間が経っていた。そろそろ生徒たちが湯船から上がってくる頃だ。となると今度は脱衣所が人でいっぱいになる時間。誰かとはちあわせることのないよう、吹は階段を使って三階へ向かう。階段を使う人は少ないかと思いきや、ここもきれいに装飾されていて、使う人は多いらしい。写真を撮る人が多いのは、花天井になっているからか。このまま階段を上がったら天国に行けそうなほど美しい。残念ながら吹は上の階にいたため階段を下りている。もし上が天国なら下は地獄だな、なんてひねくれたこと考えながら大浴場に向かったのだった。
大浴場は、生徒だけを数えると、脱衣所と湯船を半分ずつ占めるくらいの人数だった。今湯船にいる生徒も、そろそろ上がる頃合いだろう。思ったより混浴に行く人が少なかったらしい。行った人たちの話を聞いて、明日は行く人が増えるだろうか。それとも減るのだろうか。
脱衣所の色調は濃い茶色ではなく、麦の色を基調にしていて爽やかな清潔感がある。いくつも洗面台があって、女性には嬉しい。アメニティもボタニカルを主に広告する会社のもので、容器もわざわざ和風にされている。細かいところまで手が届いていて、ぬかりない。
楽しそうに会話している生徒や他の女性たちを邪魔しないよう、隅に空いているロッカーを見つけ、浴衣を脱ぐとすぐにお風呂へ向かった。
広い浴槽が一番に目に入る。檜のいい香り。この温泉は無色透明の無臭で、木の良さが際立つ。この宿の中で出会ったのは、同じ修学旅行生と夫婦のペアが何組か、あとは家族、同じ年代であろう男性たち。となると、この宿のほとんどを吹たちの通う学園で占めているといえる。
体を流してから浴槽に足をそっと入れる。少しぬるいお湯が、じんわりと体に染みた。ゆっくりと体を沈めていく。さっきまで何人も浸かっていたというのに、ちょうどいい温度。管理もいきわたっているのがわかる。
さらりとしているお湯が気持ちいい。美肌成分がある、と生徒が嬉しがっていたのを思い出した。広い湯船は毎日使わせてもらっている。でも一人用のそれよりもここのほうがもちろん広く、空間は心地よい。いつもと違う環境であるのも相まって、ゆっくりと力が抜けていくのがわかる。触れる檜の感触も気持ちよさがある。
ああ。
ある程度体を温めてから、一度シャワーに。ここにもアメニティは設置されているが、使うのは浴場入口の前にあったコーナーで、好きに選べるシャンプーとコンディショナーだ。高級志向のシリーズがずらりと並べられていて、選ぶのが難しいほどだった。きっと他の人は普段から使い込んでいるものか、どれも知っているものばかりだろう。
使ってみると、選んだものからははちみつの良い香りがした。髪がなめらかに、艶やかになっていくように感じる。気にしたことはなかったのに、自分にもこんな気持ちがあったんだと驚いた。
さて、洗い終えて次は露天風呂へ。外も檜をふんだんに使った造りだ。庭園がよく見える。歩いている人がいるのも見えた。ゆっくり歩いては立ち止まって、を繰り返している人たちを見ると、夜は行かなくてもいいと思っていた吹も、やっぱり行ってみたくなってしまった。明日、お風呂の前に行ってみようか。心も体もあたたまり、吹越を浴びた河原での冷たさはなくなっていた。
さっぱりとした気分で浴場を出ると、脱衣所に同じ学校の生徒はもうはいなかった。別の宿泊客だけ。もう部屋に帰ってゆっくりおしゃべりを楽しんでいるか、フリードリンクコーナーにいるか。自分はアイスが食べたいと思いながら、髪を乾かす。髪は天使の輪ができるくらいに艶やかに仕上がった。
気持ちよく寝られそうだと思いながら暖簾をくぐろうとする。と、甲高い声が、布を一枚越えてまで聞こえてきた。なんだか盛り上がっている。
「麗華様、大丈夫ですか?」
「ええ、落ち着いてきましたわ」
「はい、これ飲んで」
手渡されたホットミルクを受け取って、ちびりと口にした生徒。この生徒が麗華様と呼ばれた同級生で、自由行動の時間に吹の前で話していたグループのリーダー格だ。ふぅ、と息をつくところを見ると、なにかあったようだ。でもこの人たちは、大浴場にはいなかった。とすると、混浴に行っていたはず。最上階から飲み物を取りに下りてきたのか。
「あんなに素敵な殿方が何人もいるなんて」
聞いてませんわ! と声は小さくも叫ぶ麗華。
「あたしもびっくりでしたよ~」
「ラッキーすぎない?」
「ねぇ」
混浴で素敵な殿方とやらに会ったらしい。ここで見た人たちを思い返すと、同年齢らしきあの男性たちのことだろうか。ラッキーと言うくらいだから、悪いことではなかったことに安心し、アイスを取って窓際の椅子に腰掛けた。身体の向きは窓に向ける。窓越しでも庭園がきれいだ。大浴場の露天風呂から溢れる湯気が雲海のようになって、これもまた、観光場所と違う美しさがある。
高級バニラアイスをゆっくりと食べる。無料でもらえるプラスチック製のスプーンではないのがまた嬉しい。
また生徒たちの話が聞こえてくる。つい耳を傾けてしまった。
彼女たちが混浴に行ったのは、修学旅行生のなかでは一番だったらしい。入ると、女性側には大人が二人、男性側にはもっと多く人がいたそうだ。やはり女性は行きにくいのだろうか。
若い女の子が入ってきてきゃっきゃしていたら、男性は少なからずそちらを向くだろう。生徒たちは、最初だけは様子を見ていたが、だんだんと空気に慣れて会話が盛り上がっていった。男性側も女性を気にしていて、その男たちに問題があった。四十から五十代くらいの男性だったのだ。アルコールまで入っている。下のフリードリンクでいっぱいひっかけてきたようだった。
お、いいねぇ、ひゅーっ、という声とともに絡まるような厭らしさのある視線を途切れることなく向けてくる男性たちを不快に思うも、だからとはいえすぐに出るのは失礼と考え、出るに出られなかったそうだ。
なるべく離れたところでお湯に浸かっていたところ、その男性たちが話しかけてきたのである。前に入っていた女性二人組が出ていった後だった。
「ねえねえお嬢ちゃんたち、もっと近くにおいでよぉ」
にやにやとする男性。背を向けて聞こえないふりをする。
「ツレないなぁ」
「なにかのご縁だよ、お話しようよ」
相手にするつもりはないが、ずっと話しかけてくるし見つめてくる。
「いい身体だよねぇ、若いっていいねぇ」
「同じお湯に浸かれるなんて、幸せ幸せ~」
浴槽は岩風呂で、男性側と女性側に同じく岩で堺ができている。とはいえつながったお湯。そしてやろうと思えば簡単に乗り越えられてしまう高さの壁。
「おれたちから近づいちゃうか~」
男性が、がははと厭らしく笑ったときだった。
「お、佐藤じゃーん!」
「君たちも来てたの?」
そこへ三人の同年代の男の子たちが風呂に入ってきた。
「おっさんたちごめーん、ちょっとどいて」
「友人なんです」
三人は男性を退けて境目に陣取り、視線の壁になった。女性側に背を向けている。
「クラスメイトとはいえ、さすがに風呂入る女の子をじろじろ見るのは男の名が廃るな」
「そうだね。モラルとマナーは守らないと」
「みんなで気持ちよく、この素敵なお風呂に入りたいですからね」
まるで男性たちを突き刺すような言葉選びだ。
「空、きれいですね」
「同じ空の下に女の子がいると思うとちょっと心躍るな!」
「似合わない台詞だね」
「こちらが恥ずかしいです」
女性の美しさを遠回しに褒める。
「おじさまがた、飲酒のあとのお風呂はおすすめできませんよ?」
「倒れたら大事だぜ」
「いい大人がそんなかっこ悪いことしませんって」
またもや遠回しなお咎めと嫌味に、顔を歪ませる男性たち。場の空気に耐えられなくなったのか、しばらくしておずおずと出ていった。
「あ、ありがとうございます」
ずっと背中を向けたままの男たちに、一番に麗華が礼を言った。他の人も続く。男たちはやはり背を向けたまま。
「若くてきれいな女の子がいたら、見惚れるのは当然だかんな」
「僕たちも星より先に君たちに目をとられたもんね」
「先輩!」
「あれ、おまえは違うん?」
「う」
笑う三人。彼女たちと男三人になった混浴で、ひとりが勇気をふりしぼって、話しかける。
「あの、今日は旅行かなにかでこちらへ?」
「んー、いや、修行?」
返事は背中を向けたままでも、失礼とは思わなかった。
「職場体験みたいなものかな」
「よいお宿に泊まられるのですね」
ただの職場体験で泊まるには、いささか高級すぎる宿であることを彼女たちはわかっている。
「仕事がんばった分、ご褒美のようなものです」
そろそろ出るか、と立ち上がろうとする三人。彼らがいなくなれば、もう女だけで安心の絶景露天風呂だ。後から来たにしては、あがるのが早すぎる。
「また、会えますか?」
麗華の問いかけに、
「ご縁があれば」
「同じ宿ですし」
「行こうか」
三人は、遠くの混浴出入口へと姿を消したのだった。
「またお会いしたいですわ……」
とろんとした目で虚空を見上げる麗華様。今まで良い家柄のマナーあるご子息には何人も出会ってきたろうに、これが修学旅行マジックか。
「あと数日いるそうですし、会えますよ!」
「あたしももっと話したい!」
出た後、探しても見つからなかったとのこと。上から順番に宿内を巡り、ここまでたどり着きひと息ついている、といったところか。
そんなことがあったのか、と思いながら、こっそりと宿の特製手作り生姜紅茶をカップに入れるとその場を離れた。
明日、その彼らに会ったら、彼女たちはとても喜ぶことだろう。
さて、明日の朝のことを考えて、早めに寝ることにしよう。吹は部屋にゆっくり歩いた。途中、何人かとすれ違ったが、同じ学園の生徒ではなかった。