29.
とうとうこの日がやってきた。待ちに待ったこの日。準備を進めてきた、この日。
前日は麗華の家に泊まっていた。泊まらせてください、とお願いしたら、もう自分の家なんだから、帰ってくるのにお願いはいらない、泊まるのではないと叱られてしまったくらいだ。胸がほかほかした。これは、嬉しい、という感情なのかもしれない。
購入した服は一度着て、様子をたしかめてはみたものの、それらは身の丈に合っているか、そもそも幸の好みか心配で心配でそわそわする。
「|吹《ふい! 化粧をするわよ!」
髪はがんばって練習して、編み込みをサイドの両側にいれた。そういえば、ハーフアップにしないで下ろしたままのところを見せたことあったかな。夜に何度も練習したかいあり、そこそこうまく仕上がったと思う。
しゅっと大人っぽさを意識した洋服に、ニュアンスある甘い印象を取り入れる。雑誌と友人たちから得た情報だ。いつものハーフアップではないが、耳の上あたりが持ち上がってすっきりしていることで、イヤリングもきれいに見える。
「薄く施しておくわ」
ぽんぽん、となにかが顔に乗せられていく。自然な印象になるように意識してくれている。パーティーではない。吹自身の良さと雰囲気がよく出るようにしますわ、と最初に言われていた。もともとの血の気のない白い肌を、ほんの少しのチークだけで色よく見せる。アイシャドウも軽く、ほんのり明るくするだけ。たったそれだけで、魔法をかけられたように顔が明るくなった。
「れいちゃんすごい!」
賛辞に照れながらも、これくらいできて当然よ、と胸を張る麗華は、
「パーティーで崩れたときは自分で直すのよ、吹にも今度覚えてもらうわ」
といらないことを言った。
「洋服もばっちりね」
ストッキングの変えも持った。靴のなかにはレースのパンプス用のレースのフットカバーをはいている。イヤリングも装着完了。カバンの中身も何回も確認。
「ケーキも持った!」
「では行きましょう」
駅まで送ってくれることになっている。自分で行きたい、という吹の意思を、ここでも聞いてくれた。あの人に、自分で会いにいきたい。
「楽しんできて」
車からそう言って、送り出してくれた。麗華は優しい。
電車に乗るのは久しぶりだ。ここ最近、移動手段は麗華の車だった。がたんという音と揺れ、変わりゆく景色。入れ替わる人。残念ながらゴールデンウイークということもあり、座れずに立っていた。辛くはない。これから大切な人と会える。それが楽しみで、疲れるとすると、どう感想を聞いてみるか、もらえるかのその点だった。今日の服装はどうだろう。気に入ってもらえるだろうか。三年生になって、神宮司家の養子となって、雰囲気が変わったと思ってもらえるだろうか。どきどきでいっぱいだ。
到着した最寄り駅は、思ったよりも住みやすさのありそうなところだった。都会のイメージはきらきらしていて人がたくさんでごちゃっとしている場所。でもここは、生活するのに向いたあたたかい雰囲気だ。きらきらはすべての場所ではないと目で見てわかった。幸がここを選んだ理由がわかる。大学にも行きやすそうだ。
改札口を出たところが待ち合わせ場所。住みやすさを重視したところだからか、思ったよりは人が少ない。とはいえ、同じ駅で降りる人もそこそこ多く、人ごみにまぎれていく。改札口を出たら迷子になりそうだ。でもなぜか、幸をすぐに見つけられる自信がある。
あ。
改札を通る前に、影を見つけた。すらりと高い身長だけが原因ではない。思わず小走りになってしまう。
ピッ
電子カードをかざした後の電子音が、外へどうぞと言っているみたいだ。やっと解放された気分になる。風が通った気がする。一直線に幸のもとへ向かう。幸もこちらへ足を踏み出していた。
「幸さん!」
抱き着いての再会はできない。恥ずかしいのももちろんだが、大切なケーキを持っているからだ。
「吹」
なんとなく戸惑っているように見える。もしかしてわからなかった?
「会えて嬉しい」
いつも、短いがまっすぐな言葉を贈ってくれる。
「わたしもうれしいです」
にこにこと二人で目を合わせる。が、すぐに幸が顔を逸らしてしまった。
「先に荷物を置きに行こう」
向いた先は駅から出る方面らしい。ケーキは冷やしておきたいため、その旨を先に伝えておいたのだ。持とうとする幸の手をひょいとかわして、自分で持つと伝える。最後まで、自分でやるんだ。幸も無理強いはしなかった。ゆっくりと歩きだす。吹はそれについていく。
到着先はもちろん一人暮らしのアパートだ。アパートとしては新しいほうらしい。かちゃ、と鍵をさして開いたドアの先。ちょっと見えたのは、玄関に靴棚。あがると小さな台所。その先にリビング。玄関からは見えないが、その先がお風呂や洗面所だろう。
そういえば一人暮らしの人の家にあがるのは初めてだ。あるとすれば、寮にいる三人の部屋。それは一人暮らしとは言えないが、一人暮らしの住まいほどの大きさはある。何度か行ったことのある恵一の家は、家族での住まい。しかしここは異性の家。なんだか緊張してきた。
「冷蔵庫にしまうのでいいか」
「お願いします」
吹は外で待っていた。このときばかりは箱を幸に託すしかない。できれば野菜室のほうが嬉しいが、見たところなさそうだ。
「部屋はまた案内する。先に買い物行くか」
「はい」
また鍵をかける。大学生ってこんなかんじなんだな、とへんなところで思う。入口でオートロックの鍵を開けるのは、お金持ちの人だけなのか。
幸がなにを購入したいのかはわからない。だから周辺の店を調べておいた。家具、小物、消耗品。行くとしたらどこだろう。
「なにを買いますか」
「クッションとマグカップがほしい」
意外にも、すでに用意されていそうなものだった。幸なら最初から持っていそうなもので不思議に思う。約一か月ほど住んでみて、別のものが欲しくなったのかもしれない。徒歩の範囲内には大型チェーン店があり、すぐに手に入るだろう。シンプルなものが好きそうな幸。自分で使うものは柄がついたりしていなそうだ。そこで思う。吹は幸の好きなものなど、まだまだ知らないことが多すぎる。今日のお出かけで、よく観察しておこうと決めた。
「あっちに雑貨店がある」
そこへ向かうらしい。事前の調べで存在は知っていたが、目的地がそこになるとは思ってもいなかった。もちろん性別にかかわらず使えるものがほとんどではあるが、なんというか、かわいらしいものが多いのだ。シンプルかつおしゃれで、木目調のものもあるし、生地や素材にも凝っている。そういうものが目当てなのかもしれない。
考え事をしていたら、肩にとんと手がまわった。いつのまにか歩道の内側に移動している。男性が女性を道路側にしない、あの光景だ。興奮するよりも、久々のあの手の感触が嬉しくて恥ずかしい。人が少なくなると、手が離れた。今度はさみしい。今日は心のなかみがあちらこちらに移動して、混乱しているみたいだ。
ふいに、手にあたたかさを感じた。
「はぐれないように」
人込みに慣れていない吹のため。そう装っているが、これは手をつなぎたいと言っていると思ってもいいと思った。いつもあたたかい幸の手。でもそれは温度的なものではない。ただ、今のそれは、温度のそれだ。そして半歩ほど前を歩くようになってしまったのも、照れているか恥ずかしさからか、と思ってもいいかな、と吹は斜め後ろでほんのりと笑う。だってこれは、恋人つなぎ。手を交互に絡ませる、あのつなぎ方だ。ほとんどなにも会話を交わさないまま、目的の店まで歩いていった。
約十五分。長かったのか短かったのかわからない。会話はなかった。
店は知っていたが、来るのは初めて。店内はゴールデンウイークの恩恵にあずかって多くの人がいた。さすがに店のなかまで手をつないでいるわけにはいかず、どちらからともなく手が離れる。
「クッション見るか」
今日は幸の買い物の手伝いだ。否はない。
春らしいものから夏のために涼を求めるものまで多くの種類がある。選ぶのは難しいと思った。吹の部屋にクッションはないが、たまにみんなが来ることを考えると、いくつかあってもいいかもしれないと思った。ただかさばるため、購入するとしたら商店街にしよう。
少しの間、黙って見ていた幸。その様子に、女性の眼がひきつけられるのがわかる。なにも話さずに立っているだけ人目を引いてしまうそのなにかがあるのだ。今日は吹のためか、サングラスはしていない。前髪で半分ほど目を隠すようにはなっているが、それがまたミステリアスで、視線が集中していくのがわかる。
わたしが彼女だなんて、誰も思っていないだろうな。
そんなネガティブ思考がまとわり出てきた。ぶんぶんと頭を振ってふきとばす。
「気になるのはあるか」
視線を観察して、なにが気になっているのかを見定められていたのは吹のほうだった。だから突然声をかけられて驚く。
「え? えーと」
吹が気になっていたのは、新緑の色で麻を使った、太さがまだらの糸でできているカバーに包まれたクッションだった。触っていないが、ふわふわすぎないかんじに見える。麗華の家のクッションはみんなふかふかで、どこか落ち着かない。少し重みがあるほうが好みなのか落ち着くのか。
指さしたそれを、幸が手に取る。そして吹をじっと見た。なにかと思ったがなにも言わず、同じ種類の紺色のものと一緒にかごに入れた。決めるのが早い。それも高校での勉強のおかげか。決定は迅速に、が必要だった気がする。ただ、自分の好みが反映されてしまって、心配だ。
「あとはマグカップだな」
あっち、と指さした。店のなかまで棚の配置を知っているとは驚きだ。いや、それとも事前に来ていたのか。
移動しながら小物を見る。春のものから夏のものはもちろん、季節が過ぎてしまったもののセールが行われている。見てみたいが、目的を忘れてはいけないと、自分に喝をいれる。
そういえば、カップはシンクの上でひとつ見かけた気がした。気のせいだろうか。ほしいのだから、増やしたいのかもしれない。
棚を見ていると、かわいいものを見つけた。持ち手が動物になっていて、ティースプーンやマドラーをひっかけることができるデザインで。木製のコースターまでついている。学園では普段、ティーカップを使っているため、こういったマグカップは使わない。あの取っ手に指をいれてはいけないとはつゆ知らず、入学時には驚いた。つまむように持ち上げるのに慣れるには時間がかかったものだ。麗華に見せたらとびつきそうだな、と思うとついにやけてしまう。
「これが好きか」
「わぁっ」
近くの棚を見ていた幸がすぐ隣にいた。
「すみません、今日は幸さんのためのお買い物なのに」
「いや、いい」
なにがいいのかはわからない。だがもう一度、これが好きかを問われて好きと答える。くまとうさぎ。おおかみとぶたもかわいい。いるかやかえるもいて、種類が豊富だ。
じっと見つめた幸は、まずうさぎを取った。これを買うのか。かわいいものが好きだったりするのだろうか。
「他はどれが好きだ」
「えっと」
灰色の毛に黄色の眼をしてむすりと笑うおおかみがかわいいと思っていた。もうひとつは眠そうな顔のぶた。おとぎ話に合わせたら楽しい。
「これがかわいいです」
すぐに籠に入る。
「この二つですか?」
うん、と首を縦に振る幸。
「おおかみさんなら、ぶたさんなイメージですが、うさぎさんもかわいいですね」
童話を考えると、おおかみにはやはりぶたが合う。
「たしかにそうだが、こっち」
幸はぶたではなくうさぎを変更なし。
「買ってくるから、待っていてくれるか」
「はい」
二人とはいえ、会計に多くの人が並ぶと邪魔になる。レジ近くで商品を眺めて待つことにした。
「あの人かっこよくない?」
「でも見て、持ってるのかわいい~」
「ギャップ萌え!」
「声かけちゃう?」
若い女性の会話が耳に入ってくる。
かけないで。かけないで。
思ったよりも時間がかかって、待っている吹はそわそわした。
「待たせて悪い」
思い切りきらきらした視線を送っている女性たちには目もくれず、吹のもとへやってきた幸。手には大きな荷物。クッションが二つに割れ物がある。箱にいれてもらったとしたら、かさばって当然だ。
「いえ。わたしにも持たせてください」
紙袋は二つにわかれている。重さを優先して考えたのか、幸は外に出て、クッションの袋を渡してきた。任せてくれたことが嬉しい。ぎゅっと両手で袋を抱きしめていたら、
「片手」
幸の手がそこにあった。
「!」
そっと、その手に自分の手を重ねる。きらきらした視線を向けていた女性たちは、残念そうに去っていった。
帰る間も、クッションの紙袋は軽かった。
本当はランチを外でとるはずだったが、想定以上の人出で、テイクアウトにすることに変更しようかと考えたが、それなら家で作る、となにも買わないまままっすぐに幸の家へ。
「おじゃまします」
「どうぞ」
どきどきするのは自分だけかと吹は心配だ。玄関に先に入れてもらうと、かちゃ、と鍵がかけられた。一人暮らしとしては防犯上当たり前なのだが、それを知っていてもここが二人だけの空間としての意味を大きくしてしまう。
「座って待ってろ」
洗面所で手洗いうがいを済ませると、吹はひとりリビングで座っていた。幸は昼食を作ってくれている。これって本来立場が逆ではないか。吹は疑問に思った。作るところをもっと近くで見たいが、それだと作る側としてはやりにくい。厨房を借りてひとりでごはんを作るとき、じっと見られると気になるのだ。とんとん、という包丁のテンポのいい音やフライパンをふる音が聞こえてくる。それだけで姿を想像して待つ。
その間、失礼ながら部屋を観察した。物が少ない、シンプルな部屋。三つに折りたためるマットが壁際に立っている。寝るときに広げるのだろう。
吹が座っているのは、詰めれば三人くらいは座れそうなソファ。床にはラグマットが敷かれている。ローテーブルは木目がしっかりとしたもの。あとは棚がひとつ。服などはクローゼットの中にあるのだろう。棚のなかは本とパソコンがある。多分あのつまみを開くと机になるのだろう。隣に椅子があるのがその証拠だ。
あとはテレビ。観葉植物がいくつかある。緑をとりいれたいのか、好きなのか。男性の部屋は、女性よりも物が少ないみたいだ。麗華の部屋は大きさの違いはさておき、たくさんのもので溢れている。吹は寮の部屋をシンプルに最小限のもので済ませているため、麗華の部屋を見たときは驚いたものだ。
いつのまにか、いい香りがしてきた。潮の香りと、あとはほんの少し、にんにく。鷹の爪。
「なにかお手伝いできることは」
「待っていてくれ」
ない、と遠回しに言われてしゅんとソファに戻る。いつか隣に立てるようにがんばらないといけない。多分今幸が作っているものを自分は作れない。お料理の作れるものを増やさないと、と目標を立てた。あの人に、次はレシピ本を紹介してもらおう。
こっそり台所を覗いてみると、フライパンを動かす幸の立ち姿が見えた。エプロンをつけている。なかなか見ることのできない姿だ。なんというか、ちぐはぐな雰囲気。しっかり目に焼きつけておこう。次回、なにかプレゼントを贈るときはエプロンにしようと決めた。手作りでも受け取ってくれる気がする。
「できた」
お盆に乗ってきたのは、わかめの入ったコンソメスープとサラダ。野菜はちぎったレタスと斜め切りのきゅうり、串切りのトマトだ。
「簡単で悪い」
「いえ! 悪くないです」
突然手作りに変更になったのだ、なのにてきぱきとありもので作ってしまう幸はすごい。
「はい」
一度台所へ戻った幸は、両手にお皿を持っていた。あさりが見える。
「ビアンコ」
あさりを使った塩味のパスタだ。スライスした玉ねぎが触感をよくしている。
「味噌汁にでもしようかと思って」
セール品のあさりを買ってあったらしい。
「いただきます」
手を合わせる。ソファにローテーブルで食事をとることが今までになく、先にスープとサラダをいただきながら幸をちらちら見てパスタの食べ方を確認する。
コンソメスープは飲みやすい温度で、マグカップに入っているため持ちやすい。散らしたごまの香りも相まって、食欲がそそられる。サラダはちぎって切ってのものだが、全体的に野菜が少なめな食事には嬉しい。
「座るか」
幸が吹の様子を見て、先にラグマットへ。気遣いが嬉しいのと情けないのと、ただ食べやすくなったのはたしかだ。
あさりの出汁がよく効いていて、潮の香りがほんのり鼻をくすぐってくる。鷹の爪が辛みの刺激を与えてくれる。持ち手が木製のフォークは手にしんなりなじむ。先は太めになっていて、スープの多いつるりとした麺もしっかりとつかまえてくれて、食べやすい。
「おいしいです」
彼の作った料理を食べられることが幸せだ。幸も嬉しそうにうなずいた。ありがとうの意だろう。
本来は吹がごはんをふるまうべきでは、と思うが現状では仕方ない。いつか麗華の家に招くことができれば、練習してごはんをふるまいたい。ただ、これよりおいしい食事を作れる自信がない。やはり練習が必要だ。吹が作れるのは、ありもので作る一般的な家庭料理で、自分が食べられればいいもの。見た目にも味にもそこまでこだわってこなかった。これからは気にして作ろう。
ほとんど無言の時間が食事で終わる。なにか話しかけたほうがいいのか迷っていても、そのなにかが思い浮かばずただフォークを口に運ぶだけになってしまった
お皿が空になり、せめて洗い物だけはさせてほしいという吹が引かなかったため、一緒に洗い物をした。せっせと洗うのが幸、拭くのが吹。しまうのは場所を教えてもらって一緒に。次に来たら覚えていられるように、勉強の内容よりもしっかりと覚える。もう一度お邪魔することを前提にしていると思い立った吹は、自分で恥ずかしくなった。
二人でやったのもあり、片付けはすぐ終わった。これからどうしよう。
「デザートに、その、ケーキ、食べますか?」
自分の作ったケーキを食べないかと提案してみる。
「紅茶淹れるか」
そうしようという意味だ。台所でお湯を沸かし始める幸。紅茶は熱湯がいいのか、少しぬるめがいいのか、種類によるらしい。吹はあつあつが好き。ケーキは切る作業が必要ないように用意してきた。お皿とフォークを借りる。ローテーブルではなく、ソファに座ってそわそわ待っていた。
いい香りが漂ってくる。ティーポットとティーカップが出てくるのかと思いきや、
「あ」
出てきたのは今日購入したあのマグカップだった。
「これ」
「これから、二人で使えるように」
もしかして、今日の買い物はこの部屋に自分といるときのための?
「クッションも、ですか?」
「ん」
吹の好みを聞いてきたのは、そういうことだったのだ。
「ありがとうございます……っ」
真正面から伝えられない。隣に座っていてよかった。
「あの、こちらを」
箱を差し出す。箱はケーキ屋でもらったものを再利用しようとしたら麗華に止められて、わざわざ購入した箱だ。
「開けてもいいか」
こくこくとうなずく。
幸が金色のリボンをとって丁寧に開けると、よい香りがしてきた。
「うまそうだ」
二種類作ってきた。ひとつは、アップルパイ。申し訳ないことにパイ生地は冷凍のパイシートだが、りんごのコンポートは手作りだ。レモンをきかせて甘すぎないようにしてある。シナモンは好みの量をかけられるように、瓶に入れて持ってきた。
もう片方は、オレンジのタルト。アーモンドプードルを使ってさくさくに仕上げたタルト生地。上にのせるオレンジが落ちないよう、のりのつもりで薄く乗せたカスタードクリームにはメープルシロップを使った。オレンジがきらきら光って見えるよう、うっすらとゼリーを塗ってある。
「食べるのがもったいないな」
その言葉だけで十分、と思いたいところではあるが、これは幸の誕生日プレゼントでもある。聞きたい言葉はほかにある。安心したい。
「いただきます」
「遅くなりましたが、おめでとうございました」
おおかみとうさぎのカップから湯気が立ち上る。マグカップなら、取っ手に指をかけても気にならない。学園で所作を習っていてよかったと、このとき初めて思った。
「うまい」
口へ運ばれるのをどきどきと見ていた。やっと聞けたその言葉に、安心する。アップルパイは多く持ってきた。明日にでもトースターで焼けば、また違った味を楽しめる。朝ごはんに食べるかはわからないが、残りも食べてもらえたら嬉しい。
「あー、おほん」
やはり口数が少ないまま進む時間のなか、なんともわざとらしい咳が聞こえた。ただ一緒にいるだけでこんなに満たされる。会話まであったらどうしよう。まともに答えられる自信がない。
「きれいだ」
いきなり飛び出た言葉に心臓が飛び跳ねた。かわりに体がかちんと固まる。ぎ、ぎ、ぎ、と音を立てそうな動きで首を幸へ向けると、幸がこちらを見ていた。
「今日の吹」
自分で稼いで悩んで買って、ちょっと手伝ってもらったががんばって装った今日の服装。見ていてくれたのが嬉しい。気づいてくれたのが嬉しい。それを言葉にしてもらえるのも。
「いつもパンツルックが多かった。スカートは制服かドレスだった。いつもかわいかったが、今日は、きれいだ。ブラウスも、スカートも、靴も、カバンも、髪型も」
いつもより滑らかに舌が動いている。
「俺のためと思っていいか」
はい、というのが恥ずかしすぎて、目をそらして小さく首を縦に振る。
「ありがとう」
とん、と小さく手が頭に触れる。簡単に飾った髪型が崩れないように気を付けてくれているのがわかる。心地よい。
「幸さんもいつもかっこいいです」
幸はいつでもしゅっとした恰好だ。立っているだけで目を引くのだから、服装など関係ないかもしれないが、かっこいい。
「今日も」
「エプロン姿でもか」
「ぶっ」
見ていたのが気づかれていたらしい。つい噴き出してしまった。
「エプロンは、かわいかったです」
「かわいい……」
男性としては、かわいいとは言われたくないのかもしれない。でもかわいかったのだ。ほんの少し、むすっとした顔をしていることを本人は気づいているだろうか。それもかわいい。もっといろんな姿を、表情を、見たい。
「見たことのない姿、もっと見たいです」
「また会いたいと」
ぼん、と顔が熱くなる。
「悪い、意地悪だったな」
わざと言ったな。
「俺が会いたい」
こういう台詞をさらりと言ってのけるところが心臓に悪い。吹ひとりだけがどきどきしているようで、負けている気がする。
「さっききれいだと言ったが」
また続ける幸。きれいを目標に服を探していた。だからそう言われるのは嬉しい。顔を上げるとまた横顔で目が合う。右手がそっと頬に触れた。
「服はもちろんだが、吹のことだからな」
そっぽを向いてどうにか顔を冷やしたいのに、幸の手がそれを許さない。
「うう、う、嬉しいです……」
そう答えるのがやっとだ。なんだか楽しそうな視線を感じるのは、気のせいか。顔の向きを変えられないため、視線だけテーブルへ移動している吹に、楽しそうな目をしてやさしく笑う幸の顔は見えていなかった。
今日購入したクッションをソファにふたつ並べる。ケーキを食べ終えて、紅茶のおかわりをもらう。さてここで今度は吹からの攻撃だ。
「幸さん」
ん? と顔がこちらへ向く。
「これ、お、遅くなりましたが」
そっと箱を手のひらに乗せて差し出す。
「お誕生日、おめでとうございました」
気に入ってもらえるかはわからない。でも、受け取ってもらえるだけでいいとも思った。長く長く長ぁく悩んで、選んだもの。そっと手が包まれる。違う、受け取ってもらいたいのは手の平に乗せた箱だ。
「開けていいか」
こくこくとうなずく。やっと手からぬくもりが離れる。ぱか、と音がした。しばらく静寂が訪れた。吹はぎゅっと目をつむって待つ。
「似合うか」
やっと聞こえたのは、幸の問う声。音もなくつけるのも、秘書としての仕事のひとつなのだろうか。
幸の腕には、腕時計がつけられていた。これなら、離れていてもいつでも一緒にいられると思った。鈍く光る金色は派手過ぎずに落ち着いている。見やすい時計版は英数字だがおしゃれなフォント。バンドはしっくりくるよう革製を選んだ。どんな色かは写真で見たが、色の名前はキャメルと書いてあった。暗すぎないように、ほんの少し明るい色にしてみた。
いつもはスーツのなかに懐中時計をしこんでいる幸。それよりも、大学では腕時計のほうが使いやすいと考えた。買い物をしているとき、もうつけていたがそれはバンドが金属製だ。こっちのほうが使いやすいのかもしれないと、それを見て心配だった。
目を開くと、片腕にプレゼントのついた手があった。
「それをわたしに聞かれても……」
気に入ってもらえるかどうかが大切なのだ。
「使うのがもったいないな。飾るか」
独り言なのか、そんなことを言い出す幸。使ってください! と主張した。そうでないと、意味がない。一緒にいたいから、腕時計にしたのに。
「そうだな。これをしていればいつも一緒にいられる」
同じことを考えてくれて、嬉しさがこみ上げる。今日はほんとうに感情がたくさん移り変わる日だ。
さて、帰る時間となった。電車で来たため、あまり遅くなると家族がいる運転手に申し訳ない。いつでもいいと言われていたが、実は待ち合わせ時間を決めてあった。
「お邪魔しました」
台所の前を通って、玄関へ。頭を下げてまた背を向ける。
ふいに、背中があたたかくなった。なにか、背中に。
「帰したくない」
耳元で囁かれたその声は、幸のもの。
幸が後ろからやさしく、吹を包んでいた。なんと答えればいいのだろう。想像もしていなかった出来事に、吹はどきどきが隠せない。まわされた腕に、自分の鼓動が伝わってしまいそう。今までこんなことがあっただろうか。ああ、そういえばお屋敷から出る前にはこんなかんじだったかもしれない。あれはカウントできない。勢いだったから。
手をつなぐだけで精一杯だったのに、後ろから抱きしめられたら、もうだめだ。頭がついていかない。前にまわされている両手が、吹の心臓の大きな動きを感じ取っているだろう。でも吹も、離れてほしくないという自分がいた。
どのくらいこうしていただろう。もっと長く、この大きな体に包まれていたかった。だが時間は有限。特に電車の時間は待ってくれない。そろそろ、と伝えようと斜め後ろにゆっくりと顔をまわした。
ふわり
綿あめが口にあたったような、やわらかくて、やさしくて、甘い感触。
これは。
一秒にも満たないその時間はふっと離れた。
「そうだな、行こう」
え、え、
吹の心は落ち着かないまま、駅へと向かう幸の手にひっぱられていく。
「またな」
ぽん、と乗せられた手はいつものそれだ。
「はい、また」
また、というのが嬉しいが、実はそんな状況ではない。だが電車が到着、乗って、ぷしゅーと音を立てて、外に向かって小さく手を振って、と自然にお別れは終わったのだった。
座れなかった席。
心臓がばくばくしている。
どうしよう、あれって。
扉が閉まったときの音は、吹自身から発せられていたのかもしれない。
あの人はなぜ、あんなにも冷静でいられたのか。電車でなければへなへなと座り込んでいるところだ。
迎えは麗華も車に乗っていた。
「おかえりなさい、どうでした? あら」
楽しかったのだが、それよりもどきどきとかどきどきとかどきどきとかが大きすぎて、早く穴に入りたい。
「楽しかったデス」
「それはどうしましたの?」
「それ?」
麗華の視線の先は、胸元。見ると、銀色の細いチェーンがかかっている。
「素敵なネックレスですわね」
細い銀色のチェーン。先には同じ素材で作られた雪の結晶が三つ、縦に並んでいる。ひとつだけにはガラスかなにかがついていて、きらりと光る。
「スワロフスキーですわね」
さすが幸さん、お目が高いですわ、と幸を褒める麗華だが、吹はそれをもらった覚えがない。もしやあのとき? 吹の誕生日は四月、もう過ぎている。電話でお祝いの言葉ももらった。
「あら、吹、顔が赤いですわ」
「お嬢様、そういうのは指摘しないでさしあげてください」
「ごめんなさいね」
くすりと笑う麗華はきっと反省していないだろう。
幸からの誕生日プレゼントだ。そう気づいたのは、首元の後ろがかさりとして触ってみたら、リボンがかかっていたからだ。銀色のリボン。先に教えてくれればよかったのに。一瞬はそう思ったが、ぶんぶんとかぶりを振る。もしも今のようにつけてもらうとなると、首まで真っ赤になりそうだ。今のあの状態を思い出すだけで体が熱くなるのだから。
いいことがあったみたいね。麗華はにこにこと吹を見ていた。あとで事細かくなにがあったかを聞きたいところだが、それはだめだ、二人の時間だからと諦めることにする。無粋なことはしないのがお嬢様だ。
帰宅して吹は、メッセージで連絡をとった。無事に帰ったこと、誕生日プレゼントのお礼を伝えるためだ。本来なら電話ですべきだが、電話をかけてもまともに話せる気がしない。
あの綿あめの感触を思い出して、自分の唇に触れる。そしてぼさっと布団に頭を入れた。もう十分にお話したし、今日はメッセージだけでいいよね? 自分にそう言い訳して、吹は連絡をしたのだった。
初めてのおうちデートはどうだったかを知りたい恵一たちが、学校近くの行きつけの喫茶店に誘ってきた。絶対話さないから誘われても行かないと決めていたが、今回は行くことにする。相談したかった。
にたにたした顔でどうでした~? と聞いてくる恵一だが、なぜか沈んでいる幸を見て口を塞ぐ。幸が行くと聞いた孝支も来るということで、遅い時間に集まっていた。外はもう暗い。
「一線って、どこまで許される」
ぴしゃり、と四人の頭に稲妻が落ちた。これはなにかやらかした。
行く前に、超えてはいけないと言ったのは恵一だった。大学生と高校生、しかもお嬢様学校の生徒となれば、その溝は大きいと言っていた。
「もしかして、なんか……?」
「その日は電話じゃなくメッセージだけだった」
その日とは会った日のことだろう。その日、ということは、あとは電話ができていると想像したいが、もしかしたらなにか、していても短く終わってしまっているのかもしれない。
「で、なにがあった」
孝支が尋ねる。
「我慢できなかった」
「もしかして」
手を出したとは思えない。幸なのだ。
「キス、とか?」
ぴしゃり
今度は幸に稲妻が落ちた。
無言は肯定だ。ああー、と全員納得。
「それくらいいいっしょ」
「僕もそう思います」
「はい」
後輩三人の返事にほっとした幸だが、孝支だけは違った。
「だが、吹ちゃんの同意は得たのか?」
「うぐ」
あのときは一緒にいたいばかりで背を向ける吹を抱きしめた。ふいにこちらを向いてきた朱に染まった頬と潤んだ瞳を見たら、勝手に体が動いていた。
というわけで、同意は得ていない。
孝支は頭を抱える。多分吹は、恥ずかしいから連絡をうまくできていないのだ。
「面倒ですね」
「ほんとに」
こそこそと話す後輩たちの言葉も入ってこない。
「おまえ、しっかり聞け!」
「なにを」
「嫌だったかどうかに決まってんだろ」
嫌だったらどうしよう、と顔に書いてある幸だが、心配無用だ。それを教えてあげる優しい人は、ここにはいなかった。
「悩むなら話して解決だ。おまえたちならそれができるだろ」
前と同じことはするなと釘を刺した孝支。心強い友人を持った。
「おう」
心の中で、恵一たちは幸さんやるぅ! と絶賛していた。
「そのうえは我慢しろ。理性なくすんじゃねぇぞ」
最後まで、孝支は厳しい。
「当たり前だ」
だが幸も自分を律することができる。そこはたぶん、たぶんだが心配ない、だろう。多分。問題があるとしたら、吹が電話に長くつきあってくれるか、だった。
「報告待ってますから!」
楽しそうに言う恵一。たしかに相談したからには事後報告は必須だ。わかった、と幸は了承したのだった。




