2.
七色に浮き上がる煙の景色。今日もお疲れ様、と言ってくれているようだ。
が、いくら有名な観光地だからとはいえ、人の多さは想像以上だった。ゆっくりと楽しむなんてことはできず、流れてくる人の波をかきわけながら、視界の端にたまに入ってくる景色を見て、のまれるままに前に進んでいるだけ。ここ数日よりも、浴衣の女の子が多い。校外学習かなにかあったのだろう。耳に入る音もやけにかん高い。
「おーい、やっと手に入れたー!」
大きく手を振りながら走ってくるのは、一緒にここへ来ている仲間。観光客が多いなか、それらをするりとかいくぐり、大きな動作をできるとはたいしたものだ。
「じゃんけんで負けたせいであんなに並ぶとは思わなかったー」
お待たせっす、と渡された袋には透明のパックが入っていて、なかには八本の串。受け取ったそれからはほんわかと湯気が立ち上っていた。まるでここの湯煙のようだが、ライトアップはされていない。素朴な色。
「お、うまそうじゃん」
「ありがとう」
「ご苦労さまです」
「なんか軽い! もっとありがたがれよ」
あれを食べよう、と買い食いを決めたその店。仲間全員で並ぶと邪魔になる。誰かひとりだけにしよう、じゃんけんで決めよう、と言い出した当の本人が負けて並ぶ羽目になった。文句は言えない。その分おいしくなったと思え、と待っていた仲間は思っていた。
買ってきたのは焼き鳥だ。観光ガイドにも必ず載る、有名な店。ガイドに載せなくてもこの甘じょっぱい香りが誘蛾灯になって、観光客は吸い寄せられることだろう。さっきまでは嗅覚だけで感じ取っていたが、視覚も追加されるとさらにおいしそうに見える。
なるべく道の端へ寄って串をとり、全員でかぶりつく。こんな姿を今の研修先の人間に見せることはできない。が、今は時間外。好きに動いていい、自由な時間。はたから見ても、観光を楽しむ若者だ。そして花より団子というやつか。パックを開かなくても空腹にさせる匂いは外まで届いている。いい匂いがする、と目を向けたその先にこの店があったのだ。
噛むときゅっと押し返してくる弾力のある肉は、もも肉。甘辛いたれが温かさとともにじんわりと口の中に広がる。甘すぎず辛すぎないたれは、有名になってもおかしくない味を出していて納得だ。
「食べて正解だったな」
「行列お疲れさん」
「もっと労ってくださいよー」
また同じような会話を繰り返していたところ、
「ちょっと待って、これ、どうやっていただくの?」
なにかに戸惑う浴衣の女の子がいた。容姿はもちろん、なんというかオーラが強い。美しい景色すら霞ませてしまう女の子だ。いや、女性と表現するほうが合っている。
「食べ歩きですよ!」
と言いながら彼女を引っ張る数人の女の子がいる。彼女たちもこの焼き鳥屋へ向かうようだ。
「食べ歩きを知らないなんて、どこぞのお嬢さんですかね?」
「ん……?」
仲間の一人が首を捻る。オーラに圧倒されたか固まるひとりもいる。
「どうした」
「あ、いや」
どう見てもなにかありそうだったが、追及はしないでおく。
「急いでいるとはいえ、和装に慣れてそうな歩き方だね~」
「そういやあの浴衣さ、オレらのホテルに置いてなかった?」
「そういえばあったかも」
「よく覚えてるな」
「おまえが言うんだからそうなんだろうな」
通り過ぎる女の子たちの後ろのほうには、もう一人歩いていた。その子はあの強いオーラを発する女性たちから、すう、とだんだん距離を開いていくのに気付く。同じように浴衣を着ている。あの女の子たちと友達ではないのだろうか。
ついにその子はくるりと踵を返すと、別の方向へ速足で進んでいく。
「もう一本は塩だよな」
「オレがネギま食べるから!」
「皮ちょうだい」
「おまえは?」
つい見ていたら会話に入りそびれた。
「残りもんでいい」
「よ、男前!」
はい、と渡された串を受け取ったらそれはつくねだった。こちらもいい塩梅。さっぱりしているぶん、鶏の味がしっかり味わえる。くさみもない。たまにこりっとした触感があるのは、軟骨を入れているのだろうか。紫蘇があってもいいな、なんて思っていた。
食べながらもわいわいと男のおしゃべりは続く。会話に入らなくても輪に入れていて、この仲間と一緒にいると心地良い。ふと顔を上げると、鮮やかすぎるくらいの色が入ってくる。あの人の多さは、さっきの女の子たちだったのかもしれない。少し波が薄くなったように感じる。高い場所なら、人以外がきちんと見えた。観光スポットとして人気な場所で、良い仲間と有名店の食べものを食べる。これを幸せと言わずなんというのだろう。
そんなことを思っていると、そうではなくなるのはなぜなのか。少し遠巻きに、女性が集まり始めている。スマートフォンをいじりながら、買ったものを食べながら、話をしながら、ちらちらとこちらを窺い見ているのがわかる。
またか。
どうしても視線を集めてしまう。特に異性の。普段は影のように気配を消して行動しているからか、仕事から離れると抑えていた分の存在感を発してしまうらしい。仲間たちが見目麗しいのもあり、もう少しすれば話しかけてくる人も出るだろう。そんなとき、相手を傷つけない断りかたは心得ているが、なにもないに越したことはない。そろそろ移動しようかと口を開きかけると、女の子二人組が小走りでこちらへ寄ってくるのがわかった。ああまた、俺のせいで。
そのとき。
「早く食べたい」
遠巻きに集まっていた人だかりと自分たちの間にできていた細く小さな空間を、そんな言葉と一緒に浴衣の女の子が横切った。こっちへ来ようと一歩前に出ていた二人組の足が、すっともとの位置に戻る。あの子の通り道が自分たちと向こう側の人間に線引きしてくれたかのように、ちらちら届いてきた不快な視線が途切れて消えた。
珍しい。
去っていった背中はみるみる小さくなっていくが、目の前を横切ったときに大事に抱えていた袋には、たしかに団子と書いてあった。自分の持っているつくねの串が、だんごの串に思えた。
「少し移動するぞ」
「またいつものですか」
「めんどくさー」
そう言いながらも、足はすでに動き始めている。ついてくる人もいない。向かう方向はあの子と反対だ。
「次なに食う?」
「今度は甘いものにしない?」
「さっきのお嬢さんたち、プリンとか言ってたな」
「それいい!」
「なぁ」
食べ物の話を遮って、声をかけた。珍しい、と言いたそうな目が一瞬だけ四人から届いたが、すぐに聞く姿勢になる。やっぱりこの仲間はいい。
「たしかあっち、河原があるんだよな」
「そうだが。なに、気になるか?」
「ああ」
「行ってみますか?」
「いや……行ってくる」
「え?」
「プリン買っておいてくれ」
もう足は動き始めていた。
「え?」
おーい、という声を背負いながら、どんどん速足になっていた。人ごみのなかなのに、遮るものもなく進んでいく。
河原の入り口まで来た。川上から冷たい風が吹いてくる。
と、風と一緒に音が聞こえてきた。
これは……歌?
ちらりちらりと風に乗ってくる風花が音符になって上下している。同じように、どこかいびつな旋律だ。
砂利の敷かれた川のほとりを、歌の方向へ、川上へと歩いていく。だんだんと音も近くなり、掠れた旋律もさっきよりしっかり聴こえるようになってきた。川の水音が伴奏するように、歌は続く。
……見つけた。
ベンチに座った浴衣の女の子。膝の上では、食べ終えているのか軽くなった団子の袋が揺れている。仄暗いなかで、その子の姿はぼんやりと光っているようによく見えた。
今まで、“私を見て”と主張の強い人間ばかりに会ってきた。だがその子は違う。見えてしまう、といえばいいか。掠れている声。ずれた音程。なのに、どこかあたたかさと切なさの混ざったこの声のせいだろうか。
なぜここまで来てしまったのかわからない。まるでストーカーではないか。とりあえず、気づかれたときに驚かせないよう、電灯の下に気配を感じさせないように立ってみる。自分はなにがしたいのか、自分でわからない。
声が止まった。そのあとも余韻に浸っているのか、ずっと景色を見ている。星が好きなのか、空を見上げて。同じく上を向くと、歌の後奏のように星がきらめいている。ライトアップがされていないここは、街灯があってもきれいに星が見えていた。風が吹越をまた連れてきて、女の子のまわりの空気を冷やした。少し腕をさすっている。
その子がふとこちらを振り返った。目が大きく開かれる。驚きで大きくなった瞳にも、きらめく光があった。
「あ、あ……」
驚きを隠せないその子の目は、暗いこの場では見えにくいが、今は不安で揺れていることだろう。言葉が出ないことからも、やはり怖がられてしまったとわかる。それはそうか。長身の怪しい男が気づかない間に近くに立っていたら。
「き、聞いてましたか……?」
そこか。
気になるのは歌のことらしい。なんというか、警戒心が不足した女の子だ。一人でこんな暗い中、人気のないところにいるのも然り。
あまりに真剣な様子で尋ねてくる。こちらもきちんと答えねばと思ったが、正直に答えれば嫌な思いをさせるだろう。聞いていたかを尋ねてくるということは、それは聞いていてほしくないという願いだ。
「いえ、聞いてません」
否定の返事をする。なのに彼女は、両手で顔を覆った。恥ずかしがっているときの動作だ。今までは声をかけてきた異性が興奮や照れでこうしていたが、それらとこの子の動きは大きく意味が違う。
「聞いてませんので」
信じてもらえるよう、もう一度念を押す。とりあえず、自分自身の存在を怖がられているのではないことに安心していた。だからか、自分の答えがこの子を逆に苦しくしていることに気づかなかった。
「そうですか」
彼女は、あの歌を聞かれていたことをわかっている。わかっていて、そう答えてくれた。どこか申し訳なくて、あとはここから動いて少しでも近づけば怯えられてしまいそうで、この場を動くのは憚かられた。
腕時計を見た彼女は、周囲を見回している。ごみを落としていないか確認しているのだろう。しっかりしている。その間に自分の羽織を脱いだ。彼女が立ち上がろうとしたとき、肩にそっとかける。風に吹かれて揺れた髪が、白いうなじを撫でていく。
その子が少し後ろを向いた。目が合うことはない。もう顔の方向は変えている。
「冷えるぞ」
これは宿泊先の備品だ。だが仲間の話によると、この子も同じ宿。自分の記憶をたどると、この紺色の浴衣が出てきた。この子も気づいて、宿に受け渡すだろう。
「ここは暗いし足元も悪い。下駄なんだ。気を付けて帰れ」
河原の砂利は大きめで、下駄だと躓きやすい。暗くてよく見えないなか、歩くには危ない道だ。
「あ、ありがとうございます」
戸惑いながら感謝の言葉が届く。さっきの「そうですか」と違って、気持ち柔らかい声だ。とはいえ緊張も混ざっている。それを聞いて、先に歩き始める。彼女の無事を確認してから帰ったほうがいいとも考えた。でもそれこそストーカーだ。恐怖を与えたくはなかった。
「お、帰ってきた」
「ほれ、プリン」
「で、首尾は?」
「ああ」
「よかったじゃん」
何をしていたかを想像していて、たぶんそれは的中しているのに、細かいことは聞いてこない。それでも喜んでくれる。
「また会えるといいな」
どうだかな。
プリンの蓋をあける。瓶は、もう冷たいとは言えない温度になっていた。今話題のとろけるタイプで、今時の女の子が好きそうだ。それを男五人が食べているのはどこか面白い、なんて柄にもなく思ってしまった。食べ終えてから瓶の入れ物を四人分押し付けられたが、重くはなかった。
風花はここに来たら溶けてしまったのか、もう見えない。見たのは自分とあの子だけかもしれない。湯煙が立つくらいだ、ここは向こうより温かい。でもまた見られる。風が吹けば、ここまで飛んできてくれるかもしれない。