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17.

「うまくいったな」

「ああ」

 兄とアシスタントは、扉に鍵をかける。

「麗華様が出ていったのは残念だ」

 アシスタントはそうこぼしたが、彼女を相手とするとリスクが大きいと思っていた兄はこれでちょうどいいと思っていた。

「お、ほんとに雪降ってるぞ」

 窓の向こうで雪が舞っている。どんよりとした雲が星を隠してしまった。インスピレーションのためか、それともムードを作るためか、もっと雪を見ようとアシスタントが窓を開く。

 さぁ、と冷たい風が部屋に流れてきた。重いカーテンがぱさりと舞いあがる。

「これに満月でもあればいいのに」

 ムード満点だ、とアシスタントが言った。

「それだ!」

 兄は小さく叫ぶ。

「彼女のドレスを見ろ! まるで星空だ。雪のなかにある星空。彼女自身は白い月だ」

 ほら、と指さすのは(ふい)の太ももだ。眠った吹を指さす。さっきの風で、横になった吹の内側にあるスカート部分がはだけている。白くすらりとしていて、女性ならではのラインを持つ吹の足は魅力的であり、内側の透けた銀色の部分がより蠱惑的に見せる。


 幼いころから家に引き込もりがちだった吹は、肌が一般的より白く見える。運動はあまりしてこなかった。食生活は低カロリーで病院食というべきか精進料理というべきか、脂肪がつくものではなかった。白く、太すぎない細さはそのためだった。


「となると、部屋を暗くしてシーツに移動だ」

 アシスタントは眠る吹を、ベッドに敷かれた真っ白で艶のあるシーツへと移動させる。せっかく美しくぴんと敷かれていたシーツにわざと皺を寄せる。

「やはり横向きがいいな」

「当然だろ」

 横向きに、さっき倒れたように自然な角度で寝かせる。と、太ももが露わになった。

「ぎりぎり見えないのがいいか?」

 おまえの好みにするならそれがいいんだろうな、と思いながらも兄が問う。

「もう少しこれ上げる。が、先に写真も撮っておこう」

 ぱしゃ、ぱしゃ、といくつもフラッシュの音が響く。もちろん吹には聞こえていない。たくさんの角度で撮影し、確認しながら一番魅力的な角度を相談するのだ。


 彼らはこうして、着飾った女性をモデルとして絵を描いていた。アシスタントはただ写真を撮りたいだけの友人だった。だが“魅力”がわかるという点では、大切な存在だ。カラフルな毛をしていたのも、眠そうだったのも、そういうことだ。

「いいねぇ」

 厭らしい声が小さく響く。声だけでにやにやと笑う口が想像できる。

「この自然なかんじ、最高」

 兄はただ、はぁ、と溜息をついただけだ。彼にとってはデザインとモデルが大事であり、彼が良い点を教えてくれればいいのだ。アシスタントを名乗る彼のようなやましい気持ちは一切ない。


 アシスタントの男は太ももを隠していた内側のレースに触れていた。ぎりぎりラインまで持ち上げるか、寄せるか、様々なことをを考える。ついでにつるりとした高校生の生足を、視覚でも触覚でも楽しむ。なめるように全身を眺め、実際に舌なめずりをしていた。さぁ、どうしようか。このスカートの角度を変えようと手を伸ばし、指先が触れた瞬間。


 パン!


 大きな音に、びくりと体の時計が止まった。

 なにかと思えば、窓が大きく開いた音だ。


「触るな!」


 怒声が響いた。ベランダに、使用人の服を着た男が立っていた。






「ゆ…き……さ」




 どこかで声がした。窓の外を見れば、雪が降っている。暗い影になってしまった空が、どこか落ち着かない。輝かしい成功を遂げている一家のイベントにはふさわしくない天候だ。

「雪、か」

「呼ばれたと思ったか?」

 ここに名前を教えた相手とすれば同じ使用人だけ。

「いや」

 女性の、声だった、気がする。聞いたことのある、声。

 なぜか背筋にぴりっと走るものがあった。


「麗華様たちはどこですか?」

 写真鑑賞を楽しむいづみと菜穂の二人に尋ねると、兄に頼まれてついていったという。だが。

「わたくしのために吹がなにかイチさんに聞いたと言うの」

「お兄さんの絵にも役立つって」

「あー、それはまだ内緒」

 すぐそこで恵一と麗華、澄子が話している。なぜ二人だけここに。一緒に行ったのではなかったか。

「吹はどちらでしょう」

 焦りをひとつも見せず、幸は尋ねた。

「お兄さまとお話しておりますわ」

「男と二人きり?」

 少し声色が強くなる。本人は気づいていない。が、麗華はわかっている。指摘はしない。

「いえ、二人と吹さんです」

 どこにいるかはすぐに想像できた。ギャラリーで使っている部屋が多く、客を通せる場所は、今夜はそう多くない。すぐに動く。


「なんですの?」 麗華が眉をひそめた。

「ひとりにしたくないんだよ~」

 恵一が軽く言う。心配ないって、と付け加えられると、なぜか本当に心配なくなるのがすごい。

「念のため見に行っただけでしょう」 孝支も心配ないと伝える。

 おまえも行け、と肩を叩かれたのは、仁志。はい、と返事をすることもなく、仕方ないなという顔を作って幸が向かった方向へと歩いた。彼女たちから陰になったところで、走る。途中、今日だけ雇われた別の使用人にスペアの鍵をもらう。


 どこへ行ったのか、幸の姿が見えない。仁志はまず目的の階へと急ぐ。その周りには、主催者が客と一緒にいるというのに誰もいない。立ち入り禁止の場所と指定してあるのだろうか。いや、ここにその覚えはない。それとも人払いでもしたか。そう思っていたら、上がった階の廊下に何人かいた。だがだべっていて仕事ができていない。そういう人を選んだのだと思うと、悪い想像が膨らんでいく。

「すみません、あちらの部屋へ用事があるのですが」

 笑顔で声をかけると、それはだめだと返される。金を握らせられているのか。


 とん、


 三人ほどでおしゃべりしていた人たちは、すぐに無言になった。簡単すぎだ。これでは本物の仕事としてはやっていけない。もともとバイトとして雇われただけだろうが。


 ここだろうという部屋。鍵を差し込もうと思ったが、ノックもしないのは憚られる。もしもなにもなかった場合を考え手の甲を扉に近づけたそのとき、ぱん、と大きな音が中から響いた。


「触るな!」


 扉の向こうから幸の怒声。今までこんな声を聞いたことがあっただろうか。あんなに感情がこもった声を。この分厚く大きな扉をすり抜けて聞こえてくる。そんなことより、これで確信した。ノックなどいらない。すぐに入る。

「お邪魔します」

 男二人は相当驚いている。いきなり窓から入ってきた男と、音もなくいつの間にか入っている男。鍵をかけたのに。


「な、なんだ?!」


 なんだはこちらの台詞だ。吹がベッドで横になっている。兄は絵を描いているし、もう一人の男はさっきの話で友人と聞いていたが、そいつは片手にカメラを持ったままもう一方の手で吹の足に手を出して……すでに触れている。驚きで固まってはいるが、なにをしようとしていたかなんて簡単に想像できる。

 先に動いたのは幸だった。吹のもとにいた男を掴んで放り投げた。男の大きな体が床に転がる。

「いったいなんだ!」

 兄でないほうの男が叫ぶ。

「それはこっちの台詞だ」

 幸は自分のトレンチコートを吹にそっとかけた。

「なにをしていた」

「ね、眠っていたこの人を寝かせただけで」

 兄はしどろもどろだ。視線も泳いでいて、悪いことをしていましたと表情が語っている。

「そうだ、緊張で疲れが出たんだ!」

 こっちの男からは言い訳が出てくる。この状況でよくもそんな口がまわるものだ。その間に仁志が机の上の飲み物を確認。

「これは睡眠薬が入っていますね」

 にっこり笑っているが笑っていないのが仁志の脅し方だ。二人の体がすくむ。

「ではそのカメラは? 絵は!」

「う、美しい女性をモデルにしたいのは、芸術家として当然で」

「おれはそのアシスタントだ」

 兄は壁際に引っ込み、怒りに燃える幸から少しずつ離れていく。兄が暴れだすことはなさそうだ。だが、アシスタントと自称する男はそうではない。

「こいつに指導していたんだよ! どういう図がきれいだかさ!」

 少し彼女を借りただけだ、と続ける。転がったまま起き上がらないのは腰が抜けているのか。

「さすがに麗華様にモデルをお願いするのは気が引けて」

「吹ならいいというのか!」

「麗華様の友達なんだろ、それにぴったりのいいドレスだ」

 ぴったり、とは、こういうモデルに、という意味で下心丸見えだ。

「麗華様の身代わりになれて、芸術のモデルになれて、彼女も光栄に思」


 ごっ


 どこから出たのか苦しい声が出る。男は幸に胸倉を掴まれて持ち上げられている。あのがたいのいい男を、片手で持ち上げるなんて。

 これはまずい。すぐに判断した。

 判断は間違っていなかった。


「おまえ……!」

 大きく片手を振りかぶる幸。その拳が男にぶつかる寸前に間に入った。


 バン


 手に当たる音は鈍く響いた。

「幸さん、やりすぎはいけません」

「やりすぎとは思わない」

 拳を片手で止めている仁志は、その手に力をこめる。人を傷つける行為は、たとえ誰かのためであれ、やってはいけない。一線を越えてしまう。特に今の幸は怒りからの暴力だ。一日のみの使用人とはいえ、学校にも本人にも傷がつく。吹の心にも。


 にっこり笑ったまま、二人の睨み合いは続く。仁志の後ろで、男がずるずると腰を落とした。幸も腕を下す。冷静になってきたか。

「そのカメラ、いただきます」

 貸してくれ、ではない。もらう。中を拝見すると、たくさんの写真が出てきた。男にとって魅力的な恰好にされた吹がたくさん映っている。

「おまえ」

 尻もちをついた男を一瞥する。

「最悪」

 温和な仁志が、汚いものを見る顔で男を見下した。もしかしたら、幸より怖かったかもしれない。


「お兄さん」

 次の声は兄にかかった。

「詳しく教えていただけますか」

 うんうん、と兄は何度も首を縦にふった。こちらには反抗する気はないそうだ。

「任せていいか」

「もちろんです」

 吹をトレンチコートで包み、幸は部屋を出ていく。今度はきちんとドアからだ。この人はひとつ上の階からベランダに降りて、窓を蹴り破ったのだ。ドアを開けてもらえないと踏んだのだろう。もし声をかけたところで、適当な理由をつけられて入れてもらえない。この状況だったのだから。自分たちは使用人としてきた。とはいえ上から来るとは、誰も考えていないだろう。トレンチコートは暗い闇にまぎれるためだと考えられるが、もしかしたら最悪の状況も想定していたのか。

 出ていく彼を見送って、仁志は事情聴取を始めた。

「では、聞かせていただきましょうか」

 ひ、と声にならない声が、どこかで聞こえたようだった。


 兄がスランプに入っていた時。猫好きの友人が酒の席で猫の絵を強く勧めたという。その友人こそ、この自称アシスタントだ。一般的なものでは目に留まらない。この男は、兄がイベントをすると老若男女が来ることを当然知っていた。全員を猫と思って書いてみろよ、というのが男の最初の言葉であり、兄のインスピレーションになった。緊張したときに人をじゃがいもと置き換えるのと同じように。その後、見に来た人を猫に見立てて書いた作品が話題になった。それを報告したところ、男はつけこんだ。おれのおかげだ、金はいらん。もっと手伝わせろ、と。


 イベントでは、客は主催者のもとへ必ず挨拶にくる。そこで男の目に留まった女性を、酔わせたり眠らせたりして、男がよい絵のかたちに動かし、兄は絵にしていた。兄は最初こそ拒んだが、彼がいるときの作品のほうが評判がよかったため、それ以降断れなくなったのだ。構図としては、男のほうが魅せる形にすることができたというわけだ。どことなく蠱惑的なのは猫ではなく、モデルになった人たちだったのだ。


 男はいつも触覚でも視覚でも女を楽しんではいたが、不幸中の幸いとして、その写真が外に出ることはなかった。独占的な性格だったようだ。兄に見せて作品を書いた後は、兄にさえ見せなかったという。押収されたパソコンからは、たくさんの写真があったという。


「兄のほうはこれからどうなるのでしょう」

 事情を知った巧が心配する。同情も入っている。

「知らね」

 どうでもいいとでも言わんばかりの返しをする恵一。細められた目は真っ暗闇。いつものような星はない。

「これは俺たちのかかわるところではない、誰にもしゃべるなよ」

 犯罪だ。あとの判断は任せるべきところへ任せることになる。


「あ、麗華様」

 振り返れば四人が寄ってきていた。駆け寄って、ではないのはさすがだ。

「吹は?」

「初めての社交界に緊張したようで、お二人がいなくなられてから眠ってしまったようです」

「まぁ」

「今、車に幸が連れて行っておりますので、ご心配なさらずに」

「もちろんうちの車よね?」

「はい」

 そう言うと思って、伝えてある。運転手は吹も幸の顔も覚えている。入れてくれる。

「吹さんが起きたら明日、説教会を開きましょう」

「一緒にいなかったわたしも、置き去りにしてしまって、説教の対象です」

 沈む澄子に、

「わたくしもです」

 きっぱりと言った。

「みんなでお説教アンド反省会だわ」

 というわけで、時間には少し早いけれどお暇しましょう、と解散に決まる。挨拶に行こうとする彼女たちに、

「現在、お父上とお兄様のほうは打ち合わせ中だそうです」

 そう伝える。打ち合わせではなく、家族で今後のことを相談しているのだ。今、客前に出ているのは、弟と母だけ。兄に挨拶できないのはそれなら仕方ないと、弟と母に一言伝えて、彼女たちはその場を去る。


「あなたたちも一緒に帰るわよ」

 最初からそういう契約だったため、母親は二つ返事で了承してくれた。

「私たちも他の使用人さまにご挨拶してから参ります」

 先にお車へ、と促すと四人は歩きだす。

「あとで詳しく聞かせなさい」

 すれ違いざまに、麗華から発せられた言葉。彼女だけは、異変に、吹のことに気づいている。いつも気づく麗華。

「さすがぁ」

「なにがさすがだ、大ごとだぞ」

 男たちはどうしたものかと悩んだのだった。




 雪のせいですっかりさらに寒くなった夜。目が覚めると、体が横になっている。大きななにかに包まれて、揺れている。空だけが動くのがわかる。

「あ……」

 小さな声に、幸はすぐに反応した。

「起きたか」

 どこか固い声。心配も含んでいる。ぼんやりした意識で、起きた、の意味を確認する。そうだ、眠っていたのだった。いや、眠らされていたというべきか。自らあれを飲んだのだから、どちらが正しいのかわからない。

 ゆっくり瞬きすることで、はい、と示す。

「いくら社交界の緊張とはいえ、主催者の前で寝るな」

 失礼だ、と言葉選びは厳しいが口調は優しい。

「呼ばれて行ってみれば、眠っていたのだから相手も困っただろう」

 そういうことになっているのだとわかった。そして、自分がなにもされていないのだと、報告されるほどのことをされていないとわかり、安心する。男が女を眠らせてなにかと言えば、悪い想像しか浮かばない。多分、どうにかなったのだ。

「すみま、せん」


 その後もずっと幸はなにかしゃべっていた。だが朦朧としている意識ではほとんど頭に入ってこない。ただ小さくうなずいて、包まれているものに顔をうずめる。

「これ、は」

 そうだ、これはなんだろう。ちょうど車に着いた。麗華の車だ。座らせてくれた。

「俺のコート」

 黒いコート。これに包んでくれたのか。その状態で人を運ぶのはいささか目線がきつかったと思う。申し訳ないことをさせてしまった。

「寒く、は、ありま、せん、か?」

「それはおまえのほうだろう」

 室内用のドレスだ。シースルーの素材は空気をよく通す。スリットの入ったスカートはストッキングをはいていても冷たい空気に触れる。急に寒くなったとはいえ、寒いのは誰もが同じだ。それに自分は洋館に入ったときにコートを預けてあるのに。

 まぁ、それも預かる時間がない状況だったのだろう。

「お風邪、ひいて、しまいます」

 返そうともぞもぞする吹の両肩に手がついた。体が勝手にびくりと震える。すぐに手が離れた。ぱっと、まるで銃をつきつけられたみたいに。

「悪い」

 なにが悪いものか。多分幸は、吹が先のことで無意識に怖がっていると思ったのだ。逆に幸の反応が、自分がなにかされたからと物語っているようでよっぽど怖い。でも、詳しく話されないということは、とりあえず話さないといけないほどのことはなかったのだ。怖くない。怖くない。それに、幸と一緒なのだ。ただ、さっきの両手はあまりに力が強かった。それで驚いたのだ。それだけだ。

「いえ、悪くない、です。びっくり、した、だけです」

「びっくり?」

「あの、いつも、あたたかくて、やさしい手の、幸さんの手が、さっきは、その、強くて、かたかったので」

 幸ははっとした。ついさっきまで、吹を悪く使おうとして、実際に触れようとして、触れていた男たちを糾弾していたところだったのだ。まだ怒りが収まっていなかったのか。

「悪い」

「なん、で、謝るんですか」

 目を逸らす幸に、それでも伝えたい。

「ありがとう、ございます、いつも、そばに、いてくれて」

 お言葉に甘えて、もう少しこれに包まれていることにする。まるで本人の腕にいたときのように、やさしさにくるまれている気分だ。安心したら、また眠気が襲ってきた。

「もう、すこし、」

 そのまま、吹はまた夢のなかへと沈んでいった。


 こてんと体をあずけた吹を、幸は背中に手を通して引き寄せる。誰が来ても、いつでも、守れるように。こいつは無防備すぎる。そして自分のせいで、自分がいるせいで、何回危ないことになっただろうか。俺のせいで。

 実際は吹自身が首をつっこんだり受け取ったりしているのだが、そんなことは知らない幸は、自分が引き寄せているとまた、苦しくなった。せめて今だけは、いや、今度こそ、守らなければ。


「ドアを開けます」

 運転手から声がかかる。ドアを開けるということは、麗華が来たのだ。とはいえなにがあってもおかしくない。幸は警戒を解かずにかまえた。

「まぁ、怖いお顔」

 麗華が眉間に皺を寄せる。そして演技がかった仕草と声。

「これでは目覚めた吹が怖がりますわよ」

「安心させてあげてください」

「明日はお説教会が待っているのです」

 女性たちからが幸への小声での説教会が始まってしまう。

「おっまたせー」

 軽いいつもの口調で恵一が入ってくる。もう普段モードだ。そして恵一のこういった言動は、なにかあったことを彼女たちに悟られない、一番役に立つものだ。

「いやぁ、疲れて寝ちゃうなんて」

「ギャラリーは作品も多かったから、見るのに時間もかかりましたし」

「指導が必要だが、それは麗華様たちがやってくれるそうだ」

「そうか」

 そんなこんなで、小声での会話が始まる。麗華が気づいていることを幸は知らなかったが、すぐに悟った。吹への視線が、心配の色を帯びている。

「麗華様、最初のお言葉、そのままお返ししますよ」

 幸が言うと、麗華が苦笑した。

「ふわぁ」

 大きなあくびをしたのは吹だ。

「まぁ吹! 乙女がそんなあくびをしないの!」

「ふわぁ!」

 驚く吹。今度は悲鳴に近い。コートに包まれている吹には空いた口を手で塞ぐこともできないのだが。

「あ、あの、寝てしまったと、聞きました。申し訳ありません、麗華様」

「ポイント二点」

「寝ちゃってごめんなさぁい、れいちゃん!」

「よろしい」

「帰ってしまって、よかったの? わたし、挨拶も、せずに。麗華様、が、連れて、きて、く、くれたのに」

「ポイント一点」

「はーい」

「れいちゃんのお誘いのお誘いなのに!」

「問題ありませんわ」

 明日は説教会と反省会と聞かされた吹は、がーん、と石が落ちた音がするほどショックな顔だ。だが今回は自分の失態。断れない。


「ところでさ、そのポイントってなに?」

 話題を変えるためか恵一が問う。男たち全員が気になっていた。

「あ、これはね、麗華様に吹さんが敬語と使ったときと、名前を様付けで呼んだときにつくポイントなの」

「百個たまったら、できる限り相手のいうこと聞くことになってて」

 有効期限なし、と聞いた男たちは、麗華にだけ良い条件だと吹にちょっとだけ同情した。ただ吹が間違わなければいいことではあるが、そうすぐには直らないだろう。同い年の二年にも、後輩の巧にも敬語を崩さない。名前はさん付け。

「お願い! 決行のときは教えてね」

 ぱん、と手を合わせてお願いポーズの楽しそうな恵一に、吹はなんで百点貯まることが決定事項なのかとぷんぷんした。その様子を見て、麗華も男たちも、安心したのは間違いない。


「じゃ、またねー」

 説教会兼反省会の内容を簡単に伝える約束をいとも簡単に取り付けて、五人は帰っていった。残念ながら、学園内まで彼らを連れていくわけにはいかず、高校も遠いので麗華以外の女性たちを下ろしたらそのままそれぞれの最寄り駅まで送る手はずなのだ。


「さて」


 麗華は四人の見送りを受けて笑っていた顔は無表情に。手元に扇があったら、ぱちんとしめていたところだ。

「なにがあったか詳しく話しなさい」

 詳しく話せと神宮司家のお嬢様から言われて、しかも今夜の事件の対象になっていた可能性がある彼女に言われ、断れるはずもない。話したい内容ではないが、仕方なく孝支が説明する。


「なんですって?」


 知らぬ間になにか起きていたことは気づいていたが、自分たちが席を外したせいで対象がひとりになってしまった。吹だ。自分たちのせいでもあると、罪悪感がこみあがる。

「吹は」

「問題ありません」

 孝支は、薬を飲むまでのことはされていないという意味で問題ないと伝えたつもりだ。

「どこが問題ないのですか!」

 麗華はその返事に憤りを隠さない。

「女性が知らぬ間に体を触られて、問題ないはずがあるものですか! 社交界の噂を舐めないで! 汚れた体とか悪い言われが永遠についてまわるのです!」

 そのとおりだ。社交界では遠回しなものいい、言葉の選び方、動作がものをいう。そして会話のほとんどが自分に必要な情報の探り合いであり、噂話を楽しむ時間だ。少しでも洩れれば、すぐにまわる。


 実際、すでに噂は流れ始めていた。ひとりで男二人の相手をしていた、と。眠って出てきた女性がいた、と。


「前者については、私の考えが甘く申し訳ありませんでした。」

 しっかりと謝る孝支。女性がどう考えるかを、男として軽く見ていたわけでない。だが、“問題ない”のラインが間違っていた。いいはずがない。本人が覚えていないといっても、許されない。

「ですが」

 言葉は続く。

「噂については、心配ないとは言いませんが、我々が食い止めます」

「とおっしゃるのは?」

「この件を知っているのは、あのご家族と」


 芸術家一家は、兄が父親にしっかり絞められた。それは行為についてもあるが、自分たちの家が汚れることを怒っていた。家族全員の問題になる。これから兄は病気療養ということになる。一家にとっては隠さねばならない案件なのだ。アシスタントを名乗るあの男も、どうされるかは知ったところではないが、本人にとってもばれれば悪いことしかない。が、一家の手回しで表に出ることはないこと間違いなし。

ちなみに兄は、今後猫以外にも動物、人間を書くことはなかった。静物画、風景画など自分の眼で見るものはなにも書かず、イメージを描くことになる。絵をやめなかったことだけは、芸術家としての矜持がしっかりあったのだ。


「麗華様と私たち五人」

 これが知っている人間。この五人については、麗華はまったく心配していない。自分についても当たり前だ。

「問題は使用人」

 使用人とは、金を握らせられていたあの三人。仁志が落としたやつらだ。

「あの男たちはなにかしら話すでしょう。態度からして、そういった話は好きといいきれます」


 しかし彼らは、兄とあの男がいやらしいことを考えていることは察してはいたものの、初めて会う吹の顔など覚えてもいない。麗華についてはさすがに目に留まったが、実は彼女を恵一のもとへ送り届ける名目でしばらくついていったので、彼女がかかわっているとは思っていないし、自分たちに罪がまわってくるため話すとは考えにくい。そしてさらに、執事五人がしっかり脅してあったりする。


「もし噂が流れたとしたら、他人とつるんで兄がそういうことをやらかした件についてだけと思われます」

「そうだといいですけど」

 ほっとしている半分、信じ切れていない様子も読み取れる。孝支たちは麗華がほっとする方向に必ず持っていってやるとしっかり気持ちを確かにする。

「吹は?」

「覚えていないようです」

 幸は嘘の状況を話し聞かせた。吹はそれを疑う様子もなかった。そこは心配ない。

「麗華様、説教会と反省会、しっかり行ってください」

 それをすることで、自分になにかあったことを想像させることも不安にさせることも思い出させることもない。

「当然でしてよ」

 そのあたりで、それぞれが車を下りることになる。麗華は運転手に今の話を口外しないようにしっかりいいつけたのだった。



 翌日。

「では説教会を始めます」

「はい……」

 放課後、吹の部屋で始まった。なんで自分の部屋で、と吹は一言言ってやりたかったが、そうも言えない。自分のせいで彼女たちを早々に帰らせてしまうことになったのだ。挨拶もできず、みんなは主催者に申し訳ないと思っているだろう。これはしっかり説教を受けるしかない。

「吹!」

「はい!」

「体調が悪いなら先に言うこと!」

 眠いなら、と言わないところは麗華のやさしさか。

「はい!」

「ひと様の前で眠るなんて、レディとして失格です!」

「はい」

 おっしゃるとおりです。相手が何も考えていなかったとしても、ああいった場で寝てしまうなんて恥ずかしい。そして目が覚めたらコートに包まれたまま抱き上げられていたのを思い出して体が熱くなる。しかも、意識のない人間を持ち上げるのは大変重いというし、腕を壊していないか心配だ。

「あら~?」 三人がにやにやと口角を持ち上げる。

「みなさん」

 女の子が好きな話題のときのように笑う三人を、麗華は抑える。今はそんな話をしているときではない。

「付き人をお願いしたあの五人にも迷惑をかけてしまったのよ!」

「はい」

 もう一度寝てしまって、起きたら幸によりかかっていて、思い出したらまた体が熱くなった。

「吹? 聞いてるの?」

「はひ……」

 体が熱くなってよかった。昨日の夜は、体の芯から冷たくて冷たくて、眠れなかった。


 なにもなかったから、なにも話されなかった。でも、なにかあったら。されていたら。そう考えが一度よぎってしまったら怖くて怖くて、体がどんどん冷たくなる。布団に入るのも怖くて、椅子に座って丸まっていた。涙が出そうになるのをどうにか抑えて。あのときは明るい部屋だったから、明るいままなのも怖くて、電気を消した真っ暗な部屋で。


 そんな夜、スマートフォンに電気がついた。びくっと体が震える。恐る恐る画面を見ると、電話だった。画面に名前が出ていた。


「もしもし」

 声が出ないかと思ったが、どうにか声が出た。

『体調は』

 いつもこの人は、言葉が少ない。

「えと、寝すぎたみたい、で、まだ、眠れません」

『そうか』

 麗華たちと別れた後は、彼女の車で彼らを送ったと聞いている。

「ご迷惑をおかけして」

『迷惑じゃない』

 心配だ。

 そう続いた。前にも聞いた言葉だった。

 あとはしばらく沈黙だった。あまり時間をとるのも申し訳なくて、おやすみなさい、と言いかけてところ、

『よしよし』

「?」

 よしよし?

『もう大丈夫だ。安心して寝ろ』


 彼は、パーティーのマナーについての心配はない、俺たちの心配はないと言ったのだろう。だが、大丈夫だ、という言葉は吹の凍っている心を揺らし、溶かした。


「はい」

 きちんと返事ができたかわからない。涙が溢れて、流れて落ちる。よかった、電話ならわからない。

『よくがんばった』

 パーティーに参加したことか。それかもしれない。

 それから、どう電話を切ったのかは覚えていない。



「寝たか」

 幸はずっと、電話を切らずにいた。聞こえてきた声が消えて、遠くから、すぅ、すぅ、とたまに引っかかりながらも寝息が聞こえてくる。残念ながら吹が椅子で丸まっているのは知らないが、寝たことはきちんとわかった。

 やはり寝られなかったのか。



 というわけで吹はお説教中の今も眠気で辛い。授業は叱られるのでどうにか起きていたが、頭に入ってこなかった。それに寝ていた場所が椅子の上で、体が痛い。それは寝返りをうとうとした体が床に落ちて痛かったのもある。下の部屋の人を起こしてしまったのではないか。

 座っている今の椅子がそれで、腰とおしりが痛い。今夜はきちんとベッドで寝られそうだ。


「いいこと?」


 くどくどねちねち、というより、どこか自分に言い聞かせるように聞こえる。説教はそろそろ終わりにしてほしい。どちらにせよ、次は反省会が始まるからすぐには終わりそうもない。

「反省点はどこ?」

「全体を絞って見るべきでした」

「食事時間をもう少しとって、休みを入れる」

「ほかの参加者はじゃがいもに置き換える」

 どこか違う内容もある。

「吹さんの疲れに気が付かなかったこと」

「ひとりにしてしまったこと」

 そのあとからは吹のことばかり。四人は心配してくれているのが、伝わってくる。

「それから」

 ほかにもこういうときはこうすべき、という麗華のアドバイスがあって、やっと話が終わった。次はこの反省をもとに動きますわよ! と残して出ていった。


「はぁ」

 疲れた。これは今夜、ゆっくり眠れる。



「お嬢様、すっきりしたお顔ですね」

 こうやって、たまに運転手は話しかけてくる。

「吹、昨夜はとても疲れていそうだったの」

当然だ。初めての社交界。でも、それだけではなかった。

「よかったわ」

「そうですか」

 いつもどおりに戻ったのだろうと運転手は想像する。お嬢様も、よかったですね。


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