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12.

 金曜日の放課後、無事に化学の実験を成功させた。今週担当の三年生がしっかりと予習をさせてくれたのがありがたかった。たとえ失敗したとしても、きちんと実験に使いました、という事実をなにかあったときに薬局に伝えられれば問題なかった、というのもある。

 土曜日は休んでしまった一日分の勉強を教えてもらう。そのはずだった。


(ふい)様」

「はい」


 様呼びは嫌だったが、言われ続けて慣れてしまった自分がいる。慣れとは怖い。


「親友の麗華様からご伝言をお預かりしております」


 執事から執事への伝言なのだろう。そんなことより、“親友”と強調する彼に不満がある。だが親友ではないと言ってしまうと、麗華の顔を汚してしまうし彼に叱られる。ぐっと飲み込んだ。


「内容を、教えて、ください」

「これからサロンでお茶会をするから来てほしい、とのことです」


 げ、と顔に出てしまったのを執事はしっかり見ていた。「ありがたいお誘いをいただいているのですからそんなお顔はおやめくださいね」とにっこり無言の圧がかかる。麗華はサロンで誰の目にも耳にも邪魔されることなく、ただおやつを食べながらおしゃべりをするお茶会を多く開く。他のメンバーはあの三人がほとんどだが、たまに別の人も招く。高校生としての無邪気な時間を大切にしたいのだろう。


「勉強、が、あるからと、お断り、して、ください」

「先日も同じ理由でお断りしておりますので、難しいかと」


 そう、先日もお誘いがあったのだ。だが、放課後の試験があるため断った。試験は嫌だが断る理由があってよかったと思っていたのに。勉強と試験は違うはずだが、だめと言われてしまった。


「では、麗華様たち、は、忙しいお方、なの、で、気を遣っている、かんじで……やんわり、と」


 招待されたほうも気を遣うものだ。麗華たちが忙しかったらお茶会なんて開く暇もないだろうが、気を遣っていることは伝わるだろう。吹の言う忙しいとはまた別件なのだ。ただのおしゃべりタイムとはいえ、修学旅行の宿でのあのときのような、ただいるだけの存在になってしまうのは苦手だ。だからとはいえ自分から輪に入るつもりもない。空気になるなら、その場にいないほうがいいのだから。


 今日は明日のための準備が行われている。どこもかしこも忙しそうだ。今日までは執事である彼らは、明日のパーティーのドレスに関するなにやらを懸命にこなしている。サロンでお茶会などやっている暇があるとは思えない。麗華たちも同じだろう。


「パーティーの準備のことでしたら、ご心配には及びません」

 彼を見ると、笑っているのに強制させる視線を浴びせてきた。

「もう終わっている、と伺っております」


 くぅ!

 断る理由を与えてくれない。麗華はそういうのに慣れているから準備など簡単なのかもしれない。いや、逆にお嬢様として準備は徹底的に、完璧に最後までやるべきではないか。


「体調がすぐ、れ、ないと、お伝え、ください」

 そう伝えればなにも言えないだろう。水曜の件があったばかりだ。なにかあってもおかしくない。

「すぐれないようには見えませんが」

「かわり、に、あなたの、おすすめ、の、お茶を、持って行って、いただけ、ますか?」


 彼がじとりと見つめてきた。アフタヌーンティーの準備をお願いし、一人になったその間に逃げた前科があるのはつい最近。なにか企んでいるのではないかと考えているのだろう。もうしないと伝えたのに。主人に対してその視線はどうなのだろうか。


「あなたが戻るまで、ここで勉強しています」

 しばらく視線をかち合わせる。彼ははぁと息をつくと、承知しましたと出ていった。部屋から出ないでくださいね、絶対に、と念を押してから。

 思ったより早く戻った彼にどうだったか聞いてみる。戻りが早かったのはやはり信用をなくしているからだろう。それは自分が悪いから文句は言わない。勉強もしっかりやっていた。


「残念そうでした」

「そう、ですか」

 なぜ残念に思うのか不思議だ。吹がいなくてもいつもどおりおしゃべりはできる。

「パーティーのことを尋ねたかったそうです」


 彼女たちは吹がパーティーに出席しないことを知らなかったそうだ。通知には参加と不参加を選べることが書いてあったのに、不参加の人がいることすら考えていなかったらしい。


「大変驚いておられましたよ」

 おしゃべり会では、吹が着るドレスについて聞いてみたかったとのこと。そんなこと聞いてどうするのだろう。もし参加であっても、当日見ればいいではないかと思う。

「女性とはそういうものです」

 なにも言っていないのに、吹の心を見透かしたように彼は言う。

「今後も毎回誘うとおっしゃっていました。覚悟しておいたほうがいいかもしれませんね」


 やめてほしい。勉強より大変だ。次からは間に入ってくれる人がいない。自分で断るしかないし、誘われたいのに誘われていない人に見られたらあとが怖い。吹は頭を抱えた。困っているところを、執事はざまぁみろとでも言いたそうに、楽しそうに眺めていた。

 彼は、前科がある吹が困っている姿を見て、ちょっとやり返した気分になっていた。



 本日土曜、最後の時間まで仕事を全うした彼は、颯爽と帰っていった。「とても勉強になりました」と残して。

 この最後の執事が一番扱いにくかった。さすが三年生というべきか。

 全員良い成績になるはずだ。吹を相手したのだから。




 日曜日、寮でも講堂でも食堂でも、大変なことになっていた。寮には各部屋にドレスやらなにやらの着付けに人が出たり入ったり、講堂は飾り付けや音楽の準備やなにやらに人が出たり入ったり、食堂では戦場のようにシェフたちが忙しなく手を動かし、食材調達に人が出たり入ったりしている。ざわざわとしていて落ち着かない。

 麗華のように控室でゆったりと過ごしている人は少数派だ。パーティーに慣れている人もいる。寮で忙しくしているのは、そういった場所に慣れていないか、逆に楽しみすぎて気合が入っているか、そんなところだ。吹は日曜なのにゆっくり過ごせないのを残念に思いながら、騒がしい場所を避けて教室へ移動することにする。


 校舎はまあまあ静かそうだった。外からの音は聞こえてくるが、中から音が発せられることはないと推測して来てみた。正解だと思って移動している。自分のクラスに入ろうと思っていたが、校舎に入ったら寮ほどではないが明るい声が飛び交っていた。

 どうしたのだろう。一瞬疑問に思ったが、すぐにわかった。声の持ち主は女性ではない。若い男性のもの。そして今日は従者と主人ではなく友人、知り合いとしてともに過ごせる唯一である日曜、最後の日。

 パーティーでは執事たちも正装をする。つまり、校舎が執事たち男子高校生の控室になっていたのだ。関係ないからとよく読んでいなかったが、通知にはきっとその旨も記してあっただろう。これでは参加禁止なのに実は参加したいからと、なにか企んだ故の行動と思われかねない。また、悪い噂が残る吹が彼ら目当てになにかしようとしているようにも思える。


 大変だ。すぐに踵を返したが、向かう方向からも後ろからも、両方からいくつもの声が聞こえてきた。逃げ場がない。どうしよう。


 さっと視界が白くなった。そのまま体がなにかに包まれてどこかへ引っ張られる。体が浮いたと思ったら、すぐに重力を感じる。


「静かにしててね」


 そう聞こえた。と、


「おーい、準備終わったか?」

「だいだいな」

 知らない声と、聞いたことのある声。

「白と黒、悩んじゃってさぁ」

「白かよ! 白馬の王子様的な?」

「おまえには似合わねぇと思うぜ」

 衣装の話をしているらしい。

「誰誘うか悩むな」

「オレは喰う!」

「おいおい、せっかくのパーティーでメシ専門かよ」

 わはは、といくつか会話が続いたあと、じゃ、と知らない声が消えた。

 しゃっとカーテンが閉まった音が聞こえる。


「強引にごめんね」


 ぱさっと顔から布らしきものが取れた。見ると、その布は白いタキシードだ。彼はあの五人のうちの、サトシ。


「男の園に女の子が入ってくるから焦ったぜ」

「男の園……」

 楽しそうに話すイチの台詞に嫌そうな顔をしているのはタクミだ。

「ここは今日だけ荷物置き場にさせてもらっている]

 コウシが言った。その番をしているのが今は彼ららしい。一個人の荷物のため、きちんと管理しなければならない。また、なにかあったときにお嬢様たちにご迷惑がかかることのないように、という配慮だそうだ。考えすぎな気もするが、それがあったおかげで姿を見られずに済んだ。


「ご、ご迷惑を、おかけ、しました」


 動けずひとりで立っていた吹をサトシが見つけ、どっちがいいかと悩んでいたイチの白と黒の上着でくるんで引っ張り、見つからないようにさせてくれたのだ。なんだかんだこの方々には本当にお世話になってしまっている。他の生徒と違い、言葉でしかお礼ができないのが申し訳なくなってしまう。


 外を確認したイチが、今なら人いないっすよ、と言った。


「行くぞ」

 コウシとユキが背を押してきた。

「いえ、ひとりで戻れます」

「また見つかったらどうする」


 そのときはそのときでいい。騒がしいから逃げてきたと本当のことを言えばいい。なにを言われても囁かれてもかまわない。だが彼らはそう思ってくれなかった。


「人が来たら二人で隠すよ」

 背の高い彼らなら、廊下に吹を立たせて背にかばえばほぼ見えなくなる。そういうことらしい。そうなのだろうか。


「みなさん、あの、楽しんで、ください、ませ」


 そんなことしか言えなかったが、ありがとうと返ってきた。結局誰かと遭遇することはなかった。二人にも楽しんでくださいと伝え、惜しみなくお別れだ。





「パーティー参加を禁じられてるんだって」

 仁志が言った。知れわたっているのは、他の執事の間での情報交換による。

「残念でしょうね」

 同情を含んだ目で巧が答えた。

「そうか? あの子そういう場嫌いそうじゃん」

 恵一は吹の考えを一番わかっているようだ。

 吹のパーティー不参加を話しているうちに、三年生二人が帰ってきた。

「禁じられているのは確かだが、そう簡単に口にするな」

 誰かがしゃべるからこうして情報は伝わるのだ。気をつけろと言われ、三人ははいと素直にうなずく。

「着飾ったら綺麗だろうにぃ」

 オレがやりたい! と悔しそうにイチが言う。

「ね、幸さん」

 もとから口数少ないが無言の彼に、投げかける。

「手」

「て?」

「あのままだった」


 吹は麗華を助ける際、ボスに手を噛まれて歯形がくっきりと手に残っていた。病院で意識を失う前に治療はしてあったが、その後はまともに治療していないように見える。包帯の巻き方が執事や医務室のものではなかった。くしゃっと崩れた部分に、傷の一部が透けて見えた。今週担当していた執事が気づいていないことはない。きっと命令があったのか、思い出させないための配慮か。とにかくここに通うような女性が、そんな傷を負ったままにしておくのか。


「事情はそれぞれあるものだ」

 深く首をつっこむなと、と孝支に指摘される。

「ああ」

 あの傷を見ると苦しくなる。血が滲んでいたのを隠し、麗華の手を握り続け、部屋を後にしてから本格的に治療はなされたが、麗華たちにも知らされていなかった、人の歯形の傷。崩れ落ちた後、医者に再度様子を確認してもらったところ傷は深くまで入っていて、見るに堪えないものだった。

 女の子の手にあんな傷を残す行為が、その行為を止められなかったことが、苦しかった。


「お、交代時間っすよ」

「僕らも着替えないとね」

 五人で荷物置き場を出ていく。時刻は十六時。パーティーは十八時からなのでまだ時間はある。

「暇だな~」

 女性と違って、彼らは学校で指定されている正装姿になれば問題ない。もちろん自分で用意してもいいが、それは少数だ。

「暇ならしごいてやるよ」

「チョー忙しいっす」

 男たちの時間は、平和に過ぎていく。





 十七時半頃から、寮の廊下に人の足音が響くようになった。いつものローファーではなく、ヒールのある靴の音だ。軽い衣擦れの音は、ドレスの裾だろう。みな美しい花となって、楽しそうに笑顔を浮かべながら会場へと向かっているのが音だけでわかる。

 外からの音が、きらきら光って音符になっているみたいに、寮の扉を通り抜け、部屋のなかまでとんでくる。これから自分に尽くしてくれた執事たちと、気楽に話すことができるのだから。


 話すのは女性陣としては自分から話しかけやすい。でも踊るのは、男性からのお誘いがあってからが一般的という。あのときの麗華のように勇気をふりしりぼって自分からいってもいいと思うが。


 話したい相手は、自分の担当してくれた人だけとは限らない。周りの人から評価を聞いて良いと思った相手、ただ単に容姿の問題、見ていて気になった相手。それぞれだ。あとはいつか自分の執事になってほしい相手でもある。男性陣にとっては、話しかけてくれたイコール色々な意味で将来の脈ありと捉えられる。


 ダンスのお誘いは、秘書から尽くすにふさわしい相手として認められたということだ。あとは女性の件と同様、異性として気に入られたとも受け取ることもできる。仕事として、将来お互いにメリットがある機会だ。


 とはいえ女性陣は単に男性とかかわれる機会として受け取っている。あのはしゃぎよう。お疲れさま会という名のパーティーと聞くだけで心躍るのに、素敵な男性がいるとなればそういうものなのだろう。パーティーと聞いて嫌な気分になるのは、社交としての機会で戦いしかしてこなかった生徒たち。楽しみとすぐに目を輝かせたのは一部の人間に限られる。だからただのお疲れさま会であり交流の機会となると、麗華も今夜だけは楽しみに待てるのだ。


 十八時になる前に、ほとんどの男子高生は会場で待っていた。時間ちょうどくらいに、女性がぞろぞろ入ってくる。頬を紅潮させて。最初はなんとなく目線を伏せて。でも足を落ち着けるとなんとなくきょろきょろし始めたのは、目的の相手を探しているのだ。男たちからすれば、後から入ってくる女性たちがどこへ行ったのかはわかっている。


 ごーん、ごーん、……


 鐘がなった。パーティーが始まる。


「みなさん、此度の初の取り組み、お疲れさま」


 学園長が労いの言葉をかける。女性は裾をそっと持ち上げて、男は胸に手をあてて、学園長に応える。その様子を満足そうに見ると、


「今日は身分その他を忘れて、楽しんでほしい。時間が惜しいだろう。では、話はこれにて」


 学園長が去る。短い挨拶が嬉しい。生徒の交流を邪魔したくないのか、開催中に会場に入ってくることはなかった。


 さて、始まったパーティー。まだダンスの音楽はかからない。今はBGMだ。

 女性陣も男性陣も動き出した。どんな下心があっても、交流したいのは嘘ではない。少しずつグループがまとまり始め、会話が大きくなっていく。


 麗華は赤みがかったふんわりウェーブの髪を片方に寄せて、やんわり三つ編みにしていた。編んでいる髪の間に飾りを一緒に編み込んでいる。濃いベージュのレースをあしらったドレスは、どこか色っぽく、性別関係なく目を引いている。いつもは強い気を発している彼女が、今はどこか控え目のお嬢さんに様変わり。まるで身分の高い王子様相手にするご令嬢を見ている気分だ。


 いつもとなりに控える三人は明るく彼女に話しかけている。

 一人は濃い茶色のベルベッドのドレスだ。ところどころにスワロフスキーがあしらわれていて、色は地味に見えてもおとなしく華やかだ。大人っぽいというのはこういうのを言うのだろう。肩より少し長めの髪先を背中でゆったりと縛り、カチューシャでおさえている。彼女はいづみ。


 もう一人は、長い髪をそのままきれいに下ろしている。艶のある髪が、シャンデリアに照らされてひらりと輝く。なんと振袖を着ていて、まわりと一味違う。花飾りをつけていて、まるで成人式を見ているようだ。クリーム色の振袖に大きな花柄の着物が美しい。麗華の隣にいるとなんとなく色合いが調和してしまいそうにも見える。同じにならない、色がかぶらないなどのことは先に相談してあったのだろうが、もしそうだったとしても麗華は気にしなかっただろう。彼女は澄子。


 最後の一人は菜穂。一般的なパーティードレス。濃紺の地に花の模様の刺繍が刺してある。糸の色が地の色に近いので近くに来ないと見えにくいが、とても繊細だ。いつも元気な彼女だが、落ち着いた雰囲気を醸し出している。短めの髪はきれいにまとめられていて、ドレスの地と同じ生地のリボンが大きく巻かれていた。遠巻きにはドレスが地味に見えなくもないが、髪飾りがそれを補っている。


 落ち着いた印象なのにどこよりも目立つ四人に、学園の生徒も高校の生徒も一時釘付けになった。すでに会話が始まっているが、少しでもその場を離れればすぐにほかの相手に捕まることになることは間違いない。女子生徒に隣を奪われることも安易に考えられる。


 マナーはきっちり学んできた。へまをする生徒などいない。もしあったとしても、執事こと男子高生たちがうまくフォローしただろうし、相手が相手なので問題ない。それにみんな気合を入れていたこともある。小説にあるような、ライバルにいやがらせをする、のようなことも起こらない。


 ダンスが始まる合図の音楽が流れてきた。今度は男性がするりと動き始める。歓談の時は女性がそわそわして目当ての男性のもとへ行ったり、男性が気を遣いながらも女性を捕まえたりしていたのに、まったく違う光景だ。


「お、麗華さんたちだ」


 あの五人が近寄ってくる。さっきまでは女子生徒に捕まって動けなかった五人も、ダンスの合図がしたら突然もじもじし始めた女子生徒の隙を見て抜けてきたらしい。彼女たちは残念かもしれないが、しっかり捕まえておかなかったのが運の尽きかもしれない。


「あら、イチさんたち」

「楽しんでる?」


 恵一は悩んだ結果、学校の指定服ではなく、自分で持っていた白のタキシードを選んでいた。

 すっかり通常モードになった彼らも、正装になったらこれまた違う雰囲気でかっこいい。美しい。


「もちろんですわ。ね?」

 三人もうんうんと笑顔でうなずいた。

「これからダンスだね」

「お誘いはあったのですか?」

 ゆっくりと首を横に振る四人。

「そりゃぁ誘いづらいよな~」

「先輩!」

 咎める巧を気にもしない恵一。誉め言葉なのだ。


「それなら」


 恵一がすっと膝を折った。


「素敵なお嬢さん、私と踊っていただけませんか?」


 手を差し出し、麗華の瞳を見つめる。とても自然な流れだ。このまま手をとってその甲にキスでもしそうだったが、さすがに許可なしではできない行為。そこまではしなかった。いつものちゃらい感じはどこへいったのか、あまりに真摯なふるまいに麗華は一瞬目を瞠ったが、すぐに微笑を浮かべる。


「喜んで」


 麗華と恵一の二年カップルがエスコートを始めたのがきっかけとなり、いくつか、いくつも、どんどんダンスのペアが増えていく。


「あの人、何者?」

「あはは」


 もう一人の二年、仁志が小さく笑う。恵一があの恵一とまったく違うと思われても不思議ではない。

「あいつに負けていられないね」

 紺色のドレスの彼女、菜穂に手を差し出した。

「僕と踊っていただけますか?」

 膝をついてはいないものの、またも自然なお誘い。ものやわらかい彼らしい。「はい」とゆっくり歩いてダンスに溶け込んでいく。


「ぼ、ぼくと」

「行きましょう」

 最後までいう前に、巧はいづみに連れていかれ、着物の澄子は三年生二人とダンス鑑賞を楽しんでいる。


「さっきからオレじゃない人見てるね」

「彼が命令を守ってくれるか確認しているのですわ」

「命令?」

「ええ」

 ダンス中でも会話ができる二人はすごい。恵一もその“彼”を見る。

「なんか、出ていったね」

 なにかを持って、会場を後にした。麗華がよくやったとばかりに笑っている。

「もう大丈夫ですわ」

「ちぇっ」

「王子様が舌打ちするものではありません」

「え、王子様?!」

「ダンスに集中して。見直したのに台無しだわ」

「申し訳ありません、姫」

 ぶわっと赤くなる麗華を、楽しそうに見つめる恵一である。


 ダンスや歓談を楽しむ生徒たちは、ひとりが会場から消えたことに気づくはずもなかった。





 今頃みんな食べて踊って楽しんでるな。

 そんなことを思ってベランダに出ている(ふい)。聞こえないと思っていたオーケストラも、風が小さく届けてくれた。どちらにせよ不参加にしていたパーティーだが、どこかうらやましいと思ってしまう自分が悔しい。うらやましいのは食べ物だ。そう、食べ物。あとは素敵なドレスに身を包んだ彼女たちを見られないことだろうか。

 素敵な夜を楽しんでおいで、みなさん。いろいろあったが、勉強になった五週間だ。お疲れさま会が嬉しいはず。楽しくないはずがない。


 すでに夕食を終えている吹は、部屋で読書をしていたところだった。でも外から聞こえる音楽に、つい誘われてしまった。カーテンから覗き見れば、講堂の窓からは金色の光が漏れている。あれは電灯とシャンデリアの反射の色だが、きっと参加者の心のきらきらも含まれている。ついカーテンを全開にして、ベランダに出てしまったのだ。あそこは自分には似合わない場所。


 この場所からは星は見えるとはいえいつも見えにくい。あの宿とは全然違う景色だ。今夜は講堂からの明かりが夜を照らしてほとんど見えない。そっと目を閉じて、音楽に耳をすませていた。食事はパーティーの時間に合わせて作られていたため、吹は自分で用意すると伝えておいた。とても喜ばれた。久々に食べるカップラーメンはおいしかった。作るとは言わないのでは、とつっこんでくるシェフはいなかった。


 昨日までの執事が置いていってくれた紅茶のパックでお茶を淹れて、読書。それから音楽鑑賞。なかなかいい夜ではないか。開いた窓の外のベランダはもちろん空調はなく、少し熱気がある。空調の効いた室内との温度差が最初こそ気持ち悪かったが、今は温度差よりも湿気を含む熱気にあてられそうだ。この熱気は参加者の興奮も混じっていそうに感じてしまう。

 しばらくは本を閉じ、ベランダに体を預けて音楽に耳を傾けていた。


 こんこんこん


 気のせいか、ドアを叩く音がする。多分、オーケストラの打楽器かなにかの音だろう。気にしない。そういえば、オーケストラに太鼓とかあっただろうか。


 こんこんこん


 また音がした。

 あれ。タイミングが音楽と合っていないことに気づく。


 こんこんこん


 やっぱりわたしの部屋だ。もしかして学園長かもしれない。嫌な感じはしない。ゆっくりと、でも小さくドアを開けた。

 背の高い人が立っている。一瞬閉めかけたが、あれ、とまた小さく開く。


「ユキ、さん?」


 そこにいたのはユキだった。片手に大きな皿とグラスを持っている。器用だ。吹にはできない芸当。もう片方の手でノックをしていたのだ。早く開けるべきだったと後悔する。


「どうしましたか」

「主の命令で」


 今日はもう執事と主人ではないはずなのに、命令とは。

 とりあえず重そうな手をどうにかするため、部屋に招き入れる。物が少ないこの部屋は、質素だがいつでも誰かが入ってこられる状態だ。

 ユキとしては、女性である自分の部屋に、簡単に男性を招き入れるなど不用心だと叱りたいところだったが、ぐっとこらえていた。


「置いていいか」


 手の皿を小さく持ち上げる。どうぞ、と机に手を向ける。こと、という音ひとつなく、お皿とグラスが机へ収まる。


「あの、もう今日は、命令など、ないはず、ですが」

「昨日のうちに命令があった」


 昨日の命令。なら聞く必要があるのかないのか、吹にはわからない。わかるとすると、今週、彼の主人は麗華だった。麗華の命令でここに来たということだ。


「どのよう、な、命令か、あの、お尋ね、しても?」

「吹は今日ひとりだから、パーティーのお裾分けをしろ、と」


 パーティーのお裾分けとは、また面白い言い方だ。でも食べ物は嬉しい。じっと見ていたら、飲め、とグラスを渡された。まだ冷たい。受け取らないわけにもいかず、一口いただいた。透明がかった朱色のそれは、柘榴のノンアルコールジュースだそうだ。


「窓を開けて何をしている」

「えっと、あの、星を見ようとしたら、音楽が、あの、聞こえてきたので、聞いて、ました」

「この暑い日に。おまえは夜が好きなのか」

「どうで、しょう……」


 自分でもわからない。なぜか会話が途切れたので、続けようとがんばる。せっかくのいろいろ大切な機会に、わざわざここまで来てくれたのだから。


「あ、暑いので、部屋の温度は、下げてあります」

「今日は貸せる羽織はない」

「あの、着るもの、なら、あります」

「そうだな、俺のジャケットがある」


 斜め上の回答とはこれを言うのだろう。自分の部屋なのだから、いくらものが少なくても着るものくらいある。そもそも暑いのだから着るものはいらないはずだ。


「お気持ち、ありがとうございます。えっと、こちら、いただきますので、会場に、お戻りください」


 もう命令は遂げたはずだ。しかし彼は動かない。すべて食べたところまで見届けてからでないとだめなのか。どう見てもひとり分の量。食べているのを見られるというのはどうしても食べにくく、食べないというのもなんだか失礼な気もする。なにをしていいかわからなくて、しばらく二人で固まっていた。


「しっかり聞こえるんだな」

 音楽のことを言っているのだろう。

「ここは、風下、なので」


 オーケストラが紡ぐ美しい旋律は、細くて小さいがしっかりと届いている。見えない星も、どこかで音楽に合わせてきらめいていることだろう。


「ほら」


 手が差し出される。なにが「ほら」なのか。また固まっていたら、


「レッスンではダンス指導もあったと聞く」


 そうなのだ。なぜ実践する機会が無に等しいダンスをやる必要があるのかと思ったが、あのときからパーティーがあることが決まっていたのだ。先生の足を踏みまくり、溜息を何度つかせたことか。


「せっかく練習したのにやらずにどうする」


 どうするといわれても、別にどうしなくてもいい。

 え、もしかしてダンスに誘われているの? だってここ、いくら一人部屋にしては広いしものが少ないとはいえ、部屋ですよ?

 ユキがすっと膝をついた。


「どうか、私と踊っていただけますか」


 見上げられた瞳が、風で髪が吹かれてくるりと光る。そうか、さすがにパーティーでサングラスはしていないんだ。

 この手をとっていいのか、わたしに取る資格はあるのか。迷う。


 先に動いたのはユキだった。吹の手を、ふ、と触れる。ほんのり持ち上がるくらい。やさしい。あたたかい。この手をどうすればいい?


「ひどいな」


 びくっと肩が跳ねる。一気に体温が下がる思いだ。


「自分で巻いているのか」


 ユキがとった手は、麗華を攫った主犯人に噛まれて包帯を巻いていた手のほうだった。執事がいる間も触らせなかった。包帯は自分で巻いていたが、不器用で崩れている。目を伏せるしかできない。これ以上落胆させたくなかった。


「女性になんてことを」


 ひどい、というのはもしかして、手の傷のことか。参加禁止を言われた自分に対してか、または下手な巻き方を言っているのかと思った。他にも傷を放っておいた吹の精神を責めているのかと思った。うまく包帯すら巻けない自分を責めているのかと思った。


 違う、この人は、違う。


 くるくると包帯がほどかれていく。ぎゅっと締め付けられている吹の心臓も、一緒に。

 どうすべきかわからずに預けたままだった手に、小さくやわらかい感触がした。それは、ユキの唇だった。


 え。


 反射で手を引いてしまった。もしかしたら不快にさせただろうか。もう、頭がうまく回転しない。


「悪かった」


 謝られてしまう始末。そうか、唾液での消毒か。そうだ。きっと。


「トラウマがあったな。悪いことをした」


 いや、悪いことをしたのは自分だ。トラウマなんて、そうじゃない。でも声が出ない。


「あー」


 ばつが悪いのか、間を埋めるための声が聞こえる。首の後ろに手を当てて。

 もう会場に戻っていいのに。


「踊ろうか」


 手と腰に、いつの間にか感触が走る。勝手に体が動いた。そうだ、さっきダンスのお誘いを受けたのだ。

 遠くから聞こえる音楽に合わせて、体が動く。いや、動かされている。


「あ、あの!」

 懸命に声を出した。やっと出た。

「わたし、ダンス、下手、なんです!」

 先生の足を何度踏んだか覚えていないほどに。


「大丈夫だ」


 なにが? どうしてそう言い切れる?


「リードはうまいと言われている」


 もう動き始めている身体。たしかに、足は踏まないし体が軽い。相手が違うとこんなにも違うのか。ダンスをするには狭いはずの空間で、ちゃんと踊れているのが不思議だ。


 わ、わわわ

 くるん、とターンして、引っ張られて近づいて。

 わ、近い。

 眼が、きれいだ。星が映し出す夜空の眼。きれい。


「やっと笑ったか」


 笑った? わたし、笑ってた?


「喰いもんのこと以外でもちゃんと笑うんだな」


 話しながらでもダンスができている。すごい。

 あなたもです。あまり見なかったけど、笑ってます。


「食い意地が、張っている、と?」


 ついむっとしてしまった。合っているけど。食べ物じゃなくても、あれ、どうだろうか。


「ほら、最後まで」


 もうすぐこの曲が終わる。がんばってレッスンの成果を見せないと、なぜか悔しい。


 ……終わった。


 するりと手が離れる。あ、なんだか惜しいと思ってしまった。感触が消える。それでもあたたかさは、このぬくもりは、手に残ったままだ。

 胸に手を当てて礼をする彼を前に、吹は自分の手を見ていた。


「最後までやれ」


 お辞儀を忘れていた。ちょん、と制服の裾をもって持ち上げる。できていただろうか。

 できていた。だが、制服なのにドレスと同じと思って持ち上げられたらユキとしてはかなわない。目を逸らすしかなす術がなかった。


 ひゅぅ、という外からの熱気がカーテンを揺らすとともに、エアコンから出る冷気が体に当たる。動いて温まった体には、作られた冷気が少し冷たかった。

 ぱさ、と肩に重みがかかった。なんだろうとみると、黒いなにか。ユキのジャケットだ。


「羽織はないがこれがある」


 窓を閉め、カーテンを閉め、エアコンの温度を上げるユキ。そのまま流れるようにすとんとベッドに座らされた吹は、なんだかダンスの続きのようにリードされている気分だ。


「手」

 今度は何を求められているか分かった。彼の片手には包帯がある。さっきほどいた包帯を巻いてくれるということだ。これは甘えていいのか。

「これくらい」

 大丈夫と言いたかったのに、もう手をとられていた。見た目は痛いが、五感での痛みはほぼ消えてきている。強く触るとぴりりと痛みが走るくらいだ。そういえばダンスのときは痛くなかった。彼は上手だったのだとはっきりと認識する。小さな部屋に合わせて、吹でも踊れるリードがあって。

 するすると器用に巻き付けられる包帯は、やわらかい。


「次は医務室の先生にやってもらえ」

 いやです。心の中で唱える。

「いやだと顔に出てる」

 仕方ないのだ。見せられるものではない。悪評の原因になっているひとつなのに。


「これは人を助けた名誉の傷だ」


 やさしく撫でられる。


「誇れ」


 ぽん、と乗せられた頭の手は、やはり大きい。


「俺は戻る。皿はこっそり厨房に返すこと」

 わかっています。

「証拠隠滅もしっかりやること」

 もちろんおなかの中にすべて収めるつもりです。

 あと、と彼は続ける。まだあるのか。

「命令に従ったこと、彼女に伝えてもらえるとありがたい」

 彼のためにも、それはやろうと思った。


 出ていこうとする彼に、背中から声をかける。


「あの!」


 今度は、わたしが言わなきゃ。言いたいんだ。伝えたいんだ。


「ユキさん、も、素敵な名前だ、と、思います!」


 本心だ。吹も嬉しかった言葉。伝えたい。返したい。わたしからも。


「幸せが降ってくるみたいで、とても、素敵です」


 少し間があってから、


「おやすみ」


 彼はぱたんと出ていった音がした。


「おやすみなさい」


 小さなパーティーが、吹のなかで大きく輝いたのだった。



 証拠隠滅は生徒たちが寮に戻る前に終わり、皿の片付けも済ませた。パーティーって楽しいんだ。おいしいだけじゃないと、知った夜。冬ではないのに、まだ続く音楽の旋律が、ちらちらと初めての感覚が降ってきているようだった。


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