10.
二週目が過ぎ、三週目を迎え、四週目が経過した。
あっという間に過ぎていった。
彼のおかげか、その後に担当をしてくれた三人も執拗にくっついてくることなく、話しかけてくることも少なく、過ごしやすかった。いくら新しい取り組みとはいえ、まだ暑い夏の間、どんなときでも近くに人がいると、温度でも人間関係でも暑苦しい。秋という季節は何月から始まるのだろう。九月はとうに過ぎてしまった。
執事がいるということで、学園の生徒たちはいつもに増してかん高い声ではしゃいでいる。そういう意味でも熱いともいえる。言動に注意を払っていたのは、最初の一週間の数日くらいだった。今ではもう、素敵な男性が近くにいることでマナーあるご令嬢ではなくなっっている。執事たちもそのあたりは想像していたのだろう、そこまで強く指摘はしない。ご令嬢たちは注意を受けたそのときさえ、ぽっと頬を赤く染めている。熱も音も、蝉の声のほうがまだましだ。
学園の生徒は、あの人がかっこいい、対応がいい、気が利く、など当の本人の耳にも入るほど話題にしていた。もう五週目に入りそろそろ環境に慣れたとはいえ、よくもまぁこんなに同じ話題が続くものだ。執事役の男子生徒たちのほうがいつも冷静に仕事していて、お嬢様学園と呼ばれるここの生徒はある意味男子生徒に負けている。
吹には、最初の彼のおかげでいいことがあった。しかし悪いこともある。苦手な理系の勉強が増えたのだ。成績について、執事も把握しておかなければならないものなのだろうか。不足している部分は補わないといけないのはわかる。でもせっかくの放課後の時間を、ほとんど勉強にあてられてしまったのは辛い。それしか関わる時間が少ないから、という理由もあるだろう。その点は吹に問題があると認めざるをえない。おかげさまで小テストの点数が上がったことについて先生からお褒めの言葉をいただいたが、執事のおかげという意味だ。彼らがいなくなったら読書の時間が増え、理系の勉強時間は減る。テストの結果は下がる。仕方がない、と思ってもらおう。
五週目の現在でもはしゃいでいるのは、今週末の日曜日、お疲れさま会という名のパーティーが催されることも大きい。
噂によると、かなり豪華だとか。オーケストラの演奏する音楽に、豪華な食事。執事だった彼らは同年代の異性となる。さて何を着ていこうかと、そんな話題でもちきりだ。小説で読んだ内容によると、パーティーで身に着けるドレスは戦闘服と聞くが、本当だろうか。でも、話している生徒は楽しそうだ。不参加を決めている吹も遠くからそんなことを思って見ている。誰かが楽しそうにしていることに嫉妬するほど捻くれた性格ではない。食事は不参加の人にも同じものが配られるし、悪いことはないのだ。
二週目は一年生、三週目は二年生が担当してくれて、四週目は三年生、最後の今週も三年生が現在見てくれている。ベテランな雰囲気と落ち着いた物腰が、年下の人たちと違う点だろうか。情報が増えていっていることもあるかもしれない。
最後の週になったここ最近、通学組以外の出入りも激しくなってきた。パーティーのための準備にたくさんの人が出入りしているからだ。生徒たち、特に学園の生徒はドレスの支度に外出していく。持ってくる生徒もいる。小説を読んでいるとよくあるのは、気に入らない生徒に汚れが落ちにくいジュースをかけたり、気になる相手にわざとぶつかったり、というシチュエーション。平和に終わることならいいけれど、少なくとも前者のような不穏なものはやめてほしいな、とだんだん忙しさを醸し出す女性陣たちを見ながら思っていた。
麗華は水曜日、いつもどおり迎えに来た運転手の車に乗った。黒塗りの豪華な車はどこを走っていても目に留まる。乗り心地も良いように手入れされていて、麗華の自慢だ。
「いつもと違う道ですのね」
麗華の独り言のような問いかけに、運転手はびくりと肩を震わせた。それを見て、麗華は確信する。
「なにがありましたの?」
いつもならぴかぴかに磨かれている車体にほんの少し泥がついていた。中はほとんど変わらないものの、運転手本人の身だしなみが崩れている。そしていつもと違う道で学園から離れていく。
これはおかしい。
いくらお嬢様とはいえ、なにも見ていないわけではない。雇う者のことも、家のことのひとつだ。
「答えなさい」
落ち着いた声で、しかし命令口調で運転手へ問いかける。
いや、命令する。
「……娘が、攫われました」
しばらくの間を置いて、返答が絞り出された。震える声。そういうことかとすぐに理解したのは、こういうこともありうると幼いころから教えられていたからだ。
「お嬢様を、伝えらえた場所へ連れてこい、と」
「つまりあなたの娘と引き換えにわたくしを連れてこい、というわけですわね」
運転手は無言。それは肯定を意味する。
「あなたの娘はまだ小学生よね」
何度も遊んだ。とてもかわいく、素直な女の子。
「申し訳ありま」
「そこに連れて行きなさい」
怒鳴られるのかと思っていた運転手は、驚いた。それでも運転に支障をきたさないのは運転手としての慣れか誇りか。
「娘さんを愛しているのは知っているわ。家族想いなことも」
「お嬢様」
「取り返すわよ」
強い意志を感じられる言葉。
「あ、ありがとうございます」
涙が出そうなのを抑えながら絞り出された震える返事に、麗華は大きくうなずいた。神宮司家の娘として、従者を守るのは当然だ。
「必ず娘を無事に取り返さないと、クビにするわよ」
無事に取り返せば罪に問わない、という意味だ。それをしっかりと受け取った運転手は、伝えられている住所に向かって車を走らせた。なにも言わず、フロントミラーに映るお嬢様、麗華を見て。
どうしてこんなにも冷静でいられるのだろう。冷静というよりは堂々としている。ただの従業員である自分の、さらにその娘のために人質になっているというのに。
瞳は揺れずに、ただ前を見ている。心配していたら、心配するのは自分の娘と運転の安全だけにしなさいと注意までされてしまう始末。順調すぎるほどに、住所まで近づいていく。
麗華が正門に向かう姿が、たまたま図書室から見えた。遠くてもわかってしまうあのオーラはなんだろう。友人たちとお互いに手を振っている。毎日別れるときの光景なのだろう。でもなぜか、胸がざわざわする。
どこかでなにかが、わたしに伝えてくる。彼女を止めろ、と。
それでも、これだけの人がいて、安全の管理がされていて、専門の運転手がいる麗華を心配する必要がどこにあるのだろうか。それに今は、学園の人口は増えている。大丈夫。大丈夫。
しばらくして、先生たちの様子が変わった。何があったのか。執事に尋ねてもわからないという。胸のざわつきが大きくなっている。津波が、ゆっくりと、押し寄せてくる。
「なにがあったの、か、尋ねて、も、もらえますか」
吹がなにかを頼むことは少ない。執事はすんなりと図書室を離れた。
理由は彼からではないところから入ってきた。
麗華が攫われた、と。
先生が麗華と仲の良い友人、あの三人に、彼女の居場所を聞いて回っていた。そして先生の焦りようからして、原因はそう多くは考えられない。
戻ってきた執事は、答えを教えてはくれなかった。態度には微塵も出ていなのはさすがだが、知っているのだろう。
「神宮司さんが、攫われた、と、聞きましたが」
冷静にしている執事も、動きには出なかったが瞳が揺れた。これはもう、攫われたのは嘘ではない。嘘の可能性なんて考えなかった。
「お部屋に戻りましょう」
本日は騒がしく、こちらは勉強には向きません、と寮に戻ることを提案してくる。大人しく従った。
でも、すべてに従うつもりもなかった。
「勉強は終わりにします」
部屋に戻って執事に告げると、反対はなかった。落ち着きたいから、と一度楽しんでみたかったアフタヌーンティーを頼むと、ご用意いたします、と食堂へ向かった。あれは準備に時間がかかるはずだ。
「お部屋から出てはなりませんよ」
危ないことが起きていることを匂わせない柔らかな言い方ではあったが、事態を悟られないためだ。返事はしない。できない約束はしない。
すぐに荷物を用意する。制服のまま、カバンには買い物バックとお金などを詰める。すぐに守衛室へ向かう。途中すれ違う人たちが多い。みな寮に戻るよう伝えられているのだろう。吹がひとりのことはいつものことだからか、誰も声をかけてこなかったのは幸いだ。
守衛室の先生に、出かけることを告げる。
「今日、買い物に出かけるんです」
「今日はだめだ」
即答だった。ひとりの生徒が攫われているのに、外に出すはずがない。
「しっかり届けは出してあります」
出していない。過去には。今書いたばかりの紙をぺらりと出している。
「聞いていないが」
「今、聞きましたよね」
届出の紙を持ったまま、先生と目を合わせた。
「わたしを、外に、出して、くれますよね」
先生が戸惑う。あー、と微妙な反応だ。
「出してください」
もう一度、強く伝える。
「行っていい」
すぐにドアを開けてくれた。そう、それでいい。学校から出ることに成功した。執事の彼には申し訳ないが、今は優先すべきことは別にある。
門を出ると、目的地へ走る。
学校から丘の下の町へはそこそこ距離がある。部屋にいるときに連絡しておいたタクシーは、バス停の付近へ来ていた。呼んだのは自分だと伝えると、乗せてくれた。
目的の店へまわり、買い物を済ませる。
「次はどこへ行きますか?」
「わたしが行くべき場所へ」
力を込めてはっきりと伝えると、タクシーが滑り始める。大丈夫、きちんと連れて行ってくれる。
向かう先は、町を通り抜けた先のオフィス街のようだ。この辺りは、大通りから一本なかに入ると、大人の夜の街にもなる。
「お待たせしました」
停まったのは、車が入るには狭い道だった。スナックやら倉庫やらの看板が立っていて、まだ暗くないのに怪しげな雰囲気を醸し出している。
「ここでお待ちください」
そのまま細い道へ踏み込んだ。仄暗い視界。一気に薄暮時に入ったように。
夜の街にはまだ早い時間。集客は必要ない。なのに一人、外で立っている人を見つけた。あそこだ。
「すみません」
声をかけると、鋭い目つきで睨まれる。脅し。警戒も含まれている。女子高校生が自分に声をかけてくるのがおかしいと、自分でわかっている様子だ。
「なんだ」
動かずにずっと返事を待っていた。諦めたのか、それだけ飛んできた言葉。そして、は、と目が開いた。やはりここだ、と確信する。
「わたしの知り合いがこちらへ来ませんでしたか?」
最初は質問だ。丁寧に教えてくれるようなら、取引の価値がある。だがこの男は、知らねえな、と一蹴した。知り合いというのが誰なのかも聞かないまま。知らないもあるか。
「来たのですね」
「知らねぇって」
煙草をふかそうとする男。答える気はさらさらない。本当に知らなくて、ただ雇われている身なのかもしれないが、来ていないとしても答えをうやむやにするのはおかしい。
「こちらに入れてください」
「はぁ?」
「入れてください」
「入れね」
「入れなさい」
最後まで言わせない。
男はちっと舌を鳴らして、「入れ」と扉を開けた。その先は暗い半地下だ。段ボールや土管やらが転がっていて、居ぬきの店のようだ。
そして見つける。
「あなたは、わたしの学校の関係者ですか?」
制服を見せながら尋ねる。さっき男がはっとしたのは、制服で気づいたからだ。猿轡をされた女の子は、小学生の低学年くらいか。うんうんと涙目でこちらを見上げてくる。
「すぐに開放します」
猿轡を外し、縛られた足と手の縄を外す。買ってあったナイフが役に立っているが、刃物の存在がこの子に恐怖を与えていないか心配だ。でも、そこまで気にかけている時間がない。用意しておいた飲み物をゆっくり飲ませてあげてから、
「なにがあったのか、教えてもらえますか?」
なるべく優しい声を心掛けながら尋ねる。
「れいか様が、れいか様が」
涙目だった瞳から、本物の涙が流れだす。
「助けます。そのために、教えてください」
なにがあったのか。女の子ははっとして、涙をぬぐう。自分がすべきことを理解している、賢い子だ。
「下校中に、捕まりました」
学校からの下校中、ひとりになったところをいきなり捕まえられたという。口を塞がれ車に押し込められたと思ったら、猿轡に手足の拘束。ここまで連れてこられて泣いているところを、なぜ知っているのかわからないが、父へとテレビ電話で連絡された。
「神宮司家のお嬢さん、れいかさまと引き換えに、あたしを返すって」
麗華さえ手に入ればよかった。だからここの警備も甘いのだ。
この子の父親は毎日送迎をしている運転手だそうだ。男たちは住所を告げ、そこまで連れてこいと命令した。そして運転手は、娘のために麗華を指示された住所へ連れて行ったのだろう。
「麗華様はどこへいるのでしょう」
まだこの子は解放されていなかった。開放する気がなかった可能性も考えられるが、まだ麗華がその住所へ到着していないことも考えられる。
「あのね」
女の子が続ける。
「住所、聞いたの」
「教えてもらえますか?」
そこは、ここから離れた古い工業団地だった。すべて廃工場。肝試しに使われることもあると聞く。詳しい場所はわからなかったが、それだけわかれば十分だ。
「ありがとうございます。あなたは、とても賢いですね」
パニック状態だったろうに、誘拐犯の話す住所しっかりと聞いて覚えていたなんて。
「わたしが助けに行きます。あなたは逃げて、お父様を安心させてあげて」
こういうときのために、タクシーの中で助けてもらうためのメモを書いておいた。
「頼れる人は、すぐ見つかります」
メモを持った女の子と一緒に半地下を出る。外にいた男は驚いた。
「ありがとうございました」
女の子を背に庇いながら伝えると、脅しか本気か、掴みかかろうとするそぶりを見せる。でももう遅い。
「おやすみなさい」
こちらも用意して手にしていたスプレーを振りまいた。しばらくして男が崩れ落ちる。
「なにしたの?」
こわごわと背中から聞いてくる。もしかしたら今は、吹のことのほうが怖いかもしれない。
「睡眠薬を用意していました」
嘘ではない。女の子を広い道に連れると、わたしはここで、とタクシーへ走る。女の子は一人になることを怯えていたが、たまたまパトロールに出ていた警官を見つけ、すぐにメモを渡していたのを目の端で捉えた。
わたしは、やるべきことをやる。見ないふりをしてしまったのだ。それが今の状況を招いている。これは、自分のための行動だ。
工業団地だった廃工場へ到着した。タクシーの運転手にはここでいいと帰ってもらう。もちろんお代は払った。
お嬢様学校に似合わないリュックサックを背負い、嫌な雰囲気のもとへと進む。もうすぐ暗くなってくる。タイムリミットがいつなのかわからない。急がなければと焦る気持ちをおさえながら、音をたてないように様子を確認しつつ進む。と、人の姿。男たちが見えてきた。数も多い。失礼だが、悪い仕事をしていそうな見た目だ。
ここで合っている。
そして、向こうに門番のように男が何人も立っているそこが、麗華がいるところの入り口だ。
コッ、コッ、とローファーの踵をアスファルトに押し付け、わざと音を鳴らしながら、建物と建物の間のど真ん中を歩く。だんだん低くなってきた太陽が、吹の体をオレンジ色に染め上げる。
「どうした?」
「お嬢ちゃん、肝試しにはちょいと早いなぁ」
「なんか用か?」
制服を見て一瞬怯んだ様子を見せた男もいたが、男たちは自分たちのほうへ近づかないようにうまく圧をかけてくる。今度は吹が怯む番のはずだ。男たちはそう思っただろう。
が、吹は怯まない。
「同級生を迎えに来ました」
男たちはすぐに表情を変えた。奥にいる男は、スマートフォンかなにかでどこかに連絡をとっている。「出ねぇよあの野郎、使えねぇ!」と電話を投げ捨てた。こそこそと一人に耳打ちしているのは、運転手の娘であるあの女の子が逃げたであろう可能性。そんなこと耳打ちしなくても丸わかりだ。こいつらはおつむが足りないらしい。
「聞こえませんでしたか? 同級生を迎えに来ました」
はっきりと伝える。ここにいるのは知っていますよ、という意味を込めて。もう男はなぜそれを知っているのかも訊いてこない。
「そうかぁ、でもお迎えは違う人に頼んでるんだよ」
本家の人と金がお迎えだ。とすれば、まだ麗華は無事だ。金を受け取っていないのなら、麗華を傷つけることはない。心以外。
「君はお呼びじゃねぇ。でもその制服、あのお嬢様と一緒だねぇ?」
お嬢様学校イコール金持ちの娘と勘違いしているのだろう、餌が増えたとでも言いたいように、人をじろじろと見てくる。
「お迎えを増やすことにするか」
男がくいっと顎を持ち上げて無言の指示をした瞬間、他の男たちが向かいかかってきた。ゆっくり、ゆっくり。やはりそうくるか。
「止まりなさい」
ぴくっと体が男たちの体が震える。わたしもお嬢様学校と呼ばれるそこに、麗華と同じ学園に通っている生徒。麗華が発するほどではないが、強い気を出せ。あいつらが怯むくらいに。
だがまだ止まらない。
「止まりなさい」
とびかかるために持ち上げていた腕がだらりと垂れた。
「なにをしている!」
外にいる男たちのなかでは頭らしき男の声も、届いていない。
「みなさん」
向かってきた男たちに向けて、声をかけた。
「おやすみなさい」
どさどさ、と彼らが崩れ落ちた。
おつかれさまです。お迎えにはわたしが行きますので。
「あなたは」
なにしていると怒鳴った男に目を合わせる。
「そこでお待ちください」
用意してあったガムテープに縄、タオル。あらゆるものを駆使して、倒れた男たちを動けないようにする。靴を脱がせ、ズボンも半分脱がせて先を縛る。通信機がないことを確認し、さあ出入口へ。
「そこに通してください」
そことは、麗華がいる場所の入り口。待つよう言っておいた頭に伝えると、モールス信号のような叩き方をした。これが仲間の合図か。それとも、金が届いたことを伝えるものか。どちらにせよ、寝かさなくて正解だった。
叩き方にはやはり意味があったようで、扉はすぐに開けられた。取引相手が来たとでも思ったのだろうか。だが来たのは仲間の男で、後ろには麗華と同じ制服の高校生。
どうした、なにがあった、と扉から半身を出して外の男たちに声をかけているが、その男たちは動かない。開いた扉の隙間から、今度こそ誘拐犯グループの頭らしき男が見えた。
「そこに通してください」
もう一度聞こえるように伝える。
「通すわけ」
「通しなさい」
きぃ、とドアが開く。出していた半身を中へ戻す男。
「ありがとうございます、あなたもおやすみなさい」
スプレーをしっかり振りまくと、外の頭らしき男と扉を開けた男が倒れた。
大きくドアを開く。仲間が倒れても、誰も心配するそぶりすら見せない。女子高生一人なんてどうにでもなると思っている。ここは広い。古めかしい機械が置いてあるが、吹き抜けになっていて視界は広い。埃臭く、土もたくさん。これまたドラム缶に腰掛ける男たちは、本物の誘拐犯でグループのなかでは地位が高いやつらだろう。ひとりだけちゃんとした椅子、といってもパイプ椅子だが、それに座るサングラスの男が、さっき見えたボスだとわかる。
そして奥には、柱に手首を縛られ、足首は柱から離れているが縄で拘束され、猿轡をされた麗華がいた。涙を流すこともなく、強い光の宿った瞳で、沈みゆく太陽の光を浴び、逆光で見えない吹の顔を判別できずに、睨みつけてくる。
「お迎えにまいりました」
そう伝えると、強かった眼光がほんの少し、揺れる。
逆に悪者たちの視線が一気にこちらへ向いた。何も言わないが、なぜここへ入ってこられたのかを問うことはない。なにかあったことだけは理解している。そして今の吹の言葉で、一瞬で敵とみなしたのがわかる。今更遅いのでは、とこちらが問いたいところだ。
「嬢ちゃん、あんたみてぇのがなんでここにいる」
パイプ椅子に腰かけたままのボスが問いかけて、他の男が交戦態勢に変更される。
「麗華様、ご無事ですね」
傷は見当たらない。縄を外した時にその跡はついてしまうだろうが、乱暴を受けた様子はない。
「すぐにお助けします」
「おーい、勝手に話を進めないでくれるか」
自分そっちのけで麗華と会話する吹を、当然だが気持ちよく思わなかったらしい。吹はボスを一瞥する。
「わたしにとっての最優先は、麗華様のご無事ですので」
まわりの男たちが動こうとするのをボスが手振りで抑えた。よくしつけられている。
「外のやつらはどうした」
「おやすみになっています」
眠っているというのは伝わったのだろう。ちっと舌打ちして、使えねぇと吐き捨てた。どこかで聞いたセリフだ。考え方も同じらしく、
「こいつを捕らえろ」
興味なさそうに言うと、まわりの男たちがとびかかってきた。
「麗華様、運転手さんの娘さんもご無事です」
んん! と麗華が猿轡の向こうで叫ぶ。すっと麗華の顔を横から、両手で包んだ。
小さく振り返る。
「止まりなさい」
ぴしっと時間が停止した。それでもまだ動く相手に、もう一度。
「おやすみなさい」
子供を寝付けるつもりで。
するりと力が抜けた彼らは、そのまま目を閉じた。
麗華を包んでいた手を放す。え、と麗華が目を開いた。
「なにしやがるんだァ?」
怒気のこもった声が空間を震わせる。その声に麗華がびくりと震えた。ただ眠ってもらっただけ。吹は麗華が無事に帰れるのならばそれでいい。
「さきほどお伝えしました。麗華様を迎えに来た、と」
普通なら怯えて動けなくなるだろう状況のなか、冷静な態度をとり続ける吹に、ボスは苛立った。
「おまえは帰れると思うなよ!」
最初の男たちは金の対象として吹を追加しようとしていたが、このボスはそんなことは思っていない。取引にすら使うつもりはないのだ。麗華には身代金がついているだろうが、吹については要求すらしないでコンクリートで固めて海にでも沈める気かもしれない。
眠ってしまった仲間はもう加勢にはこられない。一人でボスがかかってくる。すぐにあれを取り出した。
わざわざ自分から近くへ来てくれたボスに、思い切りスプレーを吹きかける。
「ア?!」
一瞬の相手の隙は見逃してはならない。見逃すものか。スプレーの中身をたっぷり染み込ませたタオルを口に押し付けながら、今度は吹がとびかかる。
「動くな」
聞こえなかったのか、恰好悪くじたばたするボス。よく効いているのか動きは想像よりは大きくなく、体格の差は大きいのに乗りかかった吹を振り落とすことはできずにいる。一生懸命タオルを口に押し付ける。タオルは薄いわけではなかった。
びりっ
押し付けていた手に痛みが走る。齧られたのだ。本来なら脊髄がすぐに手を引けと勝手に命令しているはずなのに、歯は吹の手を摑まえて離さない。早く、早く効け。
だんだんと相手の力が抜けてくるのがわかる。我慢すれば、このボスもおやすみだ。
暗く、埃の舞う空間から、音が消えた。
やっと聞こえたのは、麗華の小さな息。
「麗華様、早くその縄を外して差し上げたいのですが、この方たちが起きる前に縛っておきたいのです。お許しください」
麗華を解放している間に男たちが起きて、また襲ってきたら困る。行動の優先順位は男の捕縛だ。麗華はうんうんと首を縦に振る。
それを見て、吹はカバンから縄とガムテープを取り出してすぐに動いた。
まずはボスから。外の男と同様、靴を脱がす。ズボンを半分脱がして先を縛る。柱や土管に近い男はそこへ縄とロープで縛りつける。通信機がないか体中を触って確かめる。口にはガムテープ。はしたないと思われてもどうでもいい。そんなことを気にしていられる状況ではないのだ。
たぶん大丈夫と思ったところで、麗華の猿轡と縄を解いた。ゆっくりと水を飲ませる。
「乱暴をされていませんか」
「ええ、捕まっていただけ」
「率直にお尋ねします。性的暴行を受けていませんか」
麗華は顔をしかめた。麗華は美人で体つきも女性としての魅力に溢れている。無事に返すとはいえ、そういったことをしないという確証などないのだ。
「なにもされていないわ」
目を逸らすところから察するに、なにもされていないがそういった目で見られたり言われたりしたのだろう。トラウマにならないことを祈るしかない。
「学校に連絡しました。その前に運転手さんが迎えに来るかもしれません」
あの女の子はとても賢かった。実は連絡したのは吹ではない。どっちが先かはわからないが、助けは必ずくる。
「よかった、あの子が無事で」
お嬢様なのに、あの子のことを優先する麗華。お嬢様イコール自分本位という偏見が消えていなかった吹は、反省する。
「麗華様」
「なに」
「もう、泣いてもいいんですよ」
え、と口が半分開く。
麗華は、弱いところを見せないよう育てられたと聞いている。人前で涙を流すなどしないのだろう。ずっと強い目をしていたのも、相手を牽制するためだけでなく、自分にいいつけていたのだ。
「怖いときも、安心したときも、泣いていいんですよ」
ゆっくり麗華を抱き寄せる。いつもふんわりしている髪が今は台無しだ。それでもきれいな髪が、麗華の顔を隠す。
ぽんぽん、と頭の後ろを撫でる。しばらくすると嗚咽が漏れ始め、鳴き声が聞こえてきた。ずっと、優しく抱きしめる。彼女の冷たさをなくせるように。温かさがなくならないように。




