1.
温かな光が、どこからか噴き出し流れてくる湯煙を、幻想的に色づけている。
黄色、橙色、桜色…… 舞台を照らすような暖色が続いたかと思えば、深緑色、藍色、紫色と、夜に溶ける暗くも艶やかな色が辺りを染めていく。
ふぅ、と口から洩れる白い吐息は、寒さからか、それとも幻想的な光景への感嘆か。どちらにせよ、それさえも湯煙と一緒に光に染まって消えていく、美しい夜。
そんな光景と、あるはずの静けさを、興奮した声がまた異なる意味で、染めていった。
きゃー! きれーい
すごーい、すてきぃ!
やば! 写真撮ろ!
普段は聞くことのないだろう言葉遣いも聞こえてくる。引率の先生たちも、今ばかりは黙認のようだ。もの寂しく感じてもおかしくない古い建物が立ち並ぶ場所に、自然と人工により作られた美しい景色を見せられてしまったら、誰もが興奮するに違いない。
そのうえ夏に差し掛かるこの季節。六月中旬の修学旅行、学園の一大イベントの真っ最中となれば、なおさら。学園から離れ、非日常を味わえる短い期間となれば、ほんの少し“素”が出てしまっても仕方のないことだ。吹もあの声の主たちと同じように、心が沸き立っている。とはいえ吹とすると、静かにこの景色に見惚れていたかった。
団体としてまとまっていた生徒たちが、それぞれ仲の良い友人たちと、誰かに指示されることもなく分かれていく。吹は同じクラスの生徒になんとなく距離をとりながらもついていった。
「あのお宿、温泉が有名なんだって!」
「そりゃ温泉地なんだから、有名で当たり前じゃん」
「そうじゃなくって!」
砕けた口調の会話が続いていく。静かに景色を見ていたいところだが、そこそこ距離が近いうえ、高い声もあり、どうしても耳に入ってきてしまう会話。
「普通の温泉の他に、混浴もあるんだってよ!」
「えっ?!」
「な、なんてこと?!」
「行ってみたくない?」
そう、宿泊先の宿には、男女それぞれに分かれた大浴場だけでなく、混浴もある。なお、空いていれば誰もが使える個別の貸切温泉は、現在観光を楽しんでいる生徒がそれぞれのグループで好きに使ってしまうと他の宿泊客に迷惑がかかるため、使用禁止となっている。
混浴があるのを知らなかった人がいるんだ。
どこへ行っても施設内を案内、説明してもらうのが当たり前の生徒が多い。こんな会話があるのも仕方ないのかもしれない。
「は、は、裸で、と、殿方と同じ浴槽になんて……。は、恥ずかしいですわ!」
「いやいや、お互いに湯着を着て入るんですよ」
「さすがにすっぽんぽんはないって」
六月中旬とはいえ、温泉の湧き出る場所は標高が高い。肌寒いはずなのに、生徒たちの会話には熱がこもっていて、寒さなど気にならないようだ。
湯着とは、宿泊先の宿で混浴を使う際に貸してもらう、温泉用の浴衣のようなもの。
いくらなんでも裸のはずないでしょ、と最後の一人にも付け加えられ、安心した表情になる慌てていた生徒。ということは、混浴に興味があるのか。そういうお年頃だ。
としても、意外。
通うのは少し変わった高校ではあるが、生徒はみな、年相応の中身をしている。だからこそ、この幻想的な風景に興奮し、スマートフォンで写真を撮り、高い声で会話をしている。
実は吹も、混浴には興味があった。彼女たちと異なり、男性とともに湯に浸かることに興味があるのではない。混浴の浴槽は露天風呂のみで、外からの視線を避けるために高いところに設置されている。そこから見渡すことのできる、今いる場所の景色。近くに感じられる空。星。それらが美しいことで有名なのだ。混浴とはいえ湯に浸かったら、鎖骨から上だけが見えるくらいになる背の低い岩で柵が作られていて、同じ湯ではあるが男性側と女性側で行き来ができないようになっている。だからこそ先生たちも、混浴の使用を禁止していないと推測できる。
「行ってみようよ!」
「み、みなさんと一緒なら……」
もごもごとしながらも前向きな返事が聞こえる。彼女が行くのなら、このグループは全員行くだろう。
「お風呂にいる人がイケメンだといいな!」
「こういうところってご老人とかおっさんが多いイメージだけど」
「ちょっとぉ、夢くらい見させてよね」
楽しそうに会話をしながら歩いているこのグループ。少し後ろを歩いていると、湯煙にまぎれていい香りが漂ってきた。鼻腔をくすぐる。胃がくすりと動いた気がした。夕食を済ませた後にもかかわらず、食べたいと別腹が訴えてくる。
「ねぇ、焼き鳥あるよ!」
「温泉饅頭も!」
「プリンだって!」
たくさんの店のなかには、観光地らしく食べ物や土産屋が多い。景色を邪魔しない程度にのぼりや看板が出ていて、選ぶのが難しいほどだ。
「ちょっと待って、どうやっていただくの?」
戸惑う生徒もいた。観光地は露店がほとんどで、休憩のために設置されたベンチは人で埋まっている。
「食べ歩きですよ!」
「食べ歩き?」
「旅の醍醐味といえます」
「行きましょう!」
「え、え?」と理解できない生徒を引っ張って、速足で露店が並ぶ方向へ進んでいく彼女たち。きっといい思い出になる。湯煙と同じくらい、ほんわかした気持ちになった。
さあ、ここでお別れだ。
ここで、吹はかろうじてくっつけていた糸をするりと解いた。もともと一緒にいると認識されていたわけではない。離れたところで誰も気に留めない。
ふと、ひとつの香りが吹を呼んだ。甘く香ばしいそれに導かれ、ひとつのお店に辿り着く。
「いらっしゃい」
恰幅の良い店員の女性が、元気ながらも柔らかく声をかけてくれた。頭を小さく下げることで返事の代わりをする。
「みたらし団子とよもぎ団子を一本ずつお願いします」
「はいよ」
視覚で香りのもとを確認した時点で、購入は決定していた。景色を見たいと思っていたのは嘘ではないが、今の目的は食べ物になってしまった。静かに景色を眺めるのは後。これを花より団子というのだろう。
最初はみたらし団子一本だけにしようと思っていたのに、よもぎの葉の自然な色とたっぷり乗せられた餡子につい、目も食欲も奪われてしまった。
会計を済ませ、プラスチックのパックが入れられたビニール袋を受け取り、今すぐにでも食べたい衝動を抑えながらある場所へ向かう。
早く食べたい。
わらわらと人が群がっていたのに、願いは通じ道が通りやすくなっていく。だんだんとすれ違うその数が減っていく。いつの間にか誰もいなくなっている。見えているのは、空の上にきらめく星だけ。贅沢だ。静かに見ていたいと思ったことが現実になっている。
温泉街の端に、小さな河原がある。そこはライトアップこそされていないが、明かりは灯っていて、夜でも歩けるということを事前に調べてあった。さっき会話をしていた生徒たちとは違い、リサーチはしっかりしてある一般人の吹。メインの場所に比べて明かりも少ないため、星も見えやすいという情報も仕入れておいた。
実際に行ってみると、大きさはばらばらな砂利が足元を覆っていて、滑ったり躓いたりしなければ問題なく歩ける場所だ。点々と立ち並ぶ電灯は明るすぎず少し暗い。灯篭のような暖色を放ち、流れる川を湯煙のライトアップとは違った意味で、河原を美しく演出している。岩にぶつかりながら流れる水のちろちろという音が、心を安らげてくれた。さっきまでの喧騒が嘘のようだ。
電灯と電灯の間に、いくつかベンチが設置されている。昼間にここへ来る人も多いはずだ。そのためのものだろう。吹はそのなかからひとつ、歩いてきた道に背を向けられるものを選んで腰をかけた。やっと休めた気がした。音と光と景色。そして香り。
購入した団子の袋を開けると、ふわりと甘い香りが鼻をくすぐった。早く食べたい。また思った。
プラスチック製のパックから輪ゴムを外し蓋を開けると、甘い香りが漂った。まずはみたらし団子の串を手に取る。たっぷりとたれをつけて、
ぱく
ちょうどひと口サイズの団子の大きさが嬉しい。もっちりとした触感に、とろみを帯びたたれがよくからまって、口のなかで転がる。甘いだけでなく、少し焦げ目をつけている団子には香ばしさがあって、バランスがなんとも素晴らしい。噛んだときのぎゅっとした弾力も、食べているという実感を与えてくれる。うーん、と頬をおさえながら目を細める。ここは薄暗いからわかりにくいが、露店で見たときは紅茶のような透明感のある茶色だったたれ。今はてらてらと街灯に照らされて鈍く光っている。
おいひぃ。
ゆっくりと噛んでいただく。喉に詰まらせるのを予防するというより、よく味わうためだ。もったいないことに、みたらし団子は気づくとなくなっていた。四つの玉をいつの間に食べ終えてしまったのか。
では次。よもぎ団子だ。
ぱくり
露店で見て買うと即決したこちら。よもぎの香りがよくたっているのに、上に乗っているつぶあんの味を邪魔しない。餡子はねっとりとした人工的な舌触りではなく、煮詰めてできあがる自然な触感なのがまたいい。よもぎが入っているからか、みたらし団子とは異なる噛みごたえだ。春もそろそろ終わるこの季節、食べられて嬉しい食材だ。竹串は、滑り落ちにくくしているのだろう、みたらしのものより一回り太くなっている。つぶあんが乗っている分重いからだろうか。作った人から食べる人への心遣いがよくわかる。うーん、こちらもおいしい。
悔しくもパックに残ってしまったつぶあんを、残らず器用に竹串ですくいとる。こんなことをしていたら、同級生はきっと厭らしいと思うのだろう。しかし今はこの世界を独り占め。なんとこの景色も音も素敵な空間も、おいしいものと一緒に独占している。なんて幸せだろう。
ふぅん、と満足な声が自然に漏れる。目を開くと、そこには星が瞬いていた。
ごちそうさまでしたと手を合わせてパックを袋へしまった。これはお宿に持ち帰ろう。
ふぉ、
少し強く風が吹いた。さっきより冷えていることに、食べ終えてやっと気がついた。いくら夏に差し掛かっているとはいえ、夜は冷える。特にここは、温泉が湧くような標高の高い場所。さらに腰掛けるここは水辺だ。浴衣はお好きなものをお選びください、と言われて喜ぶ生徒につられ、つい自分も宿の浴衣から共同ではないものを選んでしまった。紺色の地に白い朝顔が染め抜かれている。夏の仕様のものだったのかもしれない、少し薄手の生地。腕をさすりながら、丹前を持ってこなかったのを反省する。
ひゅぅ、
また、風が吹いた。
白い光が舞った。
……雪?
いや、吹越だ。どこかで積もった雪が、風に飛ばされてきたのだ。
わぁ、きれい。
夜色のなかに、星ではないものが、ちらちらと光りながら過ぎていく。
寒さも忘れてゆっくり見ていた。時間が過ぎるのが遅くなっている。ライトアップのところでは落ち着いて景色を楽しむことができなかった。
……~~
ちらちらと舞う雪を歌詞にした曲が、口から小さく洩れていく。音痴なのは自覚している。でもここは誰もいない。恥ずかしいことはなにもない。
~~
息は白い煙となって、吹かれて届いた雪と一緒にどこかへと運ばれていく。どこかで溶けて、一緒にこの空気に馴染んでいくのだろう。
~~
わたしはここで、この光景の一部になっているんだな。
~~……
掠れるくらいの小さな声が、止まる。ふぅ~、と胸を押さえる。今更恥ずかしくなり、念のためあたりを見回した。
??!!
人が、立っていた。
電灯の下に。
ただ立っているだけ。
電灯の光を、まるでスポットライトのように浴びながら。
きらきらと、吹越の雪がほんのり光る。
辺りは暗いのに、そこだけ世界が明るい。
ひゅぅ、
また風が吹いて、いくつもの風花が飛んでくる。
光の粉が彼の身体を包み、きらきらと光る。
体が冷えると同時に、熱くなった。いつからいたの?
「あ、あ……」
声にならない声を、どうにか振り絞る。
「き、聞いてましたか……?」
いつからいたか、と詳しく尋ねたほうがよかったかもしれない。しかし、音痴のうえ掠れた声の歌を聞かれているかいないかを確認するほうが大切だった。懸命に尋ねすぎたかもしれない。
しばらく沈黙が走った。知らない人間にいきなり挨拶以外の声をかけられて、返事をする人はそう多くはないのだろうか。
「いえ、聞いてません」
低い声が、否定の返事を出した。でも。
聞いてたんじゃん!
尋ねる言葉選びを誤ったのはあるが、“何を”を確認してこないということは、歌を聴いていた証拠だ。
両手で顔を覆う。恥ずかしすぎて、顔を上げられない。
人がいるとわかっていたら、口遊むなんてことしなかったのに。
あれ、そういえば人の気配、したっけな。
「聞いてませんので」
安心して、とその人は言いたいのだろうが、その言葉はさらに吹の心をぎゅっと小さくさせる。あまり聞いていないことを強調しないでほしい。感情が羞恥心に占領されていく。
「そうです、か……」
一応こちらのことを慮ってくれたと思われる返事をくれたこの方の言葉を無視するわけにもいかず、相槌のような台詞を返してしまう。
その人はその場から動かない。どこか気まずくて、腕時計を見る。自由時間も終わりに近づいている。この場を立ってもおかしくはないはずだ。
柔らかさを感じていたこの景色と音が、急に無機質に感じた。時折吹く冷たい風も、今の心境も、両方が影響しているのだろう。
ごみを落としてはいないかベンチと足元を確認し、立ち上がろうとしたとき、肩にやわらかな重みが乗っかった。
「?」
「冷えるぞ」
さっきと同じ、低い声。怖いとは思わなかった。ハスキーボイスというのはこれをいうのだろうか。
短い言葉に、あたたかさを感じる。
肩に乗っかったのは、茶羽織か丹前か、浴衣の上に羽織るものだった。
「ここは暗いし足元も悪い。下駄なんだ。気を付けて帰れ」
言い残す言葉は、今まで交わしたなかで一番長い。
「あ、ありがとうございます」
そうだ、自分は寒くないの?
尋ねる前にその人の背中はすでに小さくなっていた。
優しい人だ。
でも、この羽織、どうやって返そう。あれ、これ……
見覚えがある。これは、今日の宿泊先の宿の、共同の丹前だ。
ということは、また会える。
吹越がまた、帰る方向へちらちらと流れていく。もう、寒いとは思わなかった。
あけましておめでとうございます。
憧れていた、現代の、青春と学校の物語です。
よろしければ、おつきあいくださいませ。