9・転生ものぐさ王女、伝説の真実を知る
「いにしえの盟約でございますよ」
異形――レシェフモートはガートルードの食いつきぶりに少々面食らったようだったが、歌うような口調で話し出した。
かつて彼が女神シルヴァーナと交わしたという、盟約について。
レシェフモートは元々、このあたり一帯を統べる魔獣の王の一柱だった。あまたの力ある魔獣を従え、無視できないほど大きな勢力を持つにいたった魔獣を人間は便宜的に王と呼んでいる。
当時、レシェフモートは人々に『北の王』と畏怖される存在だった。その咆哮は勇猛果敢な騎士をも震え上がらせ、その爪牙は鋼もたやすく切り裂き、その魔力で操る冷気は一国の領土すら凍りつかせるとささやかれるほどの。
だがレシェフモート自身はかしずく魔獣どもに優越感を抱くでもなく、常に満たされない飢えにさいなまれていた。なぜ、何に飢えているのかもわからない。
その正体が判明したのは、女神シルヴァーナに遭遇した瞬間だった。天上より舞い降りた女神シルヴァーナは小さな胸を尊大に張り、レシェフモートに命じたのだ。
『お前、わたくしの乙女のために配下を皆殺しにしなさい』
ドン引き発言である。ガートルードも引いた。というか女神シルヴァーナは幼女神だったのか。
しかし同時に嫌な予感を覚えた。『わたくしの乙女』って、もしかして。
ガートルードなら教育的指導(物理)を行うところだが、レシェフモートは喜んで女神シルヴァーナの命令に従った。その爪牙と魔力でついさっきまで己を王と慕っていた魔獣を屠り、殲滅したのだ。
なぜならレシェフモートは理解したから。己の飢えの原因を。
「……私は、従えるのではなく従いたかったのです」
ガートルードを抱くレシェフモートの瞳に、陶酔の色が混じる。
「高貴で尊大で、それでいて小さく幼く、私の中にすっかり囲い込んでしまえる。そんな美しい方に従い、かしずき、この心身のすべてでお世話し尽くしたい。そう願っていたのです」
王の身では決して叶わぬ願いを、女神シルヴァーナは叶えてくれると約束した。女神の下僕とし、いくらでも世話をさせてやると。
その証として血も与えてくれた。魔獣でありながらレシェフモートが銀の色彩を持つのは、そのためだ。
だが女神シルヴァーナはレシェフモートが命令を遂行した後、レシェフモートを置いて神々の世界へ戻ってしまった。『わたくしの乙女』の魂だけを連れて。ねぎらいの言葉もかけずに。
それでもレシェフモートは待ち続けた。女神シルヴァーナが約束を守ってくれる日を。
待って待って待ち続けた。湧き出る魔獣どもを狩り、女神シルヴァーナが降臨した土地を守りながら。
そして三年前のある日、とうとうその瞬間は訪れた。
レシェフモートは懐かしくもかぐわしい女神シルヴァーナの匂いを嗅いだのだ。歓喜のあまり身を震わせれば、レシェフモートの支配を受け、彼の魔力になじみきった大地まで揺れ……それきり女神シルヴァーナの匂いは嗅ぎ取れなくなってしまった。
けれど、あの匂いは確かに女神シルヴァーナだった。レシェフモートは再び待ち続け……。
「……そうして今日、やっと貴方が来てくださった」
金色の双眸から涙がぼたぼたと落ちる。
「もう放しません、我が女神。捨て置かれた分まで、侍って尽くしてお世話します。愛らしいこの指一本動かすことも許しません。貴方が自らなすべきことなど、もはや一つもないのですから」
「待って、すごく魅力的だけど待って」
再び擦り寄せられそうになる頬を、ガートルードはぐいぐいと押しのけた。胸はドキドキと脈打っている。
(すごいことを、聞いちゃったのかもしれない)
レシェフモートの話を整理すると、おそらく女神シルヴァーナの言う『わたくしの乙女』はシルヴァーナ王国を建国した始まりの乙女のことだ。
伝承によれば始まりの乙女は、世継ぎとなる女子を何人か産んですぐ亡くなったという。魔獣退治に力を使いすぎたせいだとされているが。
(ひょっとして幼女女神が始まりの乙女を見初めて、魔獣を退ける力を与えて国まで造らせて、世継ぎが生まれたらさっさと魂を連れていった……?)
だとすればとんでもない執着である。女神の心を人間の物差しではかること自体無駄なのかもしれないが。
始まりの乙女も、もしかしたらいずれ魂を捧げることと引き換えに、女神シルヴァーナの血を授かったのかもしれない。だとすれば神々の世界へ連れていかれようと、乙女としては満足だろう。
哀れなのはレシェフモートだ。
たぶん彼は女神シルヴァーナに利用された。乙女が退治すべき魔獣を減らすために。あるいは女神すら脅威を覚えるほど、レシェフモートは強力な魔獣だったのか。
真相はわからないが、女神シルヴァーナは最初からレシェフモートを利用するだけして、約束を守るつもりなどなかったのだろう。愛する始まりの乙女さえ手に入れば、あとは人間の世界がどうなろうと知ったことではなかったのだ。
慈悲深く正義の心強き女神、と信仰されるシルヴァーナのイメージががらがらと崩れていく。
(三年前って、たぶんガートルードが……わたしが入る前のガートルードと両親が、シルヴァーナ神殿に詣でた時のことよね)
予期せぬ地震が起き、ガートルードたちの乗っていた馬車は崖に転落した。あれはきっと天災ではなく、レシェフモートによるものだったのだ。
だとしたら、レシェフモートが嗅いだ女神シルヴァーナの匂いの源は……ガートルード?
「我が女神、我が女神、ああ、我が愛しの女神シルヴァーナ様」
「ねえ、レシェ……レシェフモート」
「……!!」
やっと治まったと思った涙が、今度は倍になってあふれた。
「シルヴァーナ様が……、私を、初めて呼んでくださった……」
「え? 名前を呼ばれたこと、ないの?」
「シルヴァーナ様はいつも私を『おいクズ』や『そこの変態』とお呼びだったではありませんか」
(ふ、……不憫んんん!)
きょとんと問い返され、ガートルードの胸はずきずきと痛んだ。とんだ極道女神もいたものである。そんな女神の血が流れていると思うと、いたたまれなくてたまらなくなる。
「あのね、レシェフモート。貴方はわたしを女神シルヴァーナ様だと思ってるみたいだけど、ちがうのよ」
「ちが、う?」
「そう。わたしはシルヴァーナ様の言う『わたくしの乙女』の子孫だから」
レシェフモートにとっては女神に愛された憎い女の子孫である。そうと知られれば八つ裂きにされるかもしれないが、あとになってばれる方が怖い。
「乙女の……子孫……」
「貴方の嗅いだシルヴァーナ様の匂いは、この身体に流れるシルヴァーナ様の血の匂いだと思うわ。だから……」
――女神シルヴァーナは、貴方との約束を守らなかった。
そう告げることはできなかった。美貌を絶望に染めゆくレシェフモートには。
「そんな……、でも、でも私は、今度こそ、シルヴァーナ様が戻られたと思って……」
「……」
「なぜ……、なぜなのですか? なぜ貴方は乙女ばかりを愛でて、私を、厭われるのですか?」
嘆くレシェフモートからは、乙女や女神にはともかく、ガートルードに対する憎しみまでは感じない。坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、というタイプではないようだ。
良かった、とガートルードは胸を撫で下ろす。
(交渉の余地は、ありそうね)
「レシェフモート。わたしは乙女の子孫だけど、それでももし貴方が女神シルヴァーナ様と同じようにお世話したいと望むのなら、喜んでお世話されたいと思っているわ」
「……っ!?」
がばり、とレシェフモートが顔を上げる。そこににじむのは戸惑いと、隠しきれない歓喜だ。
「ほ、本当、ですか?」
「うん、本当本当」
「御身を包むものすべて、三度のお食事におやつにいたるまで何もかもこの手でお作りし、日がな一日この腕の中から放さず、あらゆるお世話をさせて頂けるのですか!?」
(あー、こういうとこかー)
ガートルードはちょっとだけ女神シルヴァーナの気持ちがわかった。前世のガートルードと違い、女神として大切に育てられたシルヴァーナには、レシェフモートのこういうお世話欲が暴走しがちなところがうっとうしくてたまらなかったのだろう。
『始まりの乙女』を寵愛したあたり、お世話されるよりしたいタイプかもしれない。だとすればレシェフモートとは最悪の組み合わせだ。
でもガートルードは、女神シルヴァーナとは違う。
前世の反動で、お世話してくれるのならどこまでもされたいし、食っちゃ寝ライフを極めたいと願っている。他人の世話は前世でじゅうぶんすぎるほどしたはずだから。
「いいわよ」
「……っ……!」
即答するや、レシェフモートは四対の蜘蛛脚をカサカサとうごめかせ、美貌を歓喜に輝かせた。虫がダメな人は卒倒ものの光景だが、十二人分の汚物を処理してきたガートルードが今さらこの程度で怯むことはない。
「ただし、わたしには色々事情があるの。それを全部受け入れられるのならば、だけど」
「事情?」
「ええ。実はね――」
ガートルードは説明した。櫻井佳那であった前世から、ガートルードに転生して起きたすべてを。
前世については伏せておくこともできたが、女神の血を与えられたレシェフモートには違和感を察知されるかもしれないし、ずっとそばに置いていれば、六歳女児にそぐわぬ言動を怪しまれる危険性が高い。
「……罰を与えなければ」
だんだん美貌を凍りつかせていったレシェフモートは、ガートルードが話し終えたとたん、全身に殺気をまとわせる。
「ば、罰? 誰に?」
「決まっているでしょう。まんまと孕んで義務を逃れたあばずれ、人の人生を食い潰さなければ生きられない身で皇子などと名乗るクソガキ、貴方をクソガキの生け贄に求めた皇帝夫妻、貴方を捧げたシルヴァーナの女王、それに前世の貴方を奴隷のごとく扱った両親ときょうだいどもです」
ガートルードはぽかんとしてしまった。
ヴォルフラムや皇帝夫妻、姉女王やフローラたちはまだわかる。でも前世の両親やきょうだいがなぜ抹殺リストに加わるのだろう?
レシェフモートの双眸が哀切にすがめられる。
「冷水を浴び続けた肌に再び冷水をかけても、冷たさを感じないでしょう?」
「え、……ええ」
「貴方も同じような状態なのですよ。前世の両親やきょうだいからよってたかって冷水を浴びせられ、何も感じられなくされてしまった」