8・転生ものぐさ王女、異形の獣に出逢う
少しですが、汚物の表現があります。
馬車の揺れに身を任せながら、ガートルードは夢を見ていた。前世――櫻井佳那と呼ばれていたころの夢だ。
自宅では家事から育児まですべてを任されていた佳那が、唯一休めるのが学校だった。
もちろん授業を受けなければならないが、子どもの泣き声が聞こえず『姉ちゃん、姉ちゃん、姉ちゃん』と呼び続けまとわりついてくる子もおらず、もろもろの雑用から解放される時間は天国のようだった。
帰宅すれば『どうしてアタシがガキの面倒なんか見なきゃならないのよ!』と母に激昂され、溜まりに溜まった家事や小さな弟妹のお世話に追われ続けるとしても。
中学生のころ、佳那のクラスには『完璧くん』がいた。もちろんあだ名だ。佳那の記憶は少しずつぼやけていっているので、本名は覚えていない。
完璧くんは、とにかく完璧だった。
父親は大病院の院長、母親は弁護士、兄はアメリカの有名大学に留学中とかで、低層階でも億以上すると噂の駅前のタワマンの最上階に住んでいる。
本人も登下校のたびスカウトに絡まれるアイドル顔負けのビジュアルに両親譲りの優秀な頭脳、ついでに運動神経も抜群という、少女漫画でも最近はそこまでやらないだろうと突っ込みたくなるパーフェクトぶりだ。
そんな完璧くんは女子にもてまくっても浮かれるでもなく、男子の輪に入るでもなく、常に孤高を保っていた。
男子はたぶんやっかみ半分、どう扱っていいのかわからないのが半分で遠巻きにしていたのだと思う。
貧乏な大家族の長女の佳那とは住む世界の違う人だったが、一度だけ、佳那は完璧くんと関わったことがあった。
あれはたぶん、三年生の夏。高校には行かせてもらえず、来年からずっと家で家事と育児に専念するよう両親に告げられたころだった。
放課後、長引いた進路指導がやっと終わって戻ると、がらんとした教室に完璧くんが立ち尽くしていた。机には吐瀉物が撒き散らされ、すえた臭いがかすかに漂う。どうやら昼食を吐き戻してしまい、驚愕と羞恥でぼうぜんとしているらしい。
ふだんの完璧くんの面影はなく、生まれたばかりの妹よりも幼く頼りなく見えた。
(まあ、完璧くんはこんなの処理なんてしたことないか)
物心ついてからずっと小さな弟妹のお世話に明け暮れている佳那は、汚物の処理なんて慣れっこだ。もはや染みついた動きでウェットティッシュを取り出し、飛び散った吐瀉物を拭き取っていく。
『口の周り、拭いた方がいいよ』
あらかた処理を終えた佳那がティッシュを差し出すと、硬直していた完璧くんはおずおずと受け取った。ぎこちない手つきにもどかしくなるが、同級生にこんなところを見られた挙げ句、世話まで焼かれたらいたたまれなくなるだろう。
『……櫻井さんは、どうしてこんな汚いものに触れるの?』
質問の内容よりも、完璧くんが自分の名前を知っていたことに驚いた。完璧くんから見れば佳那なんて、道ばたの雑草みたいなものだろうに。
『汚くなんかない……わけじゃないけど、誰のお腹の中にだって入ってるんだよ。栄養になってくれるのに、汚いなんて言ったらダメでしょ』
佳那はいたってまじめに答えたつもりだったが、完璧くんは色素の薄い瞳を見開いた。
『どうして吐いたのかとか、何があったのかとか、聞かないの?』
『入ったんだから出ることだってあるよ。理由なんて聞いても意味なくない?』
赤子と幼児は何の理由も前触れもなく吐く。何なら漏らす。どうして、なんて考えるだけ無駄である。
完璧くんは赤子でも幼児でもないけれど、十五年前は赤子だったのだからたまにはそんなこともあるだろう。
完璧くんは佳那の言葉を何度も噛み締めるようにまばたきをし、ウェットティッシュで汚れた口を拭くと、ぽつりとつぶやいた。
『……ありがとう』
たったそれだけの記憶が佳那の頭の片隅に残り続けていたのは、完璧くんが翌日から学校に出てこなくなってしまったせいか。
まさか吐いた現場を同級生に見られたのがショックで不登校か、と佳那は慌てたのだが、家の事情で急きょ引っ越しが決まったのだと後に聞いた。せめて別れを惜しみたかった、と嘆くクラスメイトたちには、完璧くんと最後に会ったのはたぶん自分だとは言えなかった。
完璧くんが醜態をさらしたのは、突然の引っ越しが吐くほどつらかったからなのだろうか。
放課後遅くまで残っていたのは学校との名残を惜しむためだったのだとすれば、最後に会ったクラスメイトが佳那なんかで申し訳なかった。
小さな罪悪感は、中学を卒業し、本格的に家事と育児に追われる日々に突入してすぐ消え去ってしまった。
以来、一度も思い出すことはなかったはずなのだが……。
「……何で、今さら?」
香り高い紅茶をすすりながら、ガートルードはこてんと首を傾げた。昼寝から目覚めてすぐ、エルマが淹れてくれたものだ。
お茶請けはサクサクホロホロとした分厚いビスケット。前世でいうところのショートブレッドだろう。たっぷり使われたバターと砂糖が帝国の財力を窺わせる。
「姫君、大丈夫ですか? お顔の色が悪いようですが」
エルマが心配そうに問いかけてくるのは何度目だろう。さすがにちょっとうっとうしくなってくるが、いい加減な返事をすれば行列を止めての休憩に入りそうなので気が抜けない。
「本当に大丈夫よ、エルマ。なつかしい人の夢を見て、驚いていただけだから」
「なつかしい人……、ですか?」
「ええ……その、……お父様と、お母様の夢を」
事実を告げるわけにもいかず、適当な答えを口にした時だった。なめらかに進んでいた馬車が、がくんと大きく震動したのは。
「姫君!」
床に投げ出されそうになったガートルードを、エルマがさすがの反射神経で受け止め、そのまま腕の中に庇う。
「な……っ、何だあれは!?」
「魔獣……? 大きいぞ!」
外から聞こえてくる騎士たちのざわめきにガートルードもエルマもはっとする。今日は夕暮れまで進んだらシルヴァーナ神殿で参拝も兼ねて宿を取ると聞いていたから、まだシルヴァーナの国内を出てはいないはずだ。
破邪の力を持つ女王や王女たちの存在により、シルヴァーナ国内に魔獣は近づけない。何よりここには直系王族たるガートルードがいるのに。
「放して、エルマ」
命じたのは、呼ばれたような気がしたからだ。何かに……そう、馬車の外で騎士たちを震え上がらせているモノに。
「っ、いけません姫君! 外は危険です!」
「危険だから、わたしが行くのです」
たぶんガートルードを呼んでいるモノは、騎士たちでは敵わない。挑みかかればたやすく蹴散らされてしまうだろう。
そんなのはダメだ。彼らにはガートルードを安住の地へ連れて行くという大切な役目がある。
「エルマ……これは命令です」
食っちゃ寝ライフ、逃してなるものか。
その一念で命じれば、エルマの腕が緩んだ。皇帝がくれた聖ブリュンヒルデ勲章のご利益は抜群だ。
内心ほくそ笑みながら、ガートルードは馬車の扉を押し開ける。
「なに、あれ……」
馬車の行く手をさえぎるように、小山ほどはあろうかという狼らしきモノが立ちふさがっていた。
らしき、と表現したのは、狼の四肢は獣のそれではなく、ふわふわした毛に覆われた、細長い四対の脚だったからだ。たぶん蜘蛛だろう。
狼の身体に蜘蛛の脚。本能的な恐怖と嫌悪を催させる異形でありながら、ソレは銀色を……神々とゆかりある者しかまとえない色彩に包まれていた。ガートルードたちシルヴァーナ直系の王女が銀色の髪を持つのは、女神シルヴァーナの血によるものだ。
ソレの狼部分の被毛も、蜘蛛の脚も、ガートルードの髪と同じ銀色だった。
(なるほど。だから騎士たちは混乱しているのね)
常識から外れたサイズの生き物は魔獣と相場が決まっている。まがまがしい見た目に反し神の色彩をまとったソレは、たぶん魔獣ではない。
しかし、ならば何者なのかと問われても答えに窮する。そんなところだろう。
「……姫君! お出ましになってはいけません!」
ガートルードに気づいたリュディガーが馬を寄せてきた。
緑の瞳は緊張を帯び、油断なくソレを監視している。もしもソレがガートルードに敵意を向けようものなら、ためらいなく腰の長剣を抜くだろう。
「大丈夫です、フォルトナー卿」
ガートルードはスカートが広がらないよう押さえ、ひらりと馬車から飛び下りた。
「あの者が用があるのは、どうやらわたしのようですから。……そうでしょう?」
グッ、グッ、グオォォォォ!
ガートルードに見つめられ、ソレが巨大なあぎとから咆哮をほとばしらせた。
むせ返りそうなほどの歓喜を感じた瞬間、あたりが深い闇に閉ざされ、ガートルードとソレ以外のすべてが消え失せる。遠くに見えていたシルヴァーナ神殿も、馬車も、リュディガーも、騎士たちも。
(これ……神域?)
直感的にそう思った。神々や彼らに強い縁を持つ者は、許した者以外を通さない異次元空間――神域を展開することができるという。
ガートルードはソレの神域に招かれたのだろう。今ごろリュディガーたちは、こつぜんと消えたガートルードたちを大慌てで探し回っているはずだ。
「グッ、アア、あ、……さ、……マ、……さま……」
弾むような足取りでカサカサと近づいてくるソレの咆哮は、だんだん明瞭になっていく。獣から人間に変化しつつある声は低く蠱惑的な男のものだ。
「……る、ヴァーな、……さま……、シルヴァーナ、様……」
「……シルヴァーナ様?」
ガートルードが聞き返すと、ソレの金色の目がぎらんと輝いた。
苦悶に――いや、喜悦に震える上半身の輪郭がぐにゃりと崩れ、再構築されていく。元の狼ではなく、長い銀髪を腰まで伸ばした神々しい青年のそれへ。
(砂漠のハーレムで美男美女を侍らせまくってそう)
ガートルードはまっさきにそんな感想を抱いた。褐色の肌にアラビアンナイトを彷彿とさせる衣装がいかにもそれっぽい。
ザ・貴公子といったリュディガーとは正反対の路線の美男子だ。夜会にでも放てば男も女も入れ食い状態になりそうである。……下半身が蜘蛛のままでさえなければ。
「シルヴァーナ様、……ああ、シルヴァーナ様」
ゆったりとした袖に包まれた長い腕がガートルードを軽々と抱き上げた。擦り寄せられる褐色の頬は信じられないくらいなめらかできめ細かいけれど、堪能している場合ではない。
たぶんこの異形はガートルードを女神シルヴァーナと間違えている。ガートルードの身体に流れるシルヴァーナの血のせいだろうが、しっかり正しておかなければ後々とんでもないことに――。
「やっと約束を守ってくださったのですね。かくなる上はこのレシェフモート、決して御身を放しません。御身がどれほど厭われようともおそばに侍り、お世話し尽くしますとも」
「……今、なんて?」
ガートルードの食っちゃ寝センサーが鋭く反応した。