57・転生ものぐさ皇妃は祈る
『ましてや皇妃殿下は聖ブリュンヒルデ勲章を授かっておられる上、シルヴァーナ王国の王女殿下でもあられます。ご側室とは言え、皇帝陛下の伴侶であられることに変わりはございません。ならば皇妃殿下も、対魔騎士団の貴婦人たられる資格をお持ちかと』
確かにロッテはそう言った。ちゃんと覚えている。
けれどそれが現実になるなんて、誰が思おうか。
(だ、駄目よ、レシェ!)
混乱する頭で、ガートルードはまず殺気を撒き散らすレシェフモートに強い視線で釘を刺した。レシェフモートは不承不承ながらも全身に満ちていた魔力を引っ込めてくれたから、ひとまずは心配ない。
問題は――ジークフリートだ。
ジークフリートはガートルードを対魔騎士団の貴婦人と呼び、忠誠を捧げてしまった。よりにもよって、失態を演じたコンスタンツェの前で。
ジークフリートではなくコンスタンツェがタワシでコロッケを作り始めるかもしれない……のは、今はどうでもいい。
忠誠を捧げられた以上、ガートルードは貴婦人としてなんらかのリアクションを返さなければならないのだ。受け取るか、拒むか。
拒めばコンスタンツェは喜ぶかもしれないが、ジークフリートには『貴婦人に拒まれた騎士』という汚点を背負わせることになってしまう。
対魔騎士団所属の騎士や兵士たちの恨みも買うだろう。ただでさえジークフリートには、アンドレアスの側室というせいで良く思われてはいないのに。
実質的に、ガートルードに与えられたのは『受け取る』の選択肢のみ。
(……え、ええと、ええと)
ガートルードは今までに受けた淑女教育の知識を必死にさらった。
リュディガーに剣を捧げられた時は、リュディガー・フォルトナーという一騎士としてだったから、手の甲に口づけを許すだけでも良かった。だがジークフリートは対魔騎士団の団長として……ブライトクロイツ公爵子息として忠誠を誓っている。
(確かこういう場合、なにか身につけているものを渡すのよね。貴方を信頼します、って意味で。だったらええと、ええと……)
悩んだ末、ガートルードはヘッドドレスにあしらわれている白絹のリボンを一本ほどき、しゅるりと抜き取った。
よく見ればそれには銀糸で複雑な花の模様が刺繍されており、貴族でも下級貴族には手の出ない高級品だが、コンスタンツェが用意した聖コンスタンツェ勲章の価値には遠く及ばない。
だがガートルードが身につけた装飾品はジークフリートには小さすぎ、どれも入らないだろう。あいにくブローチのたぐいも今日はつけていない。
「ジークフリート・ブライトクロイツ」
精いっぱいの威厳をこめて呼ぶと、ガートルードの意図を察したジークフリートが左腕を差し出した。
周囲がごくりと息を呑む中、ガートルードは自分より一回り以上太い手首に白絹のリボンを結ぶ。緊張してうまくできるかどうか不安だったが、前世でさんざん弟妹たちの靴紐やら服やらを結んでやったおかげか、予想よりずっと綺麗な蝶々結びに仕上がった。
……強面の騎士団長に、白い蝶々結びのリボン。
正直なところ、ものすごく似合わない。似合わないけれど、妙な愛嬌と言うか、なんとも言えない可愛らしさらしきものが漂う。
「貴方と騎士団の皆さんが生きて帰ってきてくださったこと、ガートルードは心から嬉しく思います。……そして民を守るため、大切な命を散らされた方々の眠りが安らかであるよう祈ります」
一将功成りて万骨枯る、と前世では言った。一人の将の功名の陰には、戦場で果てた無数の兵士たちの骸が積み重ねられているのだ。きっとそれは、現世でも変わらない。
ジークフリートがそうした犠牲を当然のものとして勝ち誇るような人でなしだとは思わない。もし本当にそういうタイプなら、嬉々として聖コンスタンツェ勲章を受け取っていただろう。
ガートルードは両手を胸の前で組み合わせ、瞑目して戦場に散った兵士たちのために祈った。
吹き抜ける風に長い銀髪がふわりと舞い上がり、陽光を弾いてきらきらと光る。
「ああ……」
「女神様が……」
三階席の最も高い席から、感極まったかのようなすすり泣きが漏れた。座しているのはいずれも黒い喪服姿の男女……戦死した騎士や兵士たちの遺族だ。
コンスタンツェによって招待された彼らだが、死者の存在など忘れ去った……いや、最初から頭の片隅にもなさそうな皇后のふるまいにはやりきれなさを感じていた。大切な人はなんのために死んだのか。誰の命令で戦地へおもむいたのか。
荒れ狂う感情は、胸の奥に抑え込むしかなかった。
だが小さな皇妃は祈ってくれた。皇后よりずっと尊い王女に生まれ、女神の血を受け継ぐ少女が、忘れられた者たちのために。
その姿は本物の女神よりもまばゆく輝いて見えた。女神が死者を慰めてくれているのだと。
そんな彼らに打たれた貴族たちは浮かれた気分でやって来た己を恥じ、皇妃と共に祈りを捧げる。
(……えっ? どうして?)
祈りを終え、目を開けたガートルードは、すすり泣きだけが聞こえる空間に面食らってしまう。
わたわたするガートルードにジークフリートはふっと頬を緩め、おもむろに立ち上がると、オパールの瞳を特別席に向けた。
コンスタンツェはすでに落ち着いたが、アンドレアスにすがっていなければ立っていられないようだ。
そんな状態でもガートルードを睨みつけてくるのは、自分の立場を奪われたと思っているせいか。逆恨みにもほどがある。
(でも、原因はブライトクロイツ卿の呪いなのよね)
横目で窺ったジークフリートは堂々として、さっきまでの苦しそうな様子はどこにもない。
呪いは破邪の力で退けられたのだろうか。だがジークフリートは自分に触れたガートルードをひどく心配し、なんともないと悟ると驚いていた。まるでなにも起きないのがおかしいかのように。
とすると、やはりコンスタンツェの体調不良はジークフリートの呪いのせいだったのか。破邪の力がなければ、ガートルードもああなっていた?
「――陛下」
ジークフリートの呼びかけに、アンドレアスは翡翠の瞳を眇めるだけで応えた。ぎり、とコンスタンツェが歯を軋ませる。
「陛下はまことに素晴らしき妃殿下をお迎えになりました。……『欠陥品』にはもったいない」
「!!」
びくりとしたのはガートルードだけではない。居合わせたすべての人々が……すすり泣いていた遺族たちさえ絶句し、皇帝とその従兄を凝視する。
『欠陥品』。
それは皇帝夫妻の一粒種であるヴォルフラム皇子の蔑称だと、知らぬ者はいない。
「ジークフリート様っ……」
怒りに我を忘れたのか、コンスタンツェがかつての呼び名を口走る。呪いにあてられていなければ、今にも階段を駆け下り、ジークフリートに掴みかかりそうな勢いだ。
アンドレアスがなにか言おうとした、その時だった。ぱん、ぱん、ぱん、と拍手の音が鳴り響いたのは。
「その通り!」
立ち上がり、我が意を得たりとばかりに大きくてのひらを打ち鳴らしているのはブライトクロイツ公爵だった。高位貴族らしい威厳と押し出しの強さをあわせ持つ長身に、一堂の目は引きつけられる。
「高貴な血筋と気高き心を持たれるお方を、『欠陥品』のために皇妃の立場に貶めるなど女神に対する侮辱に等しい。妃殿下にふさわしいのは、帝国最高の男とその正当なる伴侶の地位よ!」
おおおっ……。
驚愕と賛同と非難が入り交じった、今日一番のどよめきが練兵場を揺らす。
ジークフリートのオパールの左目が不穏に光った。




