47・ヴォルフラム皇子と従者姉弟(第三者視点)
ヨナタン・ハーゲンベックはコンスタンツェの実兄マルティンの息子であり、ハーゲンベック伯爵家の次男だ。ヴォルフラムの誕生時から仕えてくれており、今年で十六歳。ヴォルフラムの母方の従兄である。
共に現れた侍女、ニーナ・ハーゲンベックはマルティンの娘でハーゲンベック伯爵家の長女であり、ヨナタンの姉だ。ヨナタンとは少し歳が離れており、確か二十二歳。こちらもヴォルフラムの従姉である。
爽やかな美男子としてメイドたちからひそかな人気を誇るヨナタンと、地味な顔立ちのニーナはあまり似ていない。同じなのは淡い色合いの金髪くらいだ。コンスタンツェも同じ色合いの髪だから、おそらくハーゲンベック伯爵家の特徴なのだろう。
姪に当たるニーナをコンスタンツェは信頼し、常にそばを離さない。ヴォルフラムが前世の記憶をよみがえらせてからは、一度も宿下がりをしてもらっていないのではないだろうか。
「皇子殿下……このような早朝に申し訳ございません」
深く腰を折るニーナの目元には濃いくまが刻まれていた。ふっくらしていたはずの頬も少しこけてしまったようだ。
「構わない。何があった?」
「……、……実は、皇后陛下が……」
何度も口を開きかけてはためらった後、弟に促され、ニーナはやっと話し出した。ここ最近、コンスタンツェを悩ませている怪異について。
始まりは、ブライトクロイツ公爵から献上された黒薔薇だったという。
黒薔薇はコンスタンツェのかつての主人であり、アンドレアスの婚約者であった公爵令嬢、エリーゼがこよなく愛した花だった。
ずっとコンスタンツェをいないものとして扱ってきたはずのブライトクロイツ公爵からの贈り物を皮切りに、コンスタンツェの周囲で奇妙な出来事が起きるようになったのだ。
モルガンとの交渉に臨んだ日、ニーナも含め、身分の正しい侍女しか入れないはずの衣装部屋が荒らされ、アンドレアスから贈られたドレスが引き裂かれていた。ドレスの周りには黒薔薇の花びらが散らばっていたそうだ。
その翌日、コンスタンツェの朝食のスープに長い黒髪が数本混入されていた。厨房の料理人には黒髪の者も長髪の者もおらず、コンスタンツェのもとへ配膳される前には厳しく毒味と異物のチェックがされるが、その時点ではなんの異常もなかった。
エリーゼは長く美しい黒髪の少女だった。
別の日、コンスタンツェが愛用の香水を振りかけたら、いつもの水仙の香りではなく、薔薇の香りのものに中身だけすり替わっていた。
エリーゼは香水も薔薇を好んでいた。
また別の日の夜、コンスタンツェが息苦しさと妙な口の渇きを覚えて目を覚ますと、胸の上に黒猫が乗っていた。思わず上げた悲鳴でニーナが駆けつけた時には、黒猫は消えていた。
エリーゼは生前、黒猫を飼っていた。
……息苦しさで目覚めるのはそれから毎晩続き、夢の中にエリーゼが現れるようになった。
『知っていたくせに』
『わたくしがどれだけアンドレアス様と結ばれたかったか、貴方は知っていたくせに』
『陰でわたくしを嘲笑っていたの?』
『どうせ結ばれるはずがないのに、って……』
エリーゼはさめざめと泣きながらコンスタンツェを責めた。コンスタンツェが何度違うと言っても聞き入れられなかった。
そのうち眠るのが怖くなったが、一睡もせずに生きるなど人間には不可能だ。眠気に負けてしまえば、エリーゼが現れ、コンスタンツェをなじる。
そうなると現実の世界にも影響は出始め、騎士だったころからの日課の剣の鍛練や社交もままならなくなってきた。皇后としてどうしても外せない公務はなんとかこなしているというが。
「やはり夜、満足に眠れないのが相当こたえておいでで……今朝は悲鳴を上げて目覚められ、エリーゼ様に殺される、と……」
すすり泣きながら語ったニーナによれば、コンスタンツェの首には長い黒髪が数本、絡みついていたという。
「難しい交渉に臨んでいらっしゃる皇帝陛下には心配をかけたくない、なにも報告しないようにと皇后陛下はおっしゃいますが、このままではいずれ倒れてしまわれます。私、もうどうしていいかわからなくて……」
「……私のところに来た、というわけか」
頷くヴォルフラムに、姉と弟が揃って頭を下げる。
「申し訳ありません、皇子殿下」
「無礼はいかようにも償わせて頂きます」
「いや、構わない。他ならぬこう、……母上のことだ。気にかけてくれて感謝する」
三歳とは思えない態度に姉弟が賛嘆の眼差しを送る中、ヴォルフラムは思考をめぐらせる。コンスタンツェを悩ませる『怪異』について。
前世、科学と医学の使徒であったヴォルフラムは、幽霊のたぐいを信じていなかった。しかし自ら異世界転生などというとびきりの怪異を体験してしまった今は、魂だけになったモノが生きた人間に影響を及ぼすこともあると受け入れている。
その上で、ヴォルフラムはコンスタンツェの身辺に起きた出来事に疑念を抱かざるを得なかった。
(ドレスや香水の一件は、生きた人間でもできる。出自の確かな者しか入れなかったというが、警備の穴なんてどこにでもあるものだし、その『出自の確かな者』の中に犯人がいるかもしれない)
ちらとニーナを窺うが、朋輩を疑っているような様子はみじんもなかった。皇后付きの侍女が皇后を害して得られるものなどなく、ばれれば厳罰を受けるのだから、当然かもしれないが。
(夜中に息苦しさで覚醒するのは、睡眠時無呼吸症候群の可能性もあるな)
空気の通り道である上気道が狭くなる、あるいは脳の指令に異常が発生するせいで、睡眠中に呼吸が止まってしまう疾患だ。肥満した患者が多いが、生まれつきの骨格や舌の構造、飲酒習慣などでも発生することがある。
「ニーナ。母上が眠る前に酒を飲まれることは?」
ヴォルフラムが問うと、ニーナは驚きに目を見張った。
「は、はい! 以前から寝酒を召し上がっていらっしゃいました。グラスに一杯程度だったのですが、どんどん量が多くなって、今は最低でも五杯はお召し上がりに……」
おそらく眠ることに対する恐怖をまぎらわせ、すみやかに入眠するためなのだろうが、アルコールは睡眠の質を悪化させる。だから悪夢ばかり見て、無呼吸を引き起こし、さらに体調が悪くなる……絵に描いたような悪循環だ。
「では、まず寝酒をやめて頂くように。今の母上には毒にしかならないから」
「は、はい……」
「それで睡眠中の息苦しさは改善されるはずだ。あとは昼間、少しでもいいから外に出て太陽の光を浴びること」
貴婦人は日焼けを嫌い、高位の貴婦人ほど日の光を浴びたがらないが、日光は健康に必要不可欠だ。
昼間日光を浴びることで、夜も眠りにつきやすくなる。コンスタンツェは怪異に悩むあまり閉じこもりがちになり、体内時計が狂ってしまっている可能性が高い。
(無呼吸の原因が脳や身体構造だったら手も足も出ないが、飲酒やストレスが原因なら改善する余地はあるな。あとは……)
「……あの、皇子殿下」
他に打てる手はないかと検討していたら、ニーナが不可解そうに声をかけてきた。
「なんだ?」
「殿下は、母君様が心配ではないのですか?」
予想外の問いに、ヴォルフラムは翡翠色の瞳をぱちぱちさせる。
「……心配だから、対策を考えているのだが?」
「それは、承知しておりますが……皇后陛下を案じられるお言葉を、まるで仰せにならないので……」
「姉上!」
まなじりをつり上げたヨナタンが慌ててとがめるが、なかったことにはならない。ニーナの発言も、かすかな非難を帯びた眼差しも。
(……ああ、なるほど。ニーナは他人にも自分と同じ感情を要求するタイプか)
自分が悲しければ他人も悲しい、自分が泣いていれば他人も泣くのが当たり前と考えるタイプだ。子どもなら母親が苦しんでいればわかりやすく嘆き悲しむものなのに、冷静なままのヴォルフラムは異質に映るのだろう。
「……ニーナには伝わらないのかもしれないが、私はちゃんと母上を心配している。それともお前は、私が不安で泣き叫びでもしなければ不服か?」
「そのようなことは、決して……ただ、皇后陛下のおつらさを少しでもわかって頂ければと……」
ニーナは否定するが、不満のにじむ顔が裏切っている。
「おつらいだろうと思ったから、どうすればつらさが和らぐか考えた。それが私の心配の仕方だ。お前にわかってもらおうとは思わない」
ヴォルフラムの言葉に、ニーナは黙って頭を下げた。




