42・転生ものぐさ皇妃、真夜中に皇帝と密会する
――いる……。
甘い酩酊感をもたらす声が眠りの淵にさざ波をたてた。またか、とガートルードは眉を寄せる。
地震から約七日。
あの時聞こえた魅惑の声音は、ガートルードが眠りに身をゆだねると鼓膜の奥でささやくようになっていた。不明瞭だった内容も、だいぶ聞き取りやすくなっている。まるで錆びついていたロボットに油が差され、なめらかに動き出したかのように。
――私は、ここにいる……。
――ここに……、……の、底に……。
時折交じるのは、声の主とは違う荒い息遣い。はあ、はあ、はあ、と、高熱に浮かされているかのような。
(貴方は誰なの? どこにいるの?)
眠りの底からガートルードは呼びかける。自分と相手をつなげる、細い細い……けれど決して切れない糸を介して。
これまで声の主が語りかけてくることはあっても、ガートルードの問いかけに答えることはなかった。きっと今宵もそうだろうと半ば諦めていたのだが。
――名は……、ない。
――……に、奪われた……。
――だから私は、ここに……ずっとずっと……。
初めて答えらしきものが返ってきた。
(名前がない? 誰かに奪われて、だからここに……どこかの底にいるということ?)
糸に肯定の意が伝わってくる。もっと質問を重ねようとした時だった。強い力で眠りから引き上げられたのは。
「我が女神」
ぱっと明るくなった視界に映るのは褐色の肌の、美しい男……レシェフモートだ。
「いけない方ですね。私以外の夢はご覧にならないでくださいと、あれほどお願いしましたのに。聞き入れてくださらないなんて」
なじるように細められる金色の双眸も、ガートルードの頭を囲うように垂れる長い銀髪も淡い光を放っている。人の常識が通用しない異形に寝台の上で覆いかぶさられ、覗き込まれているから、枕元のランプもついていないのに明るく感じるのだ。
「レシェ……」
「また、あの声ですか?」
こくんと頷けば、レシェフモートは絹の夜着をまとった小さな身体を抱き込み、あお向けになった。レシェフモートの左胸に顔を埋める体勢になり、ガートルードは耳を澄ませる。
とくん、とくんと規則正しく刻まれる鼓動は人間のそれと変わらない。
だがこの胸の奥に本当に心臓があるのか、あったとして人間と同じなのかはわからない。それでも安心するのは人間の本能ゆえか――レシェフモートが絶対に自分を傷つけないと理解しているからか。
「おかわいそうに……」
二本の腕と共に、しゅるしゅると伸びる髪が全身に絡みついてくる。蜘蛛の巣に囚われた蝶のような感覚にはもう慣れてしまった。
「大丈夫よ。ただ声が聞こえるだけなんだから」
「ですがソレは悪しきモノです。我が女神の御心を騒がせるのですから」
七日前の、地震の日。
『……死に損なったか』
レシェフモートがそうつぶやいた理由を、ガートルードは後に本人から聞いた。あの地震は大陸のどこかで魔獣の王が目覚めたがゆえだろうと。
魔獣の王は自然の魔力が凝って種となり、それが様々な瘴気や魔力を大量に溜め込むことで目覚める――という人間とも魔獣とも違うプロセスで生まれるという。
種自体は数十年に一度のペースで発生するそうだが、ほとんどが育ちきらず途中で死んでしまい、無事目覚めを……人間で言うところの誕生を迎えられるのは数百年に一度。めったにないはずの機会が、七日前のあの瞬間に発生したのだ。
種が発生するのは深い海の底であったり、森の奥であったり、地中であったりと様々だが、おそらく今回の種は地中で目覚めたのだろう。しかしなんらかのトラブルが起き、目覚めたその場に閉じ込められてしまった。
仮にも魔獣の王ともあろう者がそんな間抜けな事態に!? と驚いたガートルードだが、レシェフモート的には『あるある』らしい。
魔獣の王も目覚めたては無防備な赤子も同然。そこへ対処不可能なトラブルに襲われれば、なすすべもないのだという。だからこそ魔獣の王は稀有な存在であり、ある種の自然淘汰なのかもしれない。
今回の種……声の主は生き延びたいがあまり必死にもがき、無数の魔力の糸を放った。その一本がガートルードとつながってしまったのだ。ガートルードが声の主に応えたことによって。
言葉を操る魔獣の呼びかけに応えることは、その魔獣とつながることを意味するという。それはレシェフモートすら阻めない自然の法則だ。
そう言えば……とガートルードは思い出した。
前世でも聞いた覚えがある。部屋の中にいる人に呼びかけ、応えてもらわなければ入れない悪魔だか妖怪だかの話を。応えることによって関係が生じる、というのはどこの世界でも共通の感覚なのかもしれない。
声の主は生きるため、必死にガートルードに呼びかけている。助けて欲しいと。
だが帝都から出られないガートルードにはなにもできないし、もちろんレシェフモートも助けてやるつもりなどない。
『この件は私と我が女神だけの秘密にしておくべきでしょう』
帝国は沼の王の再来かと混乱している。アンドレアスに報告した方がいいのだろうか、と迷うガートルードに、レシェフモートはそう忠告した。
『我が女神がいらっしゃる限り、王といえど魔獣は帝都に入ってこられません。報告すればさらなる混乱を招きかねない。具体的な被害が発生しない限り、黙っておくのが得策かと』
しかも声の主は地中から出られない状態である。災害の源がどこかに埋まっているけど今のところ危険はありませんよ、と告げて不安にさせるよりは、黙しておくべきだろう。
ガートルードもその通りだと思い、レシェフモートの提案に従った。だが声の主はガートルードが眠りに落ちるたび呼びかけてくる。
起きている間はレシェフモートの守りでシャットアウトされてしまうが、眠っている間は意識が肉体から切り離されており、声の主は糸を通じガートルードに接触できてしまうのだそうだ。
あの時、呼びかけに応えるべきではなかった。後悔しても遅いが、声が聞こえる以外の実害はないのだからいいのでは、とガートルードはおおらかに構えていた。いちいち細かいことに囚われていては、十二人の子育てなどやっていられなかった。
ちっともおおらかではいられなかったのが、レシェフモートだ。
昼間はもちろん、夜もガートルードを抱き込んで離さなくなった。まるで出会った当初に戻ったみたいに。
ガートルードが心配なのだと真剣に言われれば拒めず、ここ数日はほぼレシェフモートの腕の中で過ごしていたけれど。
「名は奪われた、って言っていたわ」
ぽつりとつぶやけば、髪を撫でる手が止まった。
「声の主が、そのようなことを」
「初めて、わたしの問いかけに答えてくれたの。名を奪った誰かに、どこかの地の底に閉じ込められたんだって」
それはつまり、生まれたてとはいえ魔獣の王の名を奪い、閉じ込められるほどの力の主がいるということだ。やはりアンドレアスになんらかの報告はすべきでは、と考えていたら、レシェフモートがおもむろにガートルードを解放し、身を起こす。
「このような夜更けに何用だ。……皇帝よ」
「えっ?」
ガートルードも驚いて身を起こし、レシェフモートに隠れ身構えていると、天蓋から垂れる帳が外側からゆっくりと開かれる。
「超、……アンドレアス陛下!?」
眠気も吹き飛び、目を見開くガートルードに、アンドレアスは笑いかける。長旅に疲れ果てた旅人のような、それでいて嬉しそうな顔で。
「ガートルード皇妃。……会いたかったぞ」




