36・新たな王配候補と帝国の貴公子(第三者視点)
(やはり、そうきたか)
帝夫妻の背後に控え、交渉の行方を見守っていたリュディガーは、予想通りの展開に心の中でため息をついた。
シルヴァーナ王国は最初からガートルードの帰還以外求めていない。リュディガーでなくとも、じゅうぶん予想できたことだ。
「あわせて、ガートルード殿下に剣を向けたヘルマン・アッヘンヴァルの身柄の引き渡しを求めます。我が国において、直系の王女殿下に危害を加えようとした者は、未遂既遂にも身分にも関係なく車裂きの上、骸を獣に喰わせるのが習いでございますゆえ」
「っ……」
唯一の女性であるコンスタンツェが青ざめる。
車裂きとは、二台の馬車に罪人の片足をくくりつけ、それぞれ左右に走らせてその四肢を引き裂かせる刑罰だ。絶命まで相当な時間がかかる上、罪人は想像を絶する苦痛を味わうことになる。首をはねてやることが慈悲とされるほどだ。
「……ヘルマンは、まだ六歳なのですよ?」
「年齢も関係ございません。実際に百十二年前、当時の王女殿下に紅茶をかけ、火傷を負わせた四歳の貴族の娘が車裂きの刑に処されております」
コンスタンツェにモルガンは平然と答える。その貴族の娘の年齢からして故意ではなく、粗相をしてしまっただけなのだろう。
それでもその娘はむごたらしく処刑された。ならばその娘より年上で剣を向けたヘルマンも処刑されて当然、とモルガンは言いたいのだ。
「――だが、皇妃はヘルマンの処断を望んではおらぬ」
皇帝アンドレアスが重い口を開いた。
「皇妃はヘルマンの祖父アッヘンヴァル侯爵を通してヴォルフラムへ謝罪するよう望み、それが叶ったならヘルマンへの罰を免除するようクローディア女王にとりなすと申したそうだ。そなたの要求は、皇妃の真心を無視しているのではないか?」
その通りだと、リュディガーも心の中で深く頷いた。
ガートルードは寛大で慈悲深い少女だ。たとえ自分が傷つこうとも、誰かが同じ目に遭うことなど決して望まない。それどころか不遇のヴォルフラム皇子に味方を増やす機知まであわせ持っている。
(……ティアナとは、あまりに違う)
こんな時なのに――いや、こんな時だからなのか。妹ティアナが頭をよぎってしまう。
ニクラスからとうとう離婚を突きつけられたティアナを、リュディガーは引きずるようにしてフォルトナー公爵家に連れ戻した。リュディガーの家督継承に合わせ、近々両親と一緒に別邸へ送る手はずだったのに、こつぜんと姿を消してしまった。
『わたくしはわたくしにふさわしい場所へ参ります。どうか心配なさらないで』
閉じ込めていた部屋に残された書き置きと、荒らされた跡がなかったことから、ティアナは自発的に出て行ったのだと思われた。だが公爵家の私兵の目をかいくぐり、見とがめられぬよう脱出するなど、甘やかされた貴族令嬢には不可能だ。
つまり、ティアナを手引きした者がいる。ティアナはその者のもとに身を寄せている可能性が高いが、今のところ見つかっていない。
『もうティアナなんて見捨てちまえ。自分から出て行ったんだ、あの女も文句はないだろうさ』
『そうだよ、兄さん。兄さんも僕たちもあの子にはさんざんな目に遭わされてきた。離婚させられたのを悲観して自ら命を絶った、って言えば誰も疑わないよ』
結婚前からティアナの横暴に耐えかねて別居している弟たちは、そう口を揃えた。
唯一の女の子で末っ子だったティアナを両親は溺愛したが、リュディガーにはそっけなかったし、嫡男でもない弟たちにはなんら関心を示さなかった。弟たちは親代わりだったリュディガーのことは慕ってくれるが、ティアナや両親にはとことん冷ややかだ。
彼らの言う通りなのかもしれない。
両親が責任を取る形で隠居し、その家督を受け継ぐのだ。厄介ごとの種にしかならないティアナなど、死んだことにした方が後々のためだろう。
それでも弟たちのように割り切れないのは、嫡男としての義務感を捨てきれないリュディガーの弱さなのか。ガートルードなら……たった六歳で家族のために祖国を離れた心優しき少女なら、なんと言うだろう……。
「……左様でございますね」
モルガンが長いまつげに縁取られたまぶたを物憂げに伏せた。
「確かにガートルード殿下は慈悲深きお方。離婚するつもりはないとおっしゃいましたし、ヘルマンの処刑も望まれますまい」
「皇妃がそう、そなたに申したのか」
「はい。はっきりと」
驚いたのはリュディガーだけではあるまい。モルガンがガートルードの言い分をそのまま伝え、あまつさえ認めるとは誰も思わなかったはずだ。
いかに聡明でも、ガートルードはまだ六歳。モルガンなら自分の思い通りに思考を誘導することも、自分の都合のいいようアンドレアスに伝えることもできたはずである。
なぜそんな真似をしたのか。
答えはすぐに判明する。
「ガートルード殿下がそのようにおっしゃるのは、ひとえにヴォルフラム皇子殿下の御ためであると愚考いたします。ご自分が帰還なされれば、ヴォルフラム皇子殿下は再び瘴気に苦しまれ、お命を落とされかねない。それゆえ、女王陛下や姉王女殿下がたがどれほど帰って欲しいと望まれても、こちらに留まろうとなさる」
ならば、とモルガンは唇をゆがめた。
「代わりを用意すれば良いのではありませんか?」
「代わり……、だと?」
「はい。……皇帝陛下にはガートルード殿下と離婚して頂き、その後にシルヴァーナ王国第四王女、フローラ殿下を新たな皇妃として迎えられてはいかがか、と提案しております」
しばしの沈黙の後、ぱちり、と乾いた音がした。コンスタンツェが手にした扇を閉じる音だ。
「冗談にもほどがありますよ、ブラックモア卿。フローラ殿下は妊娠しておいでなのでしょう?」
硬い声には不快感がありありとにじんでいる。
幼いガートルードが身代わりにならざるを得なかったのは、本来輿入れするはずだったフローラが取り巻きの貴族子息と通じ、子を孕んだせいだ。そんな女性がガートルードの代わりに?
(ありえない)
想像するだけで身の毛がよだつ。皇妃はガートルードだけだ。リュディガーがひざまずきたいのも、この剣で守りたいと願うのも……。
「数ヶ月もすれば御子は生まれます。無事出産を済まされたら、ガートルード殿下と入れ替わる形で帝国に輿入れなされば良い」
「ブラックモア卿」
「妊娠出産を経ても破邪の力が失われないことは、証明されております。フローラ殿下が皇宮に在られれば、ヴォルフラム皇子殿下は瘴気から守られ成長なさるでしょう」
「……ブラックモア卿!」
響いたのはコンスタンツェではなく、自分自身の声だった。それでリュディガーはやっと気づく。護衛の身でありながら、交渉に口を挟んでしまったことに。
「貴殿は……フォルトナー卿ですか。ガートルード殿下に剣を捧げられたそうですね」
皇帝夫妻と外務大臣たちが驚愕する中、モルガンは気分を害するでもなく微笑んだ。
……嫌な笑みだ、と思った。まるで南国の密林に生息するという毒蛇のようだ。虹色に輝く美しい鱗を持ち、その美しさに魅せられた狩人が陶然となっているうちに、首筋に噛みつくのだという。
「ガートルード殿下の姉君を案じられましたか。なんとお優しい。騎士の中の騎士と謳われるだけのことはある」
「……」
気に入らない。
まるでガートルードがすでに自国の王女に戻ったかのような口調が気に入らない。
「ですが、考えてみてください。元々、こちらへ輿入れなさるのはフローラ殿下のはずでした。ガートルード殿下が王国に戻られ、フローラ殿下が帝国へ参られる。……本来の予定通りになっただけではありませんか」
確かに、そうかもしれない。
何事もなければ、今、帝国にいるのはフローラのはずだった。
帝国行きを泣いて嫌がっていたという彼女に、リュディガーが剣を捧げることはなかっただろう。貴族たちがその気高いふるまいに感じ入ることも……小さな心を痛めてはいないかと、リュディガーが心配でたまらなくなることも。




