30・転生ものぐさ皇妃、交渉の場へ
これまでなら、ロッテもエルマも受け入れられることはなかっただろう。レシェフモートは自分以外がガートルードに侍ることを異様に嫌い、アンドレアスやコンスタンツェが用意した人員すべてを追い払ってしまったから。
だが今回、二人を受け入れたいというガートルードの願いに、レシェフモートは異議を唱えなかった。
『それが我が女神の願いなら』
そう微笑むレシェフモートから、確かな変化を感じたけれど。
『ただし貴方に触れ、お世話申し上げるのはこの私だけ。お召しになるのも私の捧げた衣装だけ、お口になさるのも私がお作りした料理だけと、お約束頂けるのならば』
そこだけは断固譲れないと笑みを深められ、変わらないものは変わらない、いや、さらに強い執念を思い知らされた。ガートルードとしては得体の知れない不安を覚えつつも、望みが叶うなら良しとするしかなかったが。
ガートルードが二人を受け入れようと思ったのは、ヘルマンの一件でもはや帝国の誰とも無関係を貫きつつ食っちゃ寝ライフを送るのは不可能だと判断したから……だけが理由ではない。
レシェフモートと二人きりの空間に、少しだけ……ほんの少しだけ、居心地の悪さを感じるようになってしまったせいだ。
決して、レシェフモートが疎ましくなったわけではない。
だが絡んだ眼差しに、触れた手に、二人だけしかいない空気に……ごくたまに、息苦しさを覚えてしまう。ただ彼の膝に抱かれ、かいがいしく世話を焼かれていたころは、一度もなかったのに。
……レシェフモートが、怖いと思うことなんて。
ガートルードだけにひざまずく獣が、自分を傷つけるわけがない。それはわかっている。
わからないのは自分自身の心だ。最も安心できるはずの存在を怖いと思うなんておかしい。怖いのに、もっと触れていて欲しいと願ってしまうのも。
いくら考えてもわからないままだったから、だったら二人きりでなくなればいいのだと思った。ガートルードの世話をするのが引き続きレシェフモートだけでも、誰かがいればなにかが変わるにちがいないと。
そんな思惑から皇妃の宮殿に迎え入れられた二人だったが、あっさりと宮殿になじんだ。人間の同僚が一人しかおらず、上司(形式上)は神使。とんだブラック職場では、とガートルードは危惧していたのだが、当の二人の考えはまるで違うらしい。
『神使様は皇妃殿下の御身に関わること以外には、とても寛容でいらっしゃいますから』
と、品よく微笑んだのは薄幸美女ことロッテ。
下手に同僚がたくさんいて人間関係に悩まされるよりは、人外でも寛容な上司と畑違いの同僚だけの環境の方が気楽、ということらしい。レシェフモートのあれは寛容と言うよりは、ガートルード以外のすべてに無関心なのだが。
たぶんロッテもそのあたりは承知しているだろう。その上での当たり障りのない言い回しに、ガートルードは前世の有能な秘書を重ねた。
やらかしまくりの雇用主を陰からそつなくフォローし、本人にも気づかれないまま操縦していそうなイメージ。……前世の国内有数の製菓メーカーと同じ名前に、揚げ物の名字が採用の決め手だったなんてとても言えない。
『神使様もロッテさんも、私に染め遅れだの針折れだのおっしゃいませんから。すっごく気が楽ですよ!』
いい笑顔で断言したのはエルマ。
帝国貴族の令嬢は十三、四歳でデビューし、十五歳ころには婚約が調い、遅くとも十八歳までには結婚するのが普通である。
貴族夫人は娘が生まれると手ずから絹織物を織り始め、婚約が調うまでにドレス一着分を完成させる。婚約が決まればその絹織物を薄紅色に染め、結婚式までに婚家の紋を刺繍してウェディングドレスに仕立て、娘の門出を祝うのだ。前世では花嫁の色と言えば白だったが、帝国では救国の聖女と謳われるブリュンヒルデ皇女が紅色を好んでいたのにあやかりつつも、紅色そのままではおそれ多いので薄紅色、ということらしい。
そのため適齢期を過ぎても婚約できない令嬢を『染め遅れ』、さらに結婚できない令嬢を『針折れ』と揶揄する悪しき風習が存在するのである。前世の一昔前、二十五歳を過ぎても結婚しない女性を『クリスマスケーキ』と呼んだのと同じか。世界が違っても下衆な発想をする馬鹿はいるのね、とガートルードはうんざりした。
れっきとした貴族令嬢でありながら、エルマは十六歳の今も婚約者が決まっていない。ゆえに心ない陰口を叩かれる。
ノイベルト子爵家は由緒正しい名家だそうだし、エルマ本人も明るく優しい女性だ。なのに婚約者が決まらないのはおそらく本人の希望だろうと、ガートルードは察していた。騎士はエルマの幼いころからの夢だったが、女性騎士は結婚したら辞めなければならないのだと、帝国への道中で聞いていたから。
ならば誰も結婚について触れない職場は、近衛騎士の身分を捨てても余りあるほど魅力的なのかもしれない。ガートルードとしては、二人とも納得の上で働いているのなら文句はない。
ロッテはガートルードの身の回りの世話以外、基本的に宮殿の維持管理を受け持ち、エルマはガートルードが外出する際の護衛に付く、という形で落ち着いている。ほんの少しでも他人の気配が混ざることでガートルードの心も多少は安定し、良かった良かった……と思っていたころ、新たな不安の種は故郷から訪れた。
――姉女王クローディアの使者、ブラックモア侯爵モルガンという形で。
ヘルマンの起こした事件が伝わるや、姉女王は怒り狂った。帝国側の提示したいかなる賠償もはねつけ、ガートルードの離婚と帰還を要求したのだ。そしてその交渉を一任されたのが、モルガンだったのである。
女神シルヴァーナの愛し子、悲劇の王女ガートルード姫を取り戻せ。
故郷の悲願を背負い、モルガンが帝国に到着したのは一昨日。一日を休養に費やした翌日の今日の朝、皇妃の宮殿にあいさつに上がると連絡が入った時、とんでもない食わせ者かもしれないとガートルードは思った。
だって帝国のトップは、言うまでもなく超アンドレアスこと現皇帝アンドレアスだ。女王の代理人として訪問したモルガンが第一にあいさつすべきは、アンドレアスのはずである。
なのにそのトップを無視し、自国の王女だったとはいえ皇帝の側室に過ぎないガートルードをまっさきに訪問する。それは『皇帝など意に介さない』『帝国に譲歩するつもりはない』という無言の宣言であり、言わば先制パンチのようなものだ。
(そんな人と渡り合って、離婚を諦めさせなくちゃならないのよね……)
レシェフモートにエスコートされ、ロッテとエルマの先導でモルガンの待つ『鈴蘭の間』へ向かいながら、ガートルードは眉を寄せる。
アンドレアスとの離婚は絶対に回避しなければならない。ガートルードの快適な食っちゃ寝ライフは、帝国皇妃という身分なくしては成り立たないのだから。
加えて、ヘルマンの身柄引き渡しも防がなければならないのだ。
聞くところによれば、モルガンは姉女王クローディアの新たな王配候補らしい。ガートルードの離婚と帰還を成功させ、王配の座を射止めたいのだろう。
王家に血を混ぜるのは、王国貴族男性として最高の栄誉だと言われている。しかもクローディアは絶世の美女だ。
栄誉と美女を手に入れるため、モルガンはきっと手加減なしで攻めてくるにちがいない。……クローディアには相思相愛の夫と、可愛い息子が二人もいるのに。
モルガンを新たな王配に迎えるのは、きっとクローディアの本意ではないだろう。ガートルードの帰還を望む気持ちは本物であっても。
(つまりお姉様のためにも、わたしは離婚しちゃいけない。ヘルマンも渡しちゃ駄目、ってこと)
「ご安心を、我が女神」
小さなため息をついた時、レシェフモートが長い指をガートルードのそれに絡めてきた。目が合えば、にこりと微笑まれる。
「我が女神のお望みは、いかなるものでも叶えられなければなりません。それを阻もうとする者は私が」
「レシェ。わたし、乱暴な真似は嫌いだから」
釘を刺してからほんの少しだけ間が空いたのは、約束を思い出したからだろうか。理解できなくても考えてみる、と。
「…………誠心誠意説得いたします。大丈夫、私の説得が通用しない人間はいませんから」
レシェフモートは笑みを深めたけれど、ちっとも大丈夫ではない気がする。
(それって『説得(物理)』ってやつじゃないの? もしくは脳ごとどうにかしちゃうとか……)
レシェフモートならどちらもありえそうで怖い。
この獣に頼るのは最終手段にしよう、とガートルードは心に誓った。




