28・転生ものぐさ皇妃と騎士と侍女
女神を女神たらしめているのは、人間や魔獣を凌駕する高い魔力。それが衰えれば女神自身も衰える。当たり前の話ではあるけれど。
「ねえレシェ。さっき言ったわよね。女神の血は高度に濃縮された純粋な魔力だって」
「はい」
「だとすれば、女神シルヴァーナが弱体化したのって……シルヴァーナ王国とレシェのせいなんじゃない?」
七百年前、女神シルヴァーナは始まりの乙女とレシェフモートに血を与えた。たった一人で魔獣をせん滅し続けたレシェフモートは言わずもがな、七百年経ってもなお受け継がれるほどの血ならば、数滴でもかなりの魔力がこめられていたのではないだろうか。
「一因ではあるでしょうが、それだけで女神ともあろうモノが弱体化するとは思えません。なにか他に大量の魔力を消費するようなことがあったのではないでしょうか」
「でも女神シルヴァーナは始まりの乙女と一緒に神々の世界へ戻ったきり、降臨していないんでしょう? 神々の世界で、弱体化するほど魔力を消費することってあるの?」
ガートルードのイメージする『神様』は、高みからじっと人々を見下ろす存在だ。
時折、気まぐれに人々の声に応えることもあるけれど、積極的に関わることはない。粗末に扱えば祟る。そんな存在。
(そう言えば、この世界の神様ってよくわからないのよね)
前世のように特定の宗教は存在しない。前世の日本は八百万の神々を崇め、あちこちに神社があったが、こちらの世界ではシルヴァーナ神殿くらいしか見かけない。
転生したばかりのころ、いたいけな幼女のふりで収集した情報によれば、この世界の人々は『世界を守る偉大なる神』……主神的な存在をぼんやりと認識しており、女神シルヴァーナは主神に従う神々の一柱、という扱いのようだった。
かと言って主神がはっきりとした信仰の対象になっているわけではなく、神というよりは大自然の概念……前世にたとえるなら『お天道様』のようなものだと感じた。悪い行いはお天道様が見てるからね、と母親が子どもに言い聞かせるような。
女神シルヴァーナだけがはっきりと信仰の対象になったのは、実際に人の世に降臨した唯一の神で、シルヴァーナ王国という奇跡の実例があるからだろう。人間、誰だってよりご利益のある神様にすがりたいものだ。
そうやって独り勝ち、いや一神勝ち状態のシルヴァーナがホームグラウンドである神々の世界で弱体化するなんて、いったいなにがあったのだろう。
「……の、魂の召喚……」
ガートルードの長い髪を撫でながら落とされたつぶやきは小さく、ガートルードにはよく聞こえなかった。振り返れば、金色の瞳が愛おしそうに細められる。
「女神シルヴァーナの胸の内は、私にははかりかねますし、理解したいとも思いませんが」
長い指に巻きつけた髪に、レシェフモートは口づける。眼差しはガートルードを捉えたまま。
「貴方のお心は私の中に包み込み、私で染め上げてしまいたいと思っております。……我が、愛しの女神」
「レ、レシェ……」
金色の瞳の奥で、またあの炎が揺らめいた。
映り込んだガートルードが炎に取り巻かれる。感じるはずのない熱さを確かに感じた時だった。私室の扉が叩かれたのは。
「皇妃殿下、神使様。そろそろ刻限にございます」
聞こえてきた少し低めの柔らかな声は耳に心地よく、ガートルードを正気に引き戻してくれた。レシェフモートはあやすような笑みを浮かべ、真っ赤になったガートルードを抱き上げると、床に立たせてくれる。
「では参りましょうか、我が女神」
「……う、……うん」
(……な、なんだか今、逃がしてもらったような気がする……!)
いやレシェフモートがガートルードを捕まえたりするわけがない、というかすでにレシェフモートに侍られない時間などほぼゼロの状態で、今さら捕まるもなにもないのだが、そんなふうに感じてしまったのだから仕方ない。
「わっ……!」
差し出された手を握った瞬間、ゆったりしたワンピースは白のドレスに変わった。
大人の貴婦人のそれと違いウエストを絞っていないデザインのそれは、胸の高い位置に大きなリボンが結ばれ、そこからスカート部分全体をふんわり覆うチュールレースには精緻な薔薇の刺繍と水晶があしらわれており、歳相応の可愛らしさに気品と華やかさを添えている。
頭には大きさや色合いが微妙に異なる真珠を連ねたティアラ。首飾りとイヤリングは月長石と真珠を組み合わせたもので、ガートルードの輝く銀髪とあいまって、全身から光を放っているかのよう。
「お美しい……」
ほう、とため息をついてひざまずくレシェフモートこそ、美しさの極みだと思った。ガートルードの小さな手を大切そうに取り、指先に口づける仕草も見上げる眼差しも、なにもかもが。
「太陽を砕いてしまえない我が身が恨めしい。この世界が闇に閉ざされれば、貴方のお美しいお姿を拝せるのは私だけになるものを」
レシェフモートの瞳は光のない暗闇でもすべてを見通せる。きっとガートルードの揺れる心すらも。
「レシェ……」
出逢ったばかりのころ、雨あられと降り注ぐ賛辞には面映ゆく思いこそすれ、こんなにも胸が騒いだりはしなかった。
あのころよりも熱い唇のせいだろうか。指先しか触れられていないのに、全身が燃え上がってしまいそうなせい?
「さあ、我が女神」
ふっと微笑んだレシェフモートが立ち上がり、再びガートルードの手を取る。正式なエスコートは男性の腕に女性が手を絡めるのだが、今のガートルードでは精いっぱい腕を伸ばしても届かないので、こういう形になる。
いつか正式なエスコートが可能なくらい成長すれば、レシェフモートの腕に手を絡める日が来るのだろうか。成人した女性に正式なエスコートが許されるのは、家族以外は基本的に婚約者あるいは夫のみなのだが……。
レシェフモートに手を引かれ、部屋の外に出ると、控えていた二人の女性が頭を下げた。
侍女のお仕着せをまとった方は帝国人にしては小柄でほっそりとしており、整った顔立ちながらどこか陰を感じさせる二十代前半くらいの女性だ。薄幸の美女、という表現がぴったり嵌まる。
もう一人、女騎士の制服をぴしりと着こなした方は帝国人らしく長身で、ガートルードの数少ない帝国での知人でもある。
「お客様は『鈴蘭の間』にご案内しました。皇妃殿下のお出ましをお待ちでいらっしゃいます」
「ありがとう、ロッテ」
控えめな笑みを浮かべる薄幸の美女ことロッテ・フライは、十日ほど前からガートルードに仕えるようになった皇妃専属侍女だ。皇妃の侍女は彼女一人だけだから、事実上の侍女頭ということになる。
「とてもお綺麗です、皇妃殿下。今日も警護に付かせて頂きます」
「エルマもありがとう。嬉しいわ」
照れくさそうに笑うエルマは、帝国への旅路を共にしてくれた近衛騎士団所属の女騎士だ。リュディガーの部下でもあり、大人びて見えるがまだ十六歳と比較的年齢も近いのも手伝って、馬車の中でおしゃべりが弾んだ。
レシェフモートとの遭遇により、なし崩し的に離ればなれになってしまったけれど、いつかまた会いたいと思っていたら、思わぬ形で願いが叶った。
十日ほど前。
『重ね重ね、このたびはありがとうございました。皇妃殿下には何度お礼を申し上げても足りませぬ』
ガートルードのもとに参上したアッヘンヴァル侯爵と夫人のアーデルハイトは、夫婦揃って深く頭を下げた。アーデルハイトは芯の強そうな、いかにも武士の妻という雰囲気の女性で、若いころは騎士団に所属する女性騎士だったそうだ。
『本当なら愚孫ヘルマンめも同行させ、叩頭させお詫びとお礼を述べさせなければならないところですが、愚孫は皇妃殿下の御前に出ることを禁じられております。我ら夫婦が代わってお詫び申し上げることをお許しください』
どこまでも武士らしくアッヘンヴァル侯爵は言い、ヘルマンとその母ティアナの顛末を話してくれた。




