26・転生ものぐさ皇妃と超ピピン
「『アダマン王国最後の王にしてソベリオン帝国初代皇帝アンドレアスは、偉大な帝王であった。反目し合っていた諸部族を融和させて臣下に加え、不入の土地を跋扈する魔獣を討伐し、版図を拡大していった』……アンドレアス? 今の皇帝陛下と同じ名前なのね」
ふかふかのソファに埋もれるように座り、ガートルードは眉をひそめた。
広げている分厚い本は帝国の歴史書だ。異国から嫁いでくる幼い皇妃のため、宮殿の図書室に備えられていたものである。
図書室にはガートルードくらいの少女向けの絵本や画集などの蔵書もたくさんあったが、画集はともかく、絵本は前世との合計三十六歳が読むにはとても物足りない。しかし大人が楽しめそうな娯楽小説のたぐいはなく、もちろん漫画も存在せず、ガートルードは前世のエンターテイメントのレベルの高さを思い知らされた。
ならばと歴史書を手に取ったのは、食っちゃ寝ライフを送り人前にはほぼ出ないとはいえ、帝国皇妃として最低限の知識くらいつけておきたかったからだ。
そんなふうに思えるようになったのは、擦りきれかけていた魂がレシェフモートに癒されたのと、たった三歳の皇子のおかげかもしれない。
ガートルードがどうしたいのか、初めて気にかけてくれた。とても三歳とは思えないほど大人びた……老成してすらいた少年。
「『即位後、初代皇帝アンドレアスは妹のブリュンヒルデ皇女と共に、沼の王と呼ばれる魔獣の王を討伐し、その名声を確固たるものとした。四肢と引き換えに沼の王にとどめを刺したブリュンヒルデ皇女は、特別な勲章を授与され、聖ブリュンヒルデと称される』……わたしがもらった勲章のもとになった方か。初代皇帝の妹だったのね」
ぱらりとページをめくり、ガートルードはため息をつく。
四肢と引き換え。さらりと書かれているが、なかなかに壮絶な戦いだ。
ブリュンヒルデ皇女の偉業は王国を発つ前にも聞かされたが、この書き方だと、ブリュンヒルデ皇女は四肢を失った後も生きていたのだろう。聖ブリュンヒルデ勲章も、もとは彼女の余生を安らかにするために創設されたそうだから。
この世界の医療水準は前世とは比べ物にならないほど低いが、治癒魔法が存在する。初代皇帝は貢献してくれた妹のためなら一流の治癒魔法使いを揃えたはずだし、手厚い介護も受けられただろう。
誰もが彼女の前にひざまずき、敬意を払い、どんな命令にも従う。
それでも、ガートルードなら幸せだとは思えなかっただろう。あんなにつらかった前世の暮らしの方がましだとすら思える。少なくとも誰の手も借りず自分の脚で好きな時に動き、なんでもできたのだから。
しかしブリュンヒルデは兄である初代皇帝を非常に慕っていたそうで、兄の治世に貢献できた自分を誇りに思っていたようだ。
歴史書を読み進めていくと彼女は十五歳で四肢を失い、四十四歳の時、八歳上の兄の死と同時に亡くなったということがわかってきて、ガートルードは複雑な気持ちになってしまった。
兄のため四肢を捧げ、身動きすらままならない状態で二十九年もの長い時を生き、兄と同時に死んだくらいだ。ブリュンヒルデはきっと兄を心から慕い、四肢を捧げたことにも後悔などしなかったのだろう。
そこは終わらない育児に心底嫌気が差していた前世のガートルードとは違う。……違うけれど。
(好きなことのためなら見返りがなくても人生を捧げるって……、それっていわゆる『やりがい搾取』ってやつなんじゃないの?)
いや、仮にも皇女を前世のサラリーマンと同等に扱うのはどうかと思うし、ブリュンヒルデ自身は心から満足していたのだろうけれど、搾取される側は自分が搾取されているとは気づかないものだ。
そして搾取する側はされる側の自尊心やら誠意やらをうまくくすぐって操り、搾取されている事実を悟らせない。あくまで好きでやっていることだと思わせる。
(……どうしよう。なんだかアンドレアスがブラック企業の社長みたいに思えてきちゃった。あ、アンドレアスって今の陛下じゃなくて初代の方……)
初代皇帝アンドレアスと、現皇帝にして第六代皇帝アンドレアス。……ややこしい。面倒くさい。
ガートルードは前世の世界史の授業を思い出した。同じ名前の国王や王族が次々と登場し、ジョンとリチャードとエドワードとウィリアムは使用禁止にしたくなった、苦い記憶だ。偉大な先人にあやかりたいのかもしれないが、どうして王侯貴族は同じような名前ばかりつけたがるのか。
「あ……そうだ。超ピピンだ」
「超ピピン、でございますか?」
ぽんと手を打った時、長い髪をゆるい三つ編みにしたレシェフモートが現れた。手に持つ銀のトレイには、今日のおやつであるパンケーキがのせられている。
「わあ……!」
ガートルードは歓声を上げた。
パンケーキも様々な種類があるが、レシェフモートが作ってくれたのは分厚く、それでいてふわふわに焼き上げたスフレパンケーキだ。
こんもりと三段積まれたてっぺんにはバニラアイスとチョコアイスと何種類ものカットフルーツ、生クリームがトッピングされ、さらにキャラメルソースと蜂蜜とチョコレートソースがたっぷりかけられている。
前世で一度は食べたいと願い続け、有名店やカフェチェーンのホームページを眺め、結局叶わなかった夢が現実となって現れたのだ。ジョンやリチャードもろもろへの恨みなんて一瞬で忘れてしまう。
「すごいわ、レシェ! わたしの記憶だけでこんなに素敵なパンケーキが作れるなんて!」
笑顔を弾けさせるガートルードに、レシェフモートも嬉しそうに微笑む。
「喜んで頂き嬉しゅうございます。我が女神がお望みだったものを、再現できているといいのですが」
「それ以上よ。こんなに美味しそうなの、見たことなかったもの。……食べてもいい?」
「もちろんです。おかわりもありますから、たくさん召し上がれ」
パンケーキを給仕したレシェフモートが隣に座るのを待ち、ガートルードは添えられていたナイフを綺麗な焼き色の生地に入れた。すっとなんの抵抗もなく切れたかけらを、まずは各種ソースがかかっただけの状態で味わう。
「美味しい……!」
噛んだ瞬間じゅわっと溶ける生地に甘いソースが絡み、複雑で極上の甘味を織り上げる。ガートルードはどんどんぱくつきたい衝動をこらえ、また切り分けたかけらをフォークに刺すと、今度はレシェフモートの口元に差し出した。
「我が女神……?」
きょとんとするレシェフモートは、ガートルードがなにをしたいのか本気でわからないようだ。
(自分は何度もわたしにやったくせに)
「レシェも食べて」
ガートルードは苦笑し、ずい、とフォークを近づけた。反射的に開いた口へそっとパンケーキを押し込めば、レシェフモートはぱちぱちと何度もしばたたきつつも素直に食いつき、咀嚼する。
「どう? 美味しいでしょう?」
「……はい、とても。こんなに美味しいものを頂いたのは初めてです」
(そうでしょう、そうでしょう。パンケーキは最高なんだから)
夢見るようにうっとりされると、自分が作ったわけでもないくせに誇らしくなってくる。
ガートルードはもう一切れ切り分け、今度はイチゴをのせて差し出した。金色の瞳をガートルードに据えたまま、レシェフモートはパンケーキに食いつく。
「っ……」
金色の瞳の奥に揺らぐ蜃気楼にも似た炎に、心臓が跳ねる。
『私も……貴方を理解したい。そう思います』
そう誓ってくれたあの日から、半月ほど。レシェフモートとの関係は少しずつ変わりつつある。
常にその腕に収まったり、日常のすべてをレシェフモートに任せきりにすることは減り、ガートルードが自ら動くことが増えてきた。
身体的な接触はかなり減ったと思う。
だが影のように寄り添い離れないレシェフモートの存在を、ガートルードは以前よりも強く意識させられるようになった。
ふとした瞬間に。
同じベッドに横たわり、その腕に包まれる夜。目覚めて額に口づけられる朝。その膝の上でくつろぐ昼間。
いつでも、金色の瞳の奥には炎が揺らめいているから。
出逢ったばかりのころとは、なにかが確実に違う。ただガートルードを包み離さないだけではない。まるでずぶずぶと沈んでいくかのような――。
「我が女神」
いつの間にか食べ終えたレシェフモートが、ガートルードの手からそっとフォークを取り上げた。大事そうにガートルードを抱き上げ、己の膝に乗せる。
「今度は私が。……さあ、お口を開けて」
耳元に唇を寄せられ、ガートルードはびくっとしながら口を開けた。熱を帯びていく耳たぶに、笑みを含んだ吐息がかかる。
どうしよう。このままでは熱が出てしまいそう……などと悶えていたのは短い間で、タイミングよくパンケーキを食べさせてもらううちに、ガートルードは平常心を取り戻していた。
「超ピピンっていうのはね、前世の王様なんだけど、ご先祖に同じ『ピピン』って名前の王様が何人もいたから、区別するために超をつけたの。確か大ピピンと中ピピンもいたはずよ」
問われるがまま、超ピピンについて解説してやる。歴史書で学んだソベリオン帝国の歴史や、初代皇帝とブリュンヒルデ皇女についても。
「だからこっちでも、超ピピン方式を採用しようと思って」
「なるほど……初代皇帝アンドレアスが大アンドレアス、現皇帝のアンドレアスが超アンドレアスというわけですね。さすがは我が女神、たいへんわかりやすく素晴らしい」
「でしょう?」
えへん、とガートルードは胸を張る。超アンドレアスは形式上とはいえ、自分の夫なのだが。
「しかし大アンドレアスの次なら、中アンドレアスなのではありませんか?」
「それはそうなんだけど、超の方が格好いいし発音しやすいから」
「仰せの通り。ではこれから、かの皇帝は超アンドレアスといたしましょう」
にこやかに頷き合う主従を前世の世界史教師が見たら、肩を落とし泣いたにちがいない。
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