25・帝国の闇(第三者視点)
「重ね重ね、ありがとうございました。我らレヴィン一族、皇后陛下より受けし厚恩は未来永劫忘れませぬ」
深々と頭を下げた男が侍女に先導され、退出してゆくと、皇后コンスタンツェはぴんと伸ばしていた背をソファにもたれかけさせた。こういう時のコンスタンツェは構われるのを厭うと知っている侍女たちは無言で一礼し、控えの間へ去っていく。
(……『我らレヴィン一族』、ね)
数日前、元外務大臣にして元レヴィン伯爵がシルヴァーナ神殿へ護送された。貴族ではない、ただの平民ブルーノとして。
持ち込むことが許されたのは麻の神官服と、数枚の下着だけ。これからは皇后の親族として優遇され、分不相応な地位に在ったころとは比べ物にならないほど貧しく厳しい暮らしを送ることになるだろう。命尽きるまで、いち神官として。
元レヴィン伯爵がしでかした暴挙に対する罰としては、無罪と言ってもいいほど軽いものだ。女神の愛し子たる皇妃ガートルードに無礼を働き、その処罰を受けた身でお詫びに参上し、そこでさらに暴言を浴びせたのだから。
一族郎党、命で贖わされてもおかしくなかった。駆けつけたリュディガーは決闘を申し込んだそうだから、元レヴィン伯爵はその場で命を失っていたかもしれないが。
実際、神使はレヴィン伯爵一族全員の命で償わせるよう、居合わせたヴォルフラムに迫ったという。
それがこんな温情と言うべき処罰に落ち着いたのは、ひとえにガートルードのおかげだった。ガートルードが元レヴィン伯爵の神殿入りを望んだからこそ、レヴィン一族は族滅を免れたのだ。
さすがの元レヴィン伯爵も命が助かった僥倖に感謝し、別人のようなしおらしい態度で護送されていったという。彼の妻子は伯爵の家族としての地位も権利も失い、子息など次期当主の座まで奪われたというのに、誰一人恨み言は口にしなかったそうだ。
罪人の一族として処刑されることに比べたら、その程度は容易に受け入れられるだろう。
ヴォルフラムも救われた。
罪人とはいえ、元レヴィン伯爵は母皇后の数少ない後ろ楯の一人であり、ヴォルフラムを救うためガートルードについての情報を秘匿したと主張していた。そんな元伯爵とその一族をヴォルフラムの発案で処刑台に送れば、皇子としての求心力は減少を避けられなかっただろう。
さらにガートルードがヴォルフラムに謝罪するようヘルマンに求め、祖父アッヘンヴァル侯爵が同意したことで、ヴォルフラムはアッヘンヴァル侯爵家を味方につけることに成功した。
ガートルードがとりなしてくれても、シルヴァーナ王国がヘルマンの身柄を諦めるかどうかはわからない。だがどう転んだとしても、ヴォルフラムがヘルマンに慈悲を示した事実はアッヘンヴァル侯爵家を縛る。
現アッヘンヴァル侯爵フィリベルトは昔ながらの典型的な武人だ。受けた恩は絶対に忘れない。敵に回せば厄介だが、味方につけられればこれほど頼もしい存在はない。
……そうして今回の一件に関わった者すべてに感謝を捧げられるのが、ガートルードだ。
特に族滅を免れたレヴィン伯爵の一族は、ガートルードを女神のごとく崇め始めている。皇后の親族でありながら、コンスタンツェよりガートルードを優先するくらいに。
さっき爵位継承のあいさつとお礼言上に現れたのは、元レヴィン伯爵から爵位を譲り受けた新伯爵自身ではなく、その子息だ。
共に皇宮にやって来た新伯爵はガートルードの宮殿へ向かったと、侍女から報告があった。
日取りをずらせば、新伯爵がコンスタンツェとガートルードどちらの宮殿にも回れたはずだ。
なのに敢えて同日に新伯爵がガートルードを、子息がコンスタンツェを訪れたのは、コンスタンツェに対する意志表示だと思っていいだろう。新生レヴィン一族はコンスタンツェではなく、ガートルードを支持する――という。
「ガートルード皇妃、恐ろしい子……」
コンスタンツェのつぶやきをガートルードが聞いたなら、前世の某ロングセラー演劇漫画のライバルキャラを思い出しただろう。
「権力にも俗世にも興味がないというのは、見せかけだったというの……?」
――今日よりは皇妃として、両陛下の障りとならぬよう、この神使レシェフモートと共に皇宮のかたすみで生きることをお許しくださいませ。
帝国に混乱をもたらしたあのガートルードの発言に、コンスタンツェは心の奥底で安堵とかすかな優越感を覚えていた。
大陸で最も長い歴史を誇る王国の王女だった皇妃。しかも女神の血を引き、神使を賜り、奇跡まで起こしてみせた。新興国の伯爵令嬢だった皇后が勝てるのは正妻であり世継ぎの生母という地位と、夫アンドレアスの愛情くらい。
それでもコンスタンツェには、夫をここまで支えてきたのは自分だという自負があった。
アンドレアスは十年ほど前、父の先帝が病でみまかり、十八歳の若さでソベリオン帝国第六代皇帝の座についた。同時に婚約者……ブライトクロイツ公爵令嬢エリーゼと華燭の典を挙げるはずだったのだ。
しかし病弱だったエリーゼは式まであと半月足らずというタイミングで亡くなってしまい、アンドレアスは婚約者を喪った。
周囲の猛烈な反対を押し切り、結婚したアンドレアスとコンスタンツェに対する風当たりは強かった。民は恋を成就させた皇帝夫妻に熱狂したけれど、貴族の半数は敵に回った。
特にコンスタンツェを疎む者は多く、だからこそ元レヴィン伯爵のような愚物でも重用せざるを得なかったのだ。
逆境をくつがえすため、アンドレアスは自ら軍を率いて先帝も攻略しかねていた敵国アルスリアを攻め滅ぼした。コンスタンツェも常に親衛隊として同行し、時には自ら敵陣へ突撃した。
そうして二人で勝ち取った戦功により、貴族たちの心を少しずつ取り戻していった。
ようやく恵まれた世継ぎが瘴気を異常に取り込み、蓄積してしまう体質だった上、二度と子を望めない身体になってしまった時は、廃后を覚悟した。アンドレアスは高位貴族の令嬢を新たな皇后に立て、健康で血筋もいい世継ぎを作るだろうと。
けれどアンドレアスはコンスタンツェもヴォルフラムも守ってくれた。廃后はしない、新たな皇后を迎える気もないと貴族たちに宣言してくれた時は、こんなにも幸福でいいのかと思ったものだ。
ガートルードを皇妃に迎えたのだって、コンスタンツェのためだったはずだ。もはや子を産めないコンスタンツェが皇后であり続けるためには、ヴォルフラムに生きていてもらわなければならないのだから。
道具だと――仰々しく神々しい飾りだと思っていた。
飾りなら許せる。名目上とはいえ、愛する夫の側室になることを。
けれど実際のガートルードは、幼いながらも将来の美貌が約束された少女で……かつてうりふたつだという彼女の祖母に恋い焦がれた者など、どうにかして孫にガートルードを下賜してもらえないかと本気で懇願してくるほどだ。
しかも神使を賜るほど女神の寵愛を受けた愛し子。それでも俗世に関わらないのなら、息子の恩人としていくらでも頭を下げられるのに。
ガートルードには感謝している。あの幼い王女が家族と別れ、一人の係累もいない帝国へ来てくれたから、ヴォルフラムは助かったのだ。
引き換えにガートルードは女としての幸せすべてを奪われた。彼女の犠牲には全力で報いなければならない。
その気持ちに偽りなどないのに。
ガートルードの、帝国での母親でありたいと思っているのに。
(なぜ……)
「陛下、……陛下」
うつむき、額を押さえていると、控えていたはずの侍女が遠慮がちに声をかけてきた。コンスタンツェの兄の娘、すなわち姪に当たり、まだ若いが忠義に篤く信頼の置ける数少ない侍女だ。
「どうしたの?」
心配させないようにと微笑めば、侍女はほっと頬をゆるめたが、すぐにまた緊張を帯びる。
「陛下に献上品が届いております」
「献上品?」
皇后への献上品はめずらしくない。まず侍女が受け取って目録に残し、貴重なものや無視できない相手からの品であればその都度コンスタンツェに報告される。
今回は、後者だった。
「はい。……ブライトクロイツ公爵様から、ご子息ジークフリート様が間もなく帝都へ戻られるので、その喜びをぜひ皇后陛下とも分かち合いたいと」
ブライトクロイツ公爵。
子息ジークフリート。
かつての主人の父と兄の名に、コンスタンツェはひゅっと息を呑む。同時に湧いてきた思いは、『ありえない』だ。
ブライトクロイツ公爵は夫アンドレアスの伯父である。
アンドレアスの父、先帝は三兄弟の次男であり、ブライトクロイツ公爵は長男だった。リュディガーの父であるフォルトナー公爵は三男だ。
先帝の存命中、誰もが次の皇帝は長男のブライトクロイツ公爵だと考えていた。ヴォルフラムのように生まれつきの病弱でもなくいたって壮健で、文武両道に優れ、人望もそれなりにあった。母皇后譲りの黒髪にオパールのような瞳がなんとも魅惑的で、当時の貴族令嬢は誰もが一度はブライトクロイツ公爵に恋したという。
そんな第一皇子が後継者になるのは当然だ。
しかしふたを開けてみれば、皇太子に任命されたのは次男の先帝だった。
ブライトクロイツ公爵は『納得できない』と激昂し、先帝すら『自分は帝王の器ではない』と兄を支持したのだが、先々帝の決定はくつがえらなかった。
かくして『父から受け継いだのは金髪と翡翠の瞳だけ』と揶揄される先帝が帝位につき、ブライトクロイツ公爵は公爵として臣下に降った。
兄への引け目を抱く先帝は、自分に息子アンドレアスが、兄に娘エリーゼが生まれると、二人が物心つく前に婚約させた。今さら兄に帝位は譲れなくても、兄の孫が皇帝になれば兄も満足し、自分の罪悪感もやわらぐ。そう考えたのだろう。
だがエリーゼは花嫁になる前に亡くなってしまった。その後釜に納まったコンスタンツェを、ブライトクロイツ公爵は公然と無視してきた。
公爵にしてみれば愛娘を喪った傷も癒えぬうちに、飼い犬に手を噛まれたようなものだ。自分の立場をかんがみればとがめることもできず、なにかされたわけではないのだからと己に言い聞かせ、ここまできてしまった。
当然、ブライトクロイツ公爵から献上品などもらったことはない。……それが突然、ジークフリート帰還の喜びを分かち合いたい?
(ジークフリート様……)
ブライトクロイツ公爵家を継ぐはずだった貴公子は、妹エリーゼの死後、自ら対魔騎士団へ志願し、辺境の不入の土地を転戦している。
激しい戦いで片目を失った時さえ帝都には帰らなかった彼が、このタイミングで帰還するのは……やはり、ガートルードの存在ゆえなのだろうか?
物思いにふけるコンスタンツェのもとへ、ブライトクロイツ公爵からの献上品が届けられる。
それは見事な細工の花瓶に活けられた、大輪の黒い薔薇の花束だった。
危険な毒や魔法が仕込まれていないかどうか、事前に侍女が入念に点検してくれたはずだ。
だが露に濡れた黒薔薇を見た瞬間、コンスタンツェはめまいに襲われる。
――ねえ、コンスタンツェ。
記憶の奥底で、黒髪の可憐な少女が夢見るように微笑む。
――私は絶対、愛するあのお方の妻になるわ。その日が待ち遠しくて仕方ないの。
「エリーゼ、様……」
黒薔薇はかつての主人が愛し、紋章にも用いた花だった。




