23・転生ものぐさ皇妃、異形の獣と共に在るために
時は戻り、レシェフモートがガートルードを抱き、ヴォルフラムたちの前から去ったしばし後――。
「ぐすっ……、うっ、ううっ……」
ガートルードは悲しげなすすり泣きで目を覚ました。
横たえられていたベッドからのろのろと身を起こすが、レシェフモートの姿はない。いつもならガートルードを腕の中に収め、目覚めたガートルードに極上の微笑みをくれるのに。
「き、き、き、きらわれ、た……わが、めがみ、ニ……」
遠くから聞こえてくるのは、耳になじんだレシェフモートの声だ。嗚咽混じりでもなお魅惑的なそれは、いつもよりほんの少しだけくぐもっている。
(レシェ……?)
ガートルードは息を殺し、ベッドを囲む薄絹のとばりを細く開き、外を覗いてみる。すると、まっしろで巨大な物体が薄暗がりでぷるぷると震えていた。
(つきたてのお餅!? ……って、ちがうわ、レシェだわ)
人間バージョンではなく、狼の肉体に蜘蛛の脚を持つ異形の獣バージョン。出逢った時よりずいぶん小さいのは、一応部屋を破壊しないようにという配慮だろう。蜘蛛の脚を器用に折りたたんでいるので、巨大なお餅のように見えるのだ。
(転生してからお米も見かけてないし、たぶん王国にも帝国にもお餅は存在しないわよね)
あんころ餅、大根おろし餅、磯辺巻き。
懐かしい味を思い出しながら、ガートルードはそっとベッドを降り、つきたてのレシェフモートに近づく。
「もう駄目だ駄目ダ、ダメだ、我が女神が、わが、めがみ、がっ」
うなだれた狼の口が、呪詛のようなつぶやきを紡ぎ続ける。大きな金色の瞳からはひっきりなしに涙がこぼれ続けている。
「我が女神が、わ、私を、要らない、と」
かつてはあまたの人々に恐れられたという魔獣の王――北の王。女神シルヴァーナにさえ一目置かれた存在。
「私の、私ノ、手を、拒んで」
ぼた、ぼた、ぼた。
滂沱の涙を流す異形を誰かが見れば、恐怖で逃げ出してしまうだろう。
でも、ガートルードはまた一歩を踏み出した。ガートルードの目には、今のレシェフモートは雨に打たれた捨て犬にしか見えなかったから。
(捨て犬じゃなくて、捨て狼? いや捨て狼蜘蛛?)
どうでもいいことを考えつつ、まっしろな毛皮にそっと手を伸ばす。
ふだんのレシェフモートならガートルードが目覚めた瞬間飛んできて世話を焼き始めるのに、ただ震えている。そのことにガートルードの胸は締め付けられる。
「レシェ」
「……ッ!」
ふわふわの毛に触れた瞬間、異形の獣はびくっと巨体を跳ねさせた。
けれど、金色の瞳はこちらを見ない。振り向いたらガートルードが消えてしまうとでも、恐れているかのように。
「どうして泣いているの? そんなところで、ひとりぼっちで」
「う、わ、わガ、女神」
「……わたしがレシェの腕の中から出たから、だからわたしに嫌われたって思っているの?」
レシェフモートは答えなかったが、またぼたぼたとあふれた涙はなによりも雄弁な答えだ。ガートルードはため息をついてしまった。呆れられたと思ったのか、またびくっとする巨体をぽんぽんと叩く。
「ちがうわ、レシェ。呆れたんじゃないの。ただわたしたちは似た者同士だと思っただけ」
「似た、者……?」
「その人の一面だけを見て、わかったつもりになってしまう。自分と相容れないところがあると薄々気づいていても、気づかないふりをしてしまう。なにも言わなければ円満に回っている関係に、波風を立たせたくないから」
噛み締めるように告げる言葉は、ガートルード自身に向けたものでもあった。
本音でぶつかり合うことが人間関係を深めるとわかっていても、できなかった。むき出しの感情をぶつけ、自分も受けとめるのはひどく疲れるから。……ガートルードがもう家事も育児もしたくないと本音を口にしたところで、誰も聞き届けてはくれないから。
ならば言われるがまま、はいはいと従うだけの方がずっと楽だった。
それで前世の櫻井家はすべてがうまく回っていた。少なくとも、佳那が死ぬまでは。
ガートルードに転生してからも、きっと無意識のうちに避けていたのだろう。他人とまっこうから向き合い、自分の意見を主張することを。唯一の例外は、帝国行きを志願した時くらいで。
食っちゃ寝ライフさえ享受できればいいと思っていた。いないも同然の存在なら、みな放置しておいてくれるだろうと。レシェフモートはそのための、最高の護符になってくれると――そんな下心は確かにあった。
ガートルードにかしずき、お世話したいという欲望さえ満たしてやれば。
引っかかるものを感じても、黙っていれば。
レシェフモートにとっての『女神』でいれば。
今世でも全部、全部うまくいくんだって。
(そんなわけ、なかったのに)
今世でガートルードを取り巻く人々は、ガートルードを搾取しようとする者ばかりではない。レヴィン伯爵のようなどうしようもない者もいれば、リュディガーのように方向性は違えどガートルードを守ろうとしてくれる者も、ヴォルフラムのようにガートルードの意志を尊重してくれる者もいる。
彼らはガートルードがどんな人間なのか知らないのだから、ガートルードの希望通りに動いてくれないのは当たり前だ。
レシェフモートだってそう。ガートルードがなにをされても受け入れ、反対なんてしてこなかったから、ヴォルフラムにレヴィン伯爵一族を皆殺しにさせようとした。ヴォルフラムを試すのもあるだろうが、一番はきっと、そうすればガートルードを守れると思ったからにちがいない。
皇后の親族でもあるレヴィン伯爵一族を処刑させた皇妃に、人々は畏怖を抱くだろう。絶対に手出しをしてはならないと危機感を持つかもしれない。
でもその一方で、レヴィン伯爵一族にゆかりある者はガートルードとレシェフモートを憎む。
(そんなの、絶対に駄目よ)
ガートルードはなんの気兼ねもなく、心から食っちゃ寝ライフを楽しみたいのだ。あまたの犠牲の上に成り立つ食っちゃ寝ライフなんて、ガートルードの望む食っちゃ寝ライフではない。
ガートルードはだらだらできて幸せで、ガートルードの周囲の人々もガートルードを食っちゃ寝させられて幸せ。
それこそ自分の求める食っちゃ寝ライフだと、ガートルードはやっと気づけたのだ。
(……ヴォルフラム皇子、貴方のおかげで)
不思議に懐かしい面影を思い浮かべると、心が温かくなる。
ガートルードは知らず微笑み、ふわふわの毛皮を撫でた。
「レシェ、わたしたちはもっとお互いをよく知らなくちゃならなかったのよ。うわべのことだけじゃなく、なにが望みで、なにが絶対に受け入れられないのか。……一生、一緒に生きるためには」
「――、――!?」
狼の口から言葉にならない悲鳴がほとばしり、ぐいんっ、と巨大な顔がこちらへ向けられる。涙に濡れた金色の瞳が綺麗だと思った。ヴォルフラムの翡翠の瞳に負けないくらい。
「一生、一緒にと、おっしゃい、ましたか?」
「言ったわよ」
「わ、私を、……このレシェフモートを、お嫌いになったのでは、……ないのですか?」
鋭い牙がぶつかり合い、かちかちと音をたてる。
その牙がかすめただけでも、ガートルードのもろい肉体は簡単に引き裂かれてしまうだろう。
「嫌いな人と一生一緒にいたいなんて、思わないわ。あのね、レシェ。人間の心ってゼロか百かじゃないの。好きだけど受け入れられないことも、好きだからこそ許せないこともある」
人間ではない――弱い人間の心など慮る必要のない魔獣の王に、どうすれば伝わるのだろう。
悩みながらガートルードは言葉を選んでいく。
これからもずっと、この獣と共に在るために。




