18・転生ものぐさ皇妃、おごれる者も久しからず
「下ろして、レシェ」
ガートルードが静かに命じると、小さな身体を抱く腕がぴくりと震えた。
「我が女神……?」
「下ろしてと言ったのよ、レシェ。聞こえなかったの?」
驚愕と悲しみの入り交じった気配が伝わってくる。
撤回して欲しい。嘘だと言って欲しい。レシェフモートの気持ちは強くなるばかりの震えが物語っているけれど、きっとここで引き下がってはいけないのだ。
この獣と、ずっと共に在るのならば。
震える腕がそっとガートルードを下ろす。
大地を踏み締める久しぶりの感触が、なんだか懐かしかった。レシェフモートと出会って以来、自分の脚で立つのは初めてかもしれない。
(……大きい)
立ち尽くすレシェフモートを見上げ、今さらながらに思う。きっと二メートルはあるだろう。
ガートルードの姉姫たちはみな小柄で華奢だから、ガートルードが大人になってもせいぜいレシェフモートの胸に届くかどうか。本性の異形の獣に戻られたら、どんなに屈強な人間だって敵いっこない。
圧倒的な身長差は、そのまま今のガートルードとレシェフモートの差だ。
死ぬまで埋まらないのかもしれない。でも、その差に呑み込まれたままでは、真の食っちゃ寝ライフは送れないとガートルードの勘が告げている。
なぜならレシェフモートはガートルードさえ腕の中に収めお世話していられればあたり一面屍だらけでも構わないが、ガートルードは周囲の人々にも安らかであって欲しいからだ。
何もせずただ食っちゃ寝してばかりの姫一人くらい、仕方ないなと笑って見過ごせる。何なら高級チョコレートの詰め合わせでも差し入れしてやるかと思える。そんな心の余裕は、屍の山からは絶対に生まれない。
(前世では『おごれる者も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし』とも言ってたしね)
そう、ご飯をおごってくれる人もいつまでもおごってくれるとは限らず、春の夜の夢のようにあてにならない。ならばよりたくさんのおごってくれる人を確保せねばならず、その数が多ければ多いほど食っちゃ寝ライフは安泰かつ豊かなものになる。
前世の知識の賜物だ、とガートルードは得意になるが、前世の国語教師が聞いたら泣くであろう。
形式上の夫アンドレアスは皇帝という究極の地位に在るが、絶対に安泰な地位などない。前世だって、地位を追われたり暗殺されたりした王様はたくさんいたはずだ。
アンドレアスの身に何かあった時に備え、おごってくれる人を増やしておくためにも、ここでレシェフモートの要求を通させるわけにはいかない。
「ヴォルフラム殿下」
「……、はい」
ガートルードの呼びかけに応えるヴォルフラムは、レシェフモートとは比べ物にならないほど小さかった。ガートルードに比べても小さい。
弟妹たちの幼いころを思い出し、ガートルードは我知らずやわらかな笑みを浮かべる。ヴォルフラムとリュディガーがはっと息を呑んだのにも気づかずに。
「わたしは皇帝陛下より聖ブリュンヒルデ勲章を授かりました。この勲章を授かった者は皇帝陛下以外のいかなる者の命令にも従わなくて良いと聞いています。また、今回のレヴィン伯爵の無礼に関し、罰する権利は本来わたしにあると思いますが……間違いありませんか?」
「はい……、間違いございません」
ヴォルフラムが戸惑いながらも肯定してくれたので、ガートルードはほっとした。ここが間違っていたら詰むところだった。
「ならば、レヴィン伯爵は皇帝陛下が最初に命じられた通り、家督を親族に譲り、その後シルヴァーナ神殿に入ってください。……いち神官として。それがわたしの与える罰です」
「…………!」
ガートルード以外の全員の顔が驚嘆に染まる。それぞれの胸に渦巻く思いは見事なまでに異なっているが、ガートルードは気づかない。
「……皇妃殿下は、それでよろしいのですか?」
ヴォルフラムの問いに、ガートルードは神妙に頷く。
「ええ。それがわたしの考える、最も厳しい罰ですから」
帝国へ輿入れする道中、ガートルード一行はシルヴァーナ神殿に立ち寄った。帝国ではなく王国に所属する神殿だが、案内してくれたおじいちゃん神官によれば、どこの国の神殿でも神官の暮らしぶりはほぼ同じだという。
すなわち朝日が昇るのと同時に起床、冷たい水で身を清め、一年通して粗末な麻の衣だけをまとい、女神への祈りと奉仕という名の労働に明け暮れる。一日二度の食事は信徒から奉納された大地の恵み……と言えば聞こえはいいが、野菜と麦をそのままくたくたになるまで煮込んだだけのリゾット的な何か。ガートルードもごちそうになったが、滋味豊かで意外なほど美味しくはあったものの、一生これだけしか食べられないのは絶対に嫌だと思った。
肉食や美食は禁じられており、当然お菓子など口にできない。疲れはてて眠りにつき、短い睡眠の後はまた厳しい労働が始まる。
生きている限り、その繰り返し。還俗は基本的に認められず、よほどの事情がない限り俗世の人間との面会は許されない。手紙のやりとりすら厳しく制限される。
まさに食っちゃ寝ライフとは正反対の過酷な暮らしである。ガートルードが思い描く最悪の地獄がそこにある。
肉体労働などしたこともない戦力外のレヴィン伯爵が放り込まれれば、現場はきっと苦労することだろう。
だがレヴィン伯爵は単独では悪さのできない、徒党を組んでこそ本領を発揮できるタイプの悪党だ。神殿にも権力争いはあるだろうが、女神の愛し子に無礼を働き神殿入りしたレヴィン伯爵とつるみたい者はいまい。俗世で罪人として生きるより、女神への信仰篤い神官に交じって暮らす方が精神的にははるかにつらいはずだ。
「……皇妃殿下がそのように仰せなら、私に否やはございません。皇帝陛下にも報告の上、さっそくそう取りはからいましょう。寛大なるお心に感謝いたします」
ヴォルフラムが頭を垂れるや、青くなったり赤くなったりしていたレヴィン伯爵がとうとう白目を剥いて気絶した。ひとまずは一族郎党の処刑を免れたので、緊張の糸が切れたらしい。
「レシェ」
「……はっ」
ガートルードが促すと、レシェフモートは金色の目を光らせた。レヴィン伯爵たちを縛めていた蛇がかき消え、リュディガーもアッヘンヴァル侯爵も自由を取り戻す。
「……皇妃殿下。申し訳ございませんでした」
まっさきにガートルードの前にひざまずいたのはリュディガーだった。決闘を否定され、納得いかなそうだった空気は霧散し、貴公子らしい美貌は後悔と悲嘆に彩られている。
そんなお顔も素敵、と色めき立つ貴婦人やご令嬢は多いだろう。ガートルードは『何があったの!?』と困惑するだけだが。
「皇妃殿下のお心は海よりも深く、水底に眠る真珠よりも白く清らかでいらっしゃること、このリュディガー、わかっていたつもりで全く理解できておりませんでした。己の不明を恥じるばかりでございます……」
「フォルトナー卿……」
長いまつげを震わせながら懺悔されても、ガートルードはぽかんとするばかりだ。
海よりも深く真珠よりも白く清らかな心ってどんな心なのだろう。少なくともガートルードの心には食っちゃ寝ライフしか存在しないはずだけれど。
(肉まんみたいな感じ? 帝国に肉まんってあるのかしら?)
「私からも改めてお詫びを申し上げます、皇妃殿下」
ガートルードが面食らっている間に、今度はアッヘンヴァル侯爵が膝を折った。
「レヴィンめの薄汚い命など捧げては、愚かなるヘルマンにすら恩情をかけてくださった慈悲深き殿下のお心を穢してしまうところでした。……そやつも神殿でたった一人になった時、気づくでしょう。己が皇妃殿下にどれほどむごい仕打ちをしたのかを」
侯爵は失神したレヴィン伯爵に目を向ける。
リュディガーとヴォルフラムも続き、揃って嘆息した。彼らの心にもはやレヴィン伯爵に対する燃えるような怒りはない。渦巻くのは軽蔑と憐憫のみ。
これなら二度と決闘沙汰にはならないだろう。レヴィン伯爵は地獄の神官ライフを送るが、伯爵家の一族は救われた。彼らがガートルードを逆恨みすることもあるまい。
ガートルードの食っちゃ寝ライフは守られた。いざという時、ピザ持参で駆けつけてくれるだろうアッヘンヴァル侯爵というおごれる者も増えた。
なかなかの上首尾のはずなのに、なぜだろう。胸の不安が消えるどころかいや増すばかりなのは。
まるで、底なし沼に片足を突っ込んでしまったような――。
「……ぐすっ」
背後からこの世のあらゆる悲しみを煮詰めたような嗚咽が聞こえてくる。
それがレシェフモートのものだと気づいた時、ガートルードの意識は闇に呑まれていた。
おごれる者も久しからず、の正しい意味がわかった方はぜひ感想欄で!




