17・転生ものぐさ皇妃、最初の一歩を踏み出す
「皇妃殿下の……、お望み……」
リュディガーはヴォルフラムの言葉の意味がまるでわからないようだった。アッヘンヴァル侯爵もだ。
彼らに限らない。帝国男性のほとんどがリュディガーと同じ反応をするのだろう。
ヴォルフラムは、帝国においてあまりに異質な存在なのだ。
瘴気を異様に集め蓄積させてしまう体質だけではない。その心の有り様は生粋の帝国人でありながら、まるで。
(まるで、前世の世界みたいな……)
「ぐ、……はぁっ!」
咳き込んだレヴィン伯爵の口から蛇が抜け落ちた。喉を震わせ、レヴィン伯爵はにやりと笑う。
「聞……、聞いたかフォルトナー卿!? いやあ、さすがはかの皇后陛下と皇帝陛下の御子であられる。何と公正な目をお持ちか」
「……」
媚びる眼差しを向けられても、ヴォルフラムは喜ぶどころか嫌悪に眉をひそめる。
従者の表情も苦々しい。ろくに起き上がることもできなかったヴォルフラムを『欠陥品皇子』と嘲笑する貴族は多かったそうだが、きっとレヴィン伯爵もその一人だったのだろう。
「神使様もお怒りのことであるし、帝国の男として甚だ不本意かつ残念ではあるが、決闘を受けるわけには参らぬな。いやあ、まことにもって残……」
「黙れ」
ヴォルフラムが吐き捨てると同時に、新たに出現した蛇がレヴィン伯爵の喉をふさいだ。
レヴィン伯爵もさすがに悟っただろう。さっき蛇が外れたのは幸運でも偶然でもなく、レシェフモートがわざとやったのだと。……レヴィン伯爵の汚点をさらに晒させるために。
「伯爵、そなたは二人よりさらに罪深い。皇后陛下がそなたに感謝しているなどと、何の根拠があって申したのか。皇后陛下がそなたにそう仰せになったのか?」
「う、ううっ……」
レヴィン伯爵は鼻水を垂らしながら首を振る。
はあ、とヴォルフラムはため息をついた。
「仰せになってはいないのだな。ならば伯爵、そなたは勝手な当て推量で皇妃殿下を……引いては皇后陛下まで愚弄したことになる。罪は重い」
「っ……! ……!」
レヴィン伯爵は真っ赤になり、声にならない声を上げ続ける。裏切られたかの表情――いや、実際に裏切られたと思っているのだろう。ガートルードの来訪が早まることで、最も利益を得たのはヴォルフラムなのだから。
だからこそ、ヴォルフラムはレヴィン伯爵を容赦するわけにはいかなくなるのだが。
「まことにもって申し訳ございません、皇妃殿下」
ヴォルフラムは再びひざまずき、深く頭を垂れた。
「大臣解任と家督の委譲で許された身でありながら、かような暴挙に及ぶとは。もはやこの者の身をもって償わせるしかないと存じます」
「み、……身を、もって?」
「はい。……一族郎党利き腕を切断の上、不入の土地へ送ります」
「殿下、それは!」
声を上げたのはリュディガーだった。
ヴォルフラムの告げた罰は、決闘に及ぼうとしていた相手さえ驚かせるほどの厳罰なのだ。
後で知ったことだが、戦うことが存在意義である帝国貴族……特に男性にとって、武器を握る利き腕を奪われること、すなわち戦えなくなることはこの上ない屈辱なのである。
もちろん貴族男性全員が実際の戦場に出るわけではなく、レヴィン伯爵のような文官もあまた存在するのだが、そうした者たちとて有事には剣を取り戦うのが建前だ。罰として戦う力を奪われた者は、貴族でも男でもない腰抜けとさげすまれる。
「……っ!」
レヴィン伯爵の顔からみるまに血の気が引いていく。
アンドレアスから受けた処分は大臣解任と親族への家督の委譲。貴族としての身分まで奪われたわけではなかった。腐っても皇后の親族だからこそかけられた、最後の情けと言っていい。
大人しくガートルードに謝罪し、引退すれば、伯爵家を継いだ親族から生活費を支給されそこそこの暮らしを送ることもできただろう。
だが暴言を――レヴィン伯爵にしてみれば有益な提案をしたばかりに、最大の不名誉を与えられることになってしまった。自分のみならず一族郎党まで。
爵位を受け継ぐはずだった親族も連座させられるのだから、レヴィン伯爵家は断絶だ。いずれ勲功をたてた者に与えられることもあるだろうが、レヴィン伯爵の血筋はここで絶える。
「っ……、ぅ、……」
帝国貴族として最悪の末路をたどることになってしまったレヴィン伯爵の目から、とうとう光が失せた。アッヘンヴァル侯爵もリュディガーさえも、驚愕と憐憫を隠せない。
だというのに。
「その程度で済ませるつもりか? 帝国の皇子よ」
レシェフモートはまるで満足していなかった。獲物をなぶる猫科の猛獣のように、金色の目をすがめる。
「その者は許しを乞いに来た身でありながら我が女神を愚弄した。一度は許されたのに、だ。二度目は命で償うべきであろう」
うぐっ、とレヴィン伯爵が喉を震わせる。
その気になればレシェフモートはすぐにでもレヴィン伯爵の命を奪えるのだ。なのに敢えてヴォルフラムにこんな意地の悪い言葉をぶつけるのは。
「命で……と、おっしゃいますか。伯爵のみならず一族郎党、という意味でしょうか」
「それはそなたの解釈次第だな」
(試してるんだ)
ガートルードは直感した。
レシェフモートはヴォルフラムを試している。ガートルードへの贖罪のためにどれだけの命を犠牲にできるか。それによってどれだけの恨みを買う覚悟があるか。
立太子も危ぶまれているというヴォルフラムだ。女神の愛し子に暴言を浴びせたとはいえ、自分のために情報を握りつぶしたと主張する臣下、それも母皇后の親族を郎党含めて処刑するのはどう考えても悪手であろう。
しかしレヴィン伯爵のみの処刑でとどめるのもまたさらなる悪手である。
ヴォルフラムが犠牲にする命の数が、そっくりそのままガートルードの価値になるからだ。レヴィン伯爵のみの処刑で済ませるのなら、ヴォルフラムは命の恩人であるガートルードにその程度の価値しか見いだしていないのだと公言したことになってしまう。
皇帝に拝み倒され迎えられた皇妃と、皇后の親族とはいえ中級貴族に過ぎないレヴィン伯爵。二人の価値の差は、ダイヤモンドと路傍の石以上に大きい。
レヴィン伯爵家を一族郎党処刑すれば血も涙もない味方殺しの汚名を着せられ、温情をかけて助ければ恩知らずの謗りを受ける。
殺すも地獄、殺さぬも地獄。
どちらにしてもレヴィン伯爵は命を落とすことになる。
レシェフモートの提案を断る、という選択肢もないわけではない。
だが選べるわけがない。ガートルードの……その身に流れる女神シルヴァーナの力によって生き延びたヴォルフラムには。
「レシェ……」
――どうして? どうしてこんなことをするの? わたしはレヴィン伯爵に死んで欲しいなんて、思ってない。
言葉にならない問いかけは、レシェフモートには伝わったはずだ。けれどレシェフモートは甘く微笑むだけで、答えようとしない。前言を撤回する気配もない。
(……試されているのは、わたしも?)
レシェフモートにはそんなつもりなんてないのかもしれない。いや、きっとないのだろう。この獣はヴォルフラムを貶めつつ、ガートルードに害をなした者たちを罰したいだけだ。
そこにガートルードの意志は存在しない。
レシェフモートがガートルードのためにやることは、すべて受け入れられると思われている。
……それはなぜ?
簡単だ。今までガートルードがすべて受け入れてきたからだ。
今世に限らない。櫻井佳那と呼ばれていた前世も、ガートルードは受け入れた。子どもを作り続ける両親も、増え続ける弟妹も、終わらない育児も家事も、すべてを。
ガートルードの意志を尊重してくれる人なんて、いなかったから。
何をどう願っても、両親も弟妹も聞いてはくれなかった。ガートルードに求められたのは犠牲と奉仕だけだった。
だからガートルードはひたすら受け入れ続けた。擦りきれた雑巾みたいになって死ぬまで、ずっと。
(……でも)
ヴォルフラムをそっと見つめる。短い人生のほとんどをベッドで過ごすことを強いられ、つらい思いばかりしてきたのだろうに、ヴォルフラムだけが帝国でガートルードの意志を尊重してくれた。
ならば。
(ならば、わたしも――)




