16・転生ものぐさ皇妃と懐かしい面影
回廊から進み出てきたのは、太陽のようにまばゆい金髪の少年――ヴォルフラムだった。初めて出会ったあの時と違い、飾り気はないが皇子らしい上等な衣装をまとい、若い従者も連れている。
「さ、……皇妃殿下」
ガートルードの前でヴォルフラムは右手を左胸に当て、ひざまずいた。成人前の貴族男子が目上の相手に対して行う礼だ。若い従者も倣い、さらに頭を垂れる。
ガートルードは女神の愛し子であり、ヴォルフラムの命の恩人であり、皇帝の妃であり、ヴォルフラムの義理の母親でもある。立太子していない皇子よりは明らかに格上の身分だ。
だからマナー上、ヴォルフラムの行動は正しい――のだが。
(……何でだろう。何か、すごく違和感がある……)
彼とはもっとざっくばらんに、あいさつを交わしたことがあるような……同じ目線で、同じものを見ていたことがあるような……。
「先日は大変な無礼を働いたにもかかわらず、謹慎中の身ゆえ、お詫びに伺うこともできず申し訳ありません。偶然にも拝謁が叶い、光栄に存じ奉ります」
つっかえもせずすらすらと言上するヴォルフラムは、とても三歳には見えなかった。前世の弟妹たちが同じ年ごろだった時、こんなにしっかりとあいさつなんてできなかったはずだ。
「……わたしこそ、ごあいさつできて嬉しく思います。ヴォルフラム殿下は、どうしてこちらに?」
イヤイヤするどころかヘルマンなどよりもはるかに礼儀正しい皇子に面食らいつつも、ガートルードは尋ねた。さっきまでの焦燥感が消えつつあるのは、予想外の人物の登場にリュディガーもアッヘンヴァル侯爵もレヴィン伯爵も黙り込んでしまったせいだろうか。
「図書室へ行く途中、この三人のただならぬ声が聞こえてきたもので、何か一大事が起きたにちがいないと思い様子を窺いに参りました。……予想通りだったようですね」
立ち上がったヴォルフラムが厳しい眼差しを向けると、三人――特にレヴィン伯爵とアッヘンヴァル侯爵はばつが悪そうな顔になった。
謝罪のためガートルードの宮殿への出入りを許されたのに、決闘騒動に発展させてしまったのは誉められたことではない。しかもそれを皇子に目撃されてしまっては。
「……やはり、か」
ぼそりとつぶやいたのはレシェフモートだった。
そういえば、とガートルードは眉を寄せる。
(レシェはどうして、ずっと黙っていたのかしら?)
ヘルマンの時はすぐさま実力行使に出たのに、今回はほとんど口を挟まなかった。
命の危険はないとはいえ、決闘にまで発展したのに無言で見守っていたのはレシェフモートらしくない。ガートルードの心と食っちゃ寝ライフを乱させる者は、即座に排除されてもおかしくないのに。
(それに、『やはり』って……どういう意味? 何かを確かめでもしていたの?)
文字通り人間離れした美貌を思わず見上げれば、予想していたように向けられた金色の瞳と目が合った。にこりと微笑んだレシェフモートから魔力が立ちのぼる。
「わぁっ!?」
レヴィン伯爵が地面からとつじょ這い出た無数の黒い蛇に絡みつかれ、這いつくばらされた。抗議の声を上げようとした口にも蛇は入り込み、ただ唸るしかできなくなってしまう。
「ぐはっ……」
「っ……」
次いでアッヘンヴァル侯爵とリュディガーも蛇に拘束される。侯爵が膝をついたのに対し、リュディガーがかろうじて立ったままなのは、強い魔力ゆえだろうか。
「ソベリオンの皇子よ」
魔力の波動をまとったまま、レシェフモートはヴォルフラムを見下ろした。幼く小柄なヴォルフラムには、帝国男性と比較しても長身のレシェフモートはそびえる山のように見えているだろう。
「神使、様……」
「見るがいい。貴様の父親の臣下の愚鈍さを」
レシェフモートは見せつけるようにガートルードを抱き締め、虚空に視線を投げた。
するとレシェフモートの魔力が渦巻いてスクリーンのような幕を織り上げ、見覚えのある光景を映し出す。ひざまずくレヴィン伯爵とアッヘンヴァル侯爵、そこへ現れるガートルードとレシェフモート――ついさっきの光景だ。
ガートルードたちが現れてから今にいたるまでの経緯を、魔力のスクリーンは正確に再生した。たぶんリュディガーが使った炎と風の魔法を、さらに複雑にしたものなのだろう。その鮮明さは前世で見ていた動画と比べても遜色がない。
「……なんということを……」
再生が終わると、ヴォルフラムはぼうぜんとつぶやきを漏らした。
青ざめた横顔は痛々しく、ガートルードは前世の弟妹の幼いころを思い出し胸が痛くなる。ひざまずいたままの従者も心配そうに主を見上げている。
「あの、どうか気に病まれないでください、ヴォルフラム殿下。貴方のせいではないのですから」
ガートルードは思わず声をかけたが、ヴォルフラムは沈痛な表情で首を振った。
「いえ、皇妃殿下。お言葉はありがたく思いますが、彼らの行動には私も責任がございます。神使様も仰せの通り、彼らは我が父の臣下……我がソベリオン皇家に仕える者なのですから」
(し、しっかりしすぎ……!)
理路整然とした口調にガートルードはますます混乱する。目の前の少年は本当に三歳なのだろうか。
帝国皇子ともなれば特別な教育が授けられるのかもしれないが、ヴォルフラムは生まれてからほとんどをベッドで過ごしてきたのだろうに。
「レヴィン伯爵、アッヘンヴァル侯爵の両名が皇妃殿下のもとに参上したのは皇帝陛下のご命令だとしても、あくまで謝罪のためだったはず。皇妃殿下のお心をいたずらに騒がせることなど許されようはずがございません。ましてやそこにフォルトナー卿、貴方まで加わるとは……」
ヴォルフラムは嘆かわしげにリュディガーを一瞥する。父の従弟であり側近でもあるリュディガーはヴォルフラムにとっても親しい親戚のはずだが、翡翠の瞳ににじむのはまぎれもない非難の色だ。
「……お言葉ながら殿下、私は皇妃殿下に剣を捧げた身。我が淑女の名誉を守るために戦うのは、騎士の務めにございます」
同じ色の瞳で非難を受け止めるリュディガーからは、やましさのかけらも感じられない。女性のために剣を抜くのは当然だと信じて疑わないのだろう。
むしろ紳士のわきまえのないヴォルフラムを、親族としてたしなめているつもりかもしれない。
(これって、帝国の貴族女性ならたぶん喜ぶところ……なのよね)
リュディガーほどの美男子が自分のためにゲスな中年男と戦ってくれるのだ。ガートルードも生粋のこちらの人間なら、私のために争わないでなどと言いつつも悦に入っていたのかもしれない。
でも、ガートルードは。
「皇妃殿下が、それをお望みになったのか?」
「……!」
ガートルードがはっとしてヴォルフラムを見た瞬間、今日もポニーテールに結った髪が大きく揺れた。
跳ねる銀髪の尻尾にまぶしそうに目を細めたのは、つかの間。ヴォルフラムは毅然とリュディガーを見下ろす。
「騎士の務めだろうと、皇妃殿下がお望みにならないのならば何の意味もない。お心をわずらわせるだけだろう」
断言するヴォルフラムの声が心に染み入る。帝国入りしてからこちら、下にも置かぬ扱いを受けてきたけれど、疲れることの方が多かったのに。
(ああ、そうか)
これまでのガートルードへの厚遇はあくまでアンドレアスやコンスタンツェ、彼らに連なる派閥の貴族たちが押しつけてきたものだった。彼らがしたいこと、こうすれば喜ぶにちがいないと思ったことばかりを。
それはそれで、食っちゃ寝ライフを目指すガートルードにはありがたくはあったのだけれど。
(でも、ヴォルフラム皇子は初めて『わたしが何を望むのか』を気にかけてくれた)
前世ではひたすら弟妹たちや両親の希望に合わせてきたガートルードに、それは不思議な――胸がほんのり温かくなるような感覚をもたらした。




