3・転生ものぐさ王女の前世と今
自分の宮へ戻り、泣き続けるセシリーを下がらせると、ガートルードは大きなベッドに背中からぽすんと倒れ込んだ。将来の美貌を約束された顔に浮かぶのは悲嘆――ではなく歓喜だ。
(やった。ついにやったわ)
小さな拳を握り、わき上がる喜びを噛み締める。だらしなく崩れた顔、女王たちには絶対に見せられない。ガートルードは『姉の身代わりで帝国に差し出される、悲運の王女様』なのだから。
(これでやっと帝国に行ける。三食昼寝付き、食っちゃ寝のダラダラ生活が待っているんだわ!)
そう、ガートルードは帝国行きを悲しんでなどいなかった。むしろ心の底から喜んでいた。
なぜならガートルードには生まれる前の……前世の記憶があったからだ。
前世のガートルードは今世よりも文明的にははるかに進んだ世界の、日本と呼ばれる国に生まれた女性だった。名前は櫻井佳那。取り立てて美人でも不細工でもなく、頭が良くもなく悪くもない、ごく普通の人間だったと思う。
普通ではなかったのは家族だ。佳那は十三人きょうだいの長女だった。子ども好きな両親が後先考えず子作りにいそしんだ結果だ。佳那と一番下に生まれた妹は、十五歳の差があった。
両親が本当に好きなのは子どもではなく、子どもを作る行為だと気づいたのはわりと早かった。次々生まれる子どもたちに父はろくに目もくれず、母は最低限の世話をするだけで、赤ん坊が泣き叫んでも放置。
見かねた佳那が自分も幼いのに弟妹たちの世話をしてやるようになると、その時から育児は佳那の仕事になった。
来る日も来る日も増え続ける弟妹たちのおむつを換え、ミルクを飲ませ、離乳食を食べさせ、十二人分のイヤイヤ期や思春期にも向き合わざるを得なかった。弟妹たちに何かあれば呼び出されるのは佳那だ。
お世話役がいなくなると困るからと、部活動は許されなかったし、林間学校や修学旅行などにも行かせてもらえなかった。佳那はせめて修学旅行には一度でいいから行きたいと泣いて訴えたが、なら二歳と一歳の弟妹を連れて行けと母に言われて諦めた。
歴代の担任教師が心を砕いてくれなければ、学校へ通うことすら禁じられただろう。
授業が終わればすぐ走って帰宅しなければならなかったけれど、子どもの泣き声も聞こえず友達と過ごせる時間は佳那にとって唯一の救いであり潤いだった。
『佳那はヤングケアラーだよ。きょうだいの世話をする義務なんて佳那にはないんだから、いつか家を出て親とは縁を切った方がいい』
友達に忠告されるまでもなくわかっていた。自分の立場も、親からは離れるべきだということも。
けれど佳那がいなくなれば、幼い弟妹たちを誰が世話するのか。……後々考えてみれば、佳那がいなくなれば行政がどうにかしてくれるはずだし、本来ならそちらの方が筋なのだが、当時の佳那は一種の強迫観念に縛られていたのだろう。
『弟や妹を見殺しにするのか。お前は殺人者だ』
両親はことあるごとに佳那をそうののしった。佳那が家を出て行ってしまうことを恐れていたのだろう。
高校へは行かせてもらえなかった。佳那が中学を卒業した時、両親はこれで心置きなく佳那を働かせられると喜んだ。
弟妹の世話と家事だけで明け暮れる毎日を過ごすうち、佳那の心はすり減っていった。
弟妹が可愛くなかったわけではない。けれど自分とほんの二歳しか違わない一番上の妹や弟たちが部活動に励み、学校生活を満喫し、佳那が作った料理をもりもり食べ、満足そうに眠る姿を見るたび、心に黒いものが溜まっていったのだ。
たまたま一番最初に生まれただけで、家事も育児も一手に担わされる自分と、世話されるだけの弟妹たち。彼らと佳那の違いは年齢だけだ。
生まれる順番さえ違えば、佳那だってお世話される側だった。
もちろん一番悪いのは親の義務を放り出し、育てられもしない子を作り続ける両親だ。上の弟妹たちは成長するにつれ佳那の苦労を察し、色々手伝ってくれるようにもなったけれど、やはり櫻井家が佳那を中心に回っていることに変わりはない。
一番下の妹が中学を卒業した時、これでもう義務は果たしたと思った。高校にも大学にも行かず、家事と育児と生活費を稼ぐためのパートだけしかない生活を続け、佳那は恋もしないまま三十歳になっていた。
今後の人生は自分のために使いたいと願った佳那を、弟妹たちは応援してくれた。就職していた一番上の弟は家を出るために借りたアパートの保証人になってくれたし、成人した弟妹たちは家具や服、化粧品などもプレゼントしてくれた。
だが初めての一人暮らしをスタートさせたその日、めずらしく電話をかけてきた母がこともなげに言った。
『お父さんの方のおばあちゃんが倒れちゃってね、介護が必要になりそうなのよ。おばあちゃんちはあんたのアパートから電車で一時間くらいだし、通えるでしょ? 毎日通って介護してやってよ。何なら住み込みでもいいわよ』
『え、伯父さんや叔母さんは介護しないのかって? まっさきに逃げ出したわよ。他のきょうだいより援助してもらったんだから、お父さんが介護すべきだろうって言って聞かないの』
『あと、アタシ実はまた妊娠したの。さすがにもうできないだろうと思ってナマでやったら、大当たりしちゃって。恥かきっ子ってやつだけど、堕ろすのもかわいそうかなって。春くらいに生まれるみたいだからさ、おばあちゃんの介護のついでにお世話お願いね。おばあちゃんちに連れてっていいから』
父方の祖母が増え続ける孫たちの生活費にと援助をしてくれていたことも、それを両親が自分たちのギャンブルやブランド品購入のために使い込んでいたことも、佳那はその時初めて知った。
『ろくな学歴もないあんたじゃ、どうせどこにも就職なんてできないでしょ。働き口を用意してやったんだから感謝しなさいよね。おばあちゃんの年金は生活費と医療費に使っていいし、おばあちゃんが死んだら遺産からお小遣いくらいあげるから頑張れるでしょ?』
恩着せがましい母の声を聞いているうちに頭がずきずきと痛み始め、やがて後ろからハンマーで思いきり殴られたような激痛に襲われた。
あ、死ぬ。
本能で察した。これはもう助からないだろうと。
でも悲しくはなかった。再び押しつけられそうだったお世話地獄から、逃げられるのだから。遺される弟妹や倒れた祖母が心配ではあったけれど……。
来世があるなら、ひたすらお世話されながらぐうたら食っちゃ寝食っちゃ寝できる人生でありますように。
最期の瞬間、そんなことを願ったような気がする。
誰も聞いていないはずの願いは、別世界の神様に届いたらしい。
全身の激痛で再び目覚めた時、佳那はぺちゃんこに潰れた馬車の中にいた。櫻井佳那とは似ても似つかない美幼女――ガートルード・シルヴァーナになって。
小さな身体は両側から見知らぬ男女に抱きかかえられており、彼らは息をしていなかった。
二人がシルヴァーナ王国の女王と王配であり、ガートルードの両親であることは後になって知った。シルヴァーナの王女は三歳になるとシルヴァーナ神殿に詣でるのが伝統で、両親と神殿に詣でた帰り、ガートルードと両親の乗った馬車が地震によって崖下へ放り出されてしまったことも。
ガートルードが無事だったのは、両親が全身をクッション代わりにして守ってくれたおかげだったのだ。いや、ひょっとしたら本物のガートルードの魂も両親と共に逝ってしまい、からっぽになった身体に、たまたま同じタイミングで死んだ佳那の魂が乗り移ってしまったのかもしれない。
この世界は明らかに佳那が生まれ育った世界とは違うから、どうして世界を超えてしまったのかはわからないけれど。
神様の思し召し。
佳那はそう思うことにした。
ひたすらお世話されながらぐうたら食っちゃ寝食っちゃ寝したいという佳那の最期の願いを、神様が聞き届けてくれたのだろうと。シルヴァーナで崇められているのは破邪の女神シルヴァーナだから、シルヴァーナの思し召しか。
だってガートルードは五人姉妹の末っ子だった。数はだいぶ少なくなったが、佳那とは正反対の立場だ。長女のクローディアが十九歳、次女のドローレスが十七歳、三女のエメラインが十五歳、四女のフローラが十三歳、そして五女のガートルードが三歳だから、ガートルードだけだいぶ歳が離れている。
シルヴァーナ王家の人々は基本的に愛情深いらしく、歳の離れた末っ子は家族から溺愛されていた。四女のフローラだけは末っ子の立場を奪われたせいか、塩対応のことが多かったが、十二人のイヤイヤ期と反抗期に立ち向かってきた佳那からすれば可愛いものだ。
しかもガートルードは五番目ながら王女。ただ座っているだけでお世話役が何でもやってくれる身分だ。喉が渇く前にお茶とお菓子が用意され、王宮シェフが腕をふるった料理が供される。
ドレッサーにはひそかに憧れていた可愛いドレスがぎっしり。ガートルード自身も将来が約束された美幼女だ。
……両親が亡くなってしまったことだけは悲しかった。佳那の両親は自分を犠牲にして子どもを助けるなんて絶対にしない。子どもをクッション代わりにして自分たちだけでも助かろうとするような人たちだ。
ガートルードになって初めて、親の無償の愛情というものを知った。佳那は本当の娘ではないが、一度でいいから生きた二人に会ってみたかった。
などと、殊勝に考えていたのはせいぜい数日。
佳那はすぐガートルードの暮らしを満喫し始めた。憧れの食っちゃ寝ライフである。ちょっと心苦しくはあるが、何かへまをしても事故のショックのせいだと大目に見てもらえる。
三歳の世界は狭く、三十歳の観察眼をもってすれば簡単になじめた。
一年もすれば、自分は櫻井佳那ではなくガートルードだと自然に思えるようになった。ガートルードの肉体に引きずられたのかもしれない。
そして同時に、この食っちゃ寝ライフも安泰とは言いがたいのかもしれないとわかってきた。