9・転生ものぐさ皇妃とヴォルフラム
「ヘルマン……!」
薔薇の生垣から、太陽が飛び込んできたのかと思った。
それくらい、その少年は輝いて見えた。
歳はガートルードの半分くらいだろう。シンプルだが仕立てのいいシャツとズボンに包まれた身体は小さく、手足は痩せ細って華奢で、力強さを感じさせる要素は何一つない。
けれど。
誰もが透かし見るだろう。頼りなく幼い身体の向こうに、獅子帝と呼ばれる父親と同じ……いや、もっと凛々しく聡明な美丈夫の姿を。
たとえ今は愛らしさが勝る高貴な仔猫でも、十数年後には勇猛な獅子になる。
そう確信させる少年の正体を、ガートルードは知っていた。一度も会ったことはないけれど、わからないはずがない。
だって少年はアンドレアスと同じ金髪と翡翠の瞳の主だったから。
皇族特有の色彩を二つとも持ち合わせる人物は、皇帝アンドレアスを除けば二人しかいない。ガートルードに剣を捧げたリュディガー・フォルトナーと、ヴォルフラム皇子だ。
この少年がリュディガーでない以上、答えは一つだけ。
「……お……う、……じ……」
男の子がかすれたうめきを絞り出す。その顔は赤黒く染まりつつあり、もはや一刻の猶予もないと示していた。
魔力の蛇が細い首に絡みつき、嘲笑うように鎌首をもたげる。
「……お願い……」
女神の血を与えられた異形に、つい最近まで寝ついていたひ弱な少年が敵うわけがない。
わかっているのに、ガートルードは叫んだ。レシェフモートの腕の中から、銀髪のポニーテールが揺れるほど強く。
「……助けて! ヴォルフラム殿下!」
少年――ヴォルフラムははっと振り返り、大きく目を見張った。
ガートルードが誰なのか、ヴォルフラムも一目で察したはずだ。だがガートルードの揺れるポニーテールを凝視し、ヴォルフラムはガートルードではない誰かの名を口にしようとして。
「……お、……じ……」
「――!」
擦りきれそうなうめきで我に返り、男の子のもとへ駆け寄った。しゃがんだヴォルフラムが首の蛇を振りほどこうとした瞬間、驚くべき現象が起きる。
ジュウウウウ……ッ。
蛇はたちまち黒い煙になり、霧散してしまったのだ。レシェフモートの強い魔力で造り出されたはずの蛇が、あっけなく……あとかたもなく。
「な……」
レシェフモートが本気で驚くところなんて初めて見た。ガートルードはあんぐりと口を開けてしまう。蛇を消滅させたヴォルフラムの手には、傷一つなかったから。
(レシェの魔力をまともに浴びて無事とか、この皇子様、もしかしてすごい魔法使いだったりするの!?)
いや、だったら瘴気で寝ついたりはしないだろう。基本的に魔力の強い者ほど瘴気の影響は受けにくいと言われている。
「……許さぬ」
「っ!」
レシェフモートが呪詛のごとくつぶやき、ガートルードはびくりと震えた。
今は皇子様なんてどうでもいい。この怒れる獣を止めなければ、男の子は本当に殺されてしまう。さっきよりもさらにむごい方法で。
やめてと懇願するのは無駄だ。
だったら――。
「レシェ、そんな子に構わないで!」
ガートルードはレシェフモートの首筋にすがり、耳元で声を上げた。はっとしたレシェフモートの全身を包んでいた殺気混じりの魔力が、一瞬で消え去る。
「わ、我が、女神?」
「さっきからどうしてその子ばかり構って、わたしはほったらかしなの? ……さみしいわ」
「わ、わわ、我が女神っ!」
レシェフモートは歓喜と悲嘆が混ざりあった複雑な表情を浮かべ、それでも見惚れてしまうほどの美貌を輝かせる。
「お許しを、どうかお許しを……! 私はただ、我が女神に剣を向けた大罪人に罰を与えようとしただけなのです」
「本当? わたしよりその子がいいんじゃないの?」
「私が我が女神ガートルード様以外に心を奪われることなど、天地が逆しまになろうとありえません」
期待通りの答えが返ってきて、ガートルードは内心拳をぐっと握り締めた。
だが決して表には出さず、拗ねた表情を作る。
「そう。……じゃあ、その子にはもう構わないで。見るのも駄目よ。レシェはずっとわたしだけを見てなきゃ」
「もちろんですとも! ああ、私だけの女神……!」
ぎゅううっ……とガートルードを抱きすくめるレシェフモートは、あの男の子から完全に殺意も関心も失ったようだ。
よし、とガートルードは息を吐き、そっと視線をヴォルフラムに向ける。
じっとガートルードを見つめていたヴォルフラムは、目が合うや頬を染める。ガートルードは美少女だから、中身が三十路過ぎの主婦(独身)でも見惚れてしまうのも無理はない。
無言で頷いてみせただけで、ヴォルフラムはガートルードの意図を察してくれたようだ。
レシェフモートの言葉や落ちている剣から、おおかたの経緯も汲み取ったにちがいない。まだ三歳なのに、大人のような洞察力である。
万が一にも男の子が騒がないようヴォルフラムが見張ってくれる間に、ガートルードはレシェフモートをうながし、自分の宮殿に戻る。
コンスタンツェのお茶会は欠席だ。専属料理人のお菓子は残念だが、また機会はあるだろう。
じゅうぶんに離れてからそっと肩越しに背後を窺うと、ヴォルフラムが呼んだのだろう騎士たちが男の子を運んでいくところだった。
ヴォルフラムの翡翠の瞳がじっとガートルードを見つめている。
アンドレアスやリュディガーと同じ色のそれは、彼らと対峙した時にはなかった胸のざわめきをもたらした。
「ヘルマン、ヘルマン!」
ヴォルフラムの遊び相手として皇宮に上がった息子が倒れたと聞き、ティアナはとるものもとりあえず皇宮へ急いだ。姑は『落ち着いてもっとよく使者の話をお聞きなさい』と口うるさく注意してきたが、落ち着いていられるわけがない。
なぜ安全な皇宮で、可愛いヘルマンが倒れることになるのだ。今朝送り出した時はいたって元気で、皇子と剣の稽古をするんだと楽しそうだったのに。
きっとヴォルフラムが自分の代わりに騎士にでも相手をさせ、ヘルマンを打ちのめさせたにちがいない。きっとそうだ。
ずっと寝込んでいたヴォルフラムは、健康で優秀なヘルマンが妬ましくてたまらなかったのだ。だから卑怯な手段で痛めつけさせて……ああ、なんということ! やはりヴォルフラムは皇太子になんてなるべきではない!
怒りと悲しみで張り裂けそうな胸を抱えて皇宮にたどり着いたというのに、奥の宮殿には通してもらえず、中の宮殿に連れて行かれた。衛兵によって、まるで罪人か何かのように。
「ティアナ……なぜ来たのだ」
飾り気のない一室で待ち構えていたのは渋面の兄リュディガーだった。初めて訪れるが、ここは兄の……近衛第一騎士団団長の執務室らしい。
「なぜって、ヘルマンが倒れたと聞いたからに決まっていますわ。あの子の容態は? いったい誰があの子をひどい目に遭わせましたの?」
ヴォルフラムの仕業だろうと糾弾したいのをぐっとこらえて問えば、リュディガーは深いため息をついた。
「神使様だ」
「……はっ?」
「皇妃殿下の神使様だ。言っておくが非は神使様にはない。神使様は皇妃殿下をお守りしただけだ」
リュディガーの説明は、驚くことばかりだった。
ヘルマンはヴォルフラムに訓練用の剣を持たせ、打ち合っていたのだという。
六歳のヘルマンと三歳のヴォルフラム。ヴォルフラムが生まれた時から健康だったとしても、互角にやりあうのは難しい。体格も体力も違いすぎる。
ましてやヴォルフラムは最近やっと床上げを済ませたばかりの病み上がりだ。皇子たる者軟弱は許されないが、訓練をするなら熟練の指導者が限界を見極めながら慎重に行わなければならない。
なのにヘルマンは指導役の近衛騎士を押しのけ、自らヴォルフラムと打ち合っていたのだ。何のハンデも与えずに。
当然、まともな勝負になるはずもなく、ヴォルフラムは一方的に打ちのめされるばかり。その姿にヘルマンは調子に乗ってしまい、あろうことか皇子の脳天めがけ強烈な一撃を叩き込もうとした。近衛騎士が止めに入ろうとしたが、間に合わない。
決まっていればヴォルフラムは最悪、命を落としたかもしれない。
だがそこでヴォルフラムのかざした剣が、奇跡的にヘルマンの攻撃を防いだ。
まさか防がれるとは思っていなかったヘルマンは衝撃を受け流せず、その手から剣は弾き飛ばされた。薔薇の生垣を越え、さらに向こうまで。
「……剣が落ちたのは、コンスタンツェ様のお茶会に向かわれる途中の皇妃殿下の足元だった」
「――!」
ティアナの全身に渦巻いていた怒りが一瞬で鎮まった。一気に冷えた身体が小刻みに震えだす。
皇妃ガートルードは皇族だ。それも出自はシルヴァーナの王女であり、皇帝アンドレアスがヴォルフラム皇子のため輿入れを懇願したのである。
そしてヘルマンも皇族の一人だ。
皇帝に連なる者が、皇帝の懇願によって輿入れした皇妃に剣を向けた。そう言われても仕方のない状況だ。
それは、つまり。
「神使様はアンドレアス陛下が皇妃殿下を弑そうとしたと激怒され、ヘルマンの命をもって償わせようとなさった」
「ヒ……ッ!」
「だが皇妃殿下が神使様を必死になだめてくださり、ヴォルフラム殿下もかばってくださったおかげで、ヘルマンは命を取られずに済んだ。……絞め殺される寸前だったがな」
いくつもの感情がティアナの胸をぐるぐると駆けめぐる。
ヘルマンが助かった安堵と喜び。可愛いヘルマンを殺しかけた神使への怒り。ヘルマンがガートルードに剣を向け、皇帝との不和を生じさせてしまった恐怖。よりにもよって皇太子の座を争うヴォルフラムにかばわれた屈辱――。
「そ、……それで、ヘルマンは?」
「治癒魔法使いの治療を受け、今は眠っている」
「会わせてください! 邸に連れ帰り、看病してやらなければ……!」
神使に殺されかけ、どんなに恐ろしくつらく苦しい思いをしたことだろう。
ヘルマンは繊細で傷つきやすい子だ。早く家に連れ帰り、ティアナが看病してあげなければならない。
だが。
「駄目だ。許さない」
リュディガーの返答は無情だった。
今度は間に合った。




