8・転生ものぐさ皇妃、邂逅
ソベリオン皇宮はガートルードの目には巨大要塞に映ったが、大きく三つの区画に分かれている。
表の宮殿、中の宮殿、奥の宮殿である。
表の宮殿は役人や大臣の執務エリア。霞ヶ関の官公庁エリアのようなものだろう。
騎士団の詰め所などもこの区画にある。通行許可があれば誰でも入ることができ、功績のあった民が褒美に見学させてもらえることもあるという。
中の宮殿は皇帝の執務エリア。
ここに入れるのは基本的に大臣をはじめとする高級官吏か皇帝への謁見権のある高位貴族、あるいは皇帝から許可を得た者のみで、その許可を得るのは皇帝の信任を意味するため、非常に名誉なことだという。
あの謁見の間もここにある。
奥の宮殿は皇帝とその家族の生活エリア、完全なるプライベートスペースだ。
入れるのは当然皇帝とその家族、ごく親しい者や親族くらいである。ガートルードが招かれたお茶会はここで催される。
……といった情報をレシェフモートから教えてもらった時、ガートルードは思った。江戸城みたい、と。
江戸城も確か表、中奥、大奥と分かれていたはずだ。
終わりのない育児に明け暮れていた前世、数少ない楽しみが隙間時間に見る動画や時代劇の再放送だったので、ガートルードは妙に偏った知識を有している。
暴れん坊な上様が悪人を成敗するドラマや、女の牢獄な大奥で繰り広げられる愛憎劇は特にお気に入りだった。奥の宮殿に住まう女性はコンスタンツェのみなので、女の牢獄ではないのだが。
ともあれ奥の宮殿で催されるお茶会に招かれるということは、コンスタンツェとアンドレアスから大きな親愛を寄せられていることを意味する。
そうして皇后と皇妃の仲は良好だと周囲にもアピールしておきたいというコンスタンツェの意図も、何となく察せられる。
今後の食っちゃ寝ライフを円滑に回すためにも、スポンサーの望みはある程度叶えておきたい。あくまで『ある程度』であり、そのせいで忙しくなるような本末転倒な事態は断固ごめんこうむるが。
「綺麗なお花ねえ、レシェ」
ガートルードの宮殿と奥の宮殿をつなぐ回廊は吹き抜けになっており、庭園を眺めながら移動できる。咲き誇る白い薔薇に目を細めれば、レシェフモートは耳元でささやいた。
「我が女神の足元にも及びませんよ」
「……レシェってば、いつもそうよね」
花でも宝石でも風景でも、ガートルードが何か誉めるたびガートルードの方が上だと断言する。
「事実でございますから。この世に貴方よりも美しいものなど存在しません」
「レ、レシェ……」
「卑しく浅ましいこの獣を受け入れてくださった、我が女神……」
とろける金の瞳に、熟れた林檎よりも真っ赤になったガートルードが映り込む。
……レシェフモートは約束を破った女神シルヴァーナの代わりに、ガートルードをお世話したいだけだ。他には親愛の情くらいしか、存在しないはずなのに。
どうしてガートルードの小さな胸は、高鳴ってしまうのだろう?
気恥ずかしさに顔をそむけた時、風に乗ってかすかな声が流れてきた。気のせいかと思ったら、今度はもっとはっきり聞こえてくる。
「……ら、どうだっ!?」
まだ幼い男の子の嘲笑交じりの声に続き、何か硬いもの同士がぶつかる高い音。これは。
(……剣戟の音? こんなところで、どうして)
前世ではさんざん暴れん坊な上様の大立ち回りを拝んだし、今世でも姉の王太女ドローレスの訓練を何度か見学したから間違いない。これは鋼の武器がぶつかり合う音だ。
でもここ一帯は、皇帝の一族か特別な者しか入れない区域のはずなのに。
「レシェ……」
「引き返しましょう、我が女神」
きっぱり告げるレシェフモートにガートルードはこくりと頷いた。
騎士は騒いでいないし、声は明らかに子どもだから賊のたぐいではないはずだが、トラブルに巻き込まれるのはまっぴらだ。トラブルは食っちゃ寝ライフの大敵、君子危うきに近寄らずである。
しかし、いくら君子でもあちらから飛び込んでくるトラブルは避けようがない。
「うわあっ!?」
男の子の慌てた叫び声の直後、びゅん、と空を切って何かが飛んでくる。
「……下郎が」
氷のようなつぶやきを漏らし、レシェフモートは飛んできたそれに金の瞳を向けた。
まるで蛇に睨まれた蛙のごとくびくりと震えたそれは空中で勢いを失う。
ぽとりと地面に落ちたそれは、小振りな剣だった。
訓練用らしく刃は潰されているようだが、鋼鉄の凶器であることに変わりはない。これで思いきり殴られれば、骨が折れるだろう。
「おい! それを返、せ……」
剣を追いかけ、背の高い薔薇の生垣の向こうから駆けてきた男の子が声を失った。驚愕に見開かれた瞳は茶色だが、短く揃えられた髪は金色だ。では皇族の血を引くのか。
歳はガートルードと同じくらいだから、歓迎式典には参加していなかっただろう。
だが、ガートルードが何者かはわかるはずだ。
ポニーテールにされた銀髪。人妻は公の場では髪を結うという帝国の風習に合わせたのだ。
本来はもっと複雑な形に結い上げるらしいが、重たそうだし面倒くさいから前世と同じ髪型にした。
銀の色彩を持つのは、神々にゆかりある者のみ。
帝国に銀の髪を持つ女性は、皇妃ガートルードしかいない。子どもでも知っていることだ。
さらに、ガートルードを抱く銀髪の男。
神々の色彩をまとう、女神の遣い。ガートルードに仕える神使。
「その髪。……皇帝の一族だな」
落ちた剣を踏みつけたレシェフモートの声は、男の子には地獄から響いてくるように聞こえただろう。ガートルードさえすくんでしまう。
「う、あ……」
「我が女神の来臨をこいねがった皇帝の一族が、我が女神に剣を向けるとは。……皇帝は我が女神を弑し奉ろうというのか?」
ややあってレシェフモートの問いの意味をようやく理解したのか、男の子は真っ青になりながらぶんぶんと首を振った。
「ち、ち、違う! 殺そうとなんて、してない!」
「武器を向けておきながら殺すつもりはなかった、などという理屈が通ると思うのか?」
相手が子どもでも、いや、ガートルード以外の誰にでもレシェフモートは容赦しない。ガートルードを抱いていなければ、男の子はすでに八つ裂きにされているだろう。
レシェフモートの本性……蜘蛛の脚に銀狼の上肢の異形を思い出し、ガートルードは震える。
「く、訓練、だったんだ! 皇子が生意気に、俺の攻撃を、弾いたりするから……!」
「皇子?」
ガートルードは思わず声を上げた。トラブルの気配をひしひしと感じ取って。
今の皇宮に、皇子はヴォルフラム一人しかいない。
ガートルードが皇妃になるきっかけを作った皇子。絶賛イヤイヤ中かもしれないから会いたくない皇子が、この男の子と剣の訓練をしていたらしい。
(いやいや、無理でしょ)
ヴォルフラムはまだ三歳。健康な三歳と六歳でも体格、体力共に差がありすぎる。幼稚園児と小学生なのだから当たり前だ。
しかもヴォルフラムはガートルードのおかげで健康を取り戻したとはいえ、生まれてからずっとベッドで過ごしてきたのだから、普通の三歳児よりもひ弱だろう。
対して男の子は普通の六歳より体格がいい。まともに戦わせる方がおかしい。
「ガートルード皇妃殿下、助けて……!」
ドン引きされているとも知らず、男の子はすがるようにガートルードを見つめる。虎の、否、異形の獣の尾を踏んでしまったと教えてくれる者はいない。
「薄汚い羽虫のぶんざいで、我が女神の御名を口にするな」
「……!」
ひぐ、と男の子は喉をひくつかせ、へなへなと地面にくずおれてしまった。
必死にあえいでもまったく息を吸い込めず、どんどん真っ赤になっていく。幼い弟妹が目を離した隙に食べたプチトマトで窒息しかけた時とそっくりだ。
濃密な魔力が黒い蛇と化し、男の子の細い首に絡みついている。
「レシェ、駄目!」
ガートルードがレシェフモートの袖を引っ張ると、男の子を睥睨していたのとはまるで違う、慈愛に満ちた眼差しが向けられた。
「心配なさらないで、私の愛しい女神」
「レシェ……」
「ひと思いに死なせはしません。可能な限り苦しみを長引かせ、最期の瞬間までのたうち回らせて、罪を償わせますから」
(そういうことじゃないわよ!)
ガートルードは心の中で盛大に突っ込んだが、声には出せなかった。微笑むレシェフモートがあまりに美しくて――恐ろしくて。
(ああ、そうだ。この男は化け物だった)
当たり前の事実を、改めて思い出す。
化け物だから人間に容赦はしない。獣だから、獲物であるガートルードを奪おうとする者に身のほどをわきまえさせようとする。
ガートルードには止められない。
止めさせてもらえない。
(誰か……)
こんなこと、ガートルードは望んでない。食っちゃ寝ライフは穏やかで、平和に満ちていなければならない。
(誰か、レシェを止めて……!)
祈るように目を閉じた時だった。
「……ヘルマン? 何があった?」
高く澄んだ、幼い声が聞こえてきたのは。




