6・皇妃を取り巻く状況(第三者視点)
時間は四日ほどさかのぼる。
歓迎式典の翌日だ。
「皇妃殿下は疲労のため寝つかれてしまわれたそうです。授与式にはお出ましになれないと、神使様が仰せになりました」
「……そうか」
ガートルードの宮殿へ迎えに立った使者は、面目なさそうな顔でアンドレアスのもとに帰ってきた。
「神使がそう申すのならば仕方あるまい。明日に日延するゆえ身体を大事にせよ、と伝えよ」
「私からも、どうかご自愛くださるようにと。見舞いの品も届けなさい」
コンスタンツェも言い添え、幼い少女が喜びそうな人形や玩具、ドレスや菓子なども持って行かせた。ヴォルフラムの次は娘を欲しがっていたことを、アンドレアスは知っている。
しかし。
「……神使様は、皇妃殿下のお使いになるものは、すべてご自分が用意すると……」
三十分後、戻ってきた使者は青ざめ、今にも倒れてしまいそうだった。持ち帰られた見舞いの品は、開封もされぬまま。
皇后からの見舞いを突き返すなどありえない。ありがたく押し頂き、末代までの栄誉として語り継ぐのが普通だ。粗末に扱えば、皇族への反意を疑われる。
けれど皇帝の臣下でも帝国の民でもなく、ましてや人間ですらないレシェフモートに、普通など求められない。
強制すれば皇帝の使者ごとき、ひねり潰されてしまいかねない。逃げ帰るしかなかっただろう。
死んでお詫びを、と思い詰める使者をどうにかなだめ、別の使者を迎えに差し向けた翌日。やはり授与式への参加は断られ、昨日とは別に用意した見舞いの品も突き返された。
それがさらに二日繰り返され、アンドレアスはとうとう授与式を取り止めた。レシェフモートはガートルードを参加させる気はないと察したから。
これ以上誘っては断られるのを繰り返せば、アンドレアスとコンスタンツェの恥になるだけだ。
『女神の愛し子を、人間の虚飾に付き合わせるな』
初めて謁見の間で対面した時、金色の双眸は無言でそう警告してきた。羽虫でも見るような眼差しは、レシェフモートの前では皇帝の地位など何の意味もないのだと思い知らされた。
レシェフモートがその気になれば、アンドレアスの首と胴は一瞬で泣き別れになるだろう。あの神使はガートルードを皇妃に貶めたアンドレアスをさげすんでいる。
アンドレアスが無事なのは、ガートルードがそう望んでいるからだ。おそらくは姉女王のため、祖国のため、王女の務めを果たそうとしている。
ならばアンドレアスはガートルードの機嫌を損ねてはならない。ある意味、ヴォルフラム以上に。ガートルードがレシェフモートに『帝国を蹂躙して』と願えば、あの神使は喜んで従うだろうから。
帝国を嫌い、疎んじても、滅ぼしたいと思わせてはならない。少なくとも居心地のいい場所であらねば。
聖ブリュンヒルデ勲章は皇族にしか許されないダイヤモンドをちりばめた絢爛豪華な勲章だが、きっとこれもあの神使は受け取らないだろう。重要なのは授けられた事実だから、勲章は宝物庫で保管しておき、どうしても必要な時だけ身につけてもらうことにしよう。
アンドレアスとコンスタンツェはそのように結論付け、今はガートルードを休ませるのが最優先だと判断した。
ガートルードはすでに大きな務めを果たしてくれた。ヴォルフラムは生まれてからのほとんどの日々をベッドで過ごしていたのが嘘のように、日を追うごとに元気になっている。
ならばこれ以上は望むべきではないと。
しかし、そう理性的な判断を下せる者は少なかった。
反皇帝派の貴族は女神の愛し子の不興を買った皇帝をここぞとばかりに非難したし、反対に皇帝派の貴族は少しずつガートルードに不満を抱くようになっていった。
彼らとて、ガートルードの境遇には同情しているし、少なからぬ負い目もある。ヴォルフラム皇子が健康を取り戻すことで、利益を得るのは自分たちだからだ。
だからガートルードが皇妃になってくれたあかつきには、せいいっぱい歓迎し、孤独を慰めようと意気込んでいたのだ。
しかしふたを開けてみれば、ガートルードは自分の宮殿にこもったまま。歓迎式典は途中退出、勲章授与式には欠席、皇后からの見舞いすら受け取らない。
女神の愛し子にしても、さすがに不敬が過ぎるのでは?
そこまで思った者はもちろんごく少数だ。
なにせ相手は六歳、しかも故国から遠く引き離されてしまった哀れな少女である。ヴォルフラム皇子の治癒という最大の務めは果たしてくれているのだから、非難はできない。
問題は――『ごく少数』の中に、やっかいな人物が含まれていたことだ。
「……結局、皇妃殿下は歓迎式典以降、一度のお出ましもないそうではありませんか」
ティアナは紅茶で喉を湿らせようとして眉をひそめた。おしゃべりに夢中になっていたせいか、ティーカップに注がれた紅茶は手つかずのまますっかり冷めてしまっている。
控えていたメイドがすかさずカップを取り替え、適温の紅茶を注いでくれた。ティアナは満足そうに微笑み、馴染んだ味の紅茶を飲む。
「神使をお連れになられたとはいえ、皇妃は皇妃、皇后陛下に従われるべきお立場でしょう? まだ幼くていらっしゃるのに、このまま序列というものをご存知ないままではこれからご苦労なさるのではないかしら。ねえ、お兄様」
「……」
「お兄様、聞いていらっしゃるの!?」
まなじりをつり上げながら語気を強めれば、兄リュディガーはやっと書類から顔を上げた。
ティアナがこの執務室を訪れてからというもの、近くのソファに座ってずっと語りかけているのに生返事ばかり。これがティアナに甘い父のフォルトナー公爵なら、くだらない仕事なんてちゃっちゃと放ってティアナの話を聞いてくれる。
(そんなていたらくだから、正室が来ないのよ)
リュディガーはこの帝国において異質な存在だ。
帝国貴族にあるまじき細身、華やかな容姿は貴婦人がたを惹きつけてやまないが、同性からは疎まれることの方が多い。こんな男に娘をやりたくないと思う高位貴族は多いから、兄は二十代半ばを過ぎても独り身なのだろう。
ティアナはそう思っていた。
「そんなところでわめき散らされれば嫌でも聞こえる。……お前が皇妃殿下を侮辱する言葉も、全部」
「侮辱? わたくしがいつ皇妃殿下を侮辱したと仰せですの? わたくしはただ、幼い皇妃殿下の行く末を心配しているだけですわ。何と言っても殿下はヘルマンと同じ歳でいらっしゃるのだもの」
ヘルマンはティアナの産んだ長男だ。多少わんぱくなところはあるが、元気で才気煥発な子だと家庭教師も誉めてくれる。自慢の長男である。
はあ、とリュディガーはため息をついた。物憂げな表情に、実の妹すら魅了する色香がにじみ出る。
「皇妃殿下はヘルマンよりも……いや、お前よりもよほど道理をわきまえられたお方だ。お前が心配など、おこがましい」
「何ですって?」
ヘルマンはともかく、子まで産んだティアナより道理をわきまえているとはどういうことだ。
気色ばむティアナを翡翠の瞳が射貫く。
「皇妃殿下はたった六歳の御身で、祖国のため帝国行きを志願されたのだ。ティアナ、お前なら同じことができるか?」
「……もちろん、できますわ。わたくしとて皇族の血を引く姫ですもの。お国のためならば、我が身を犠牲に……」
「できないだろうな。ニクラスと結婚したお前には」
ニクラスはティアナの夫、アッヘンヴァル侯爵家嫡男のことだ。
ニクラスには元々、別の婚約者がいた。ティアナの友人でもある子爵令嬢だ。身分が違いすぎるので、友人と言うよりは取り巻きと呼ぶべきだが。
侯爵子息と子爵令嬢でも身分差は開いている。だが子爵令嬢の母はニクラスの母である侯爵夫人の親友で、二人は幼なじみだった。家族ぐるみで交流するうちに恋心をはぐくんだ二人は、互いの母親の後押しもあり、とうとう婚約を結んだのである。
子爵令嬢は友人のティアナにニクラスを紹介したが、これが悲劇の始まりだった。
ティアナは男前と評判のニクラスに一目惚れしてしまい、あのお方と結婚したい、あのお方でなければ嫌だと両親に泣いて訴えたのだ。
このわがままばかりは絶対に叶えてはならないと、リュディガーは両親に警告した。皇族の血を引く公爵家だろうと、人の心を踏みにじればいつか必ずその報いを受ける。
しかし両親は『叶えてくれないなら死ぬ』とまで訴えたティアナに結局は折れ、ニクラスと子爵令嬢の婚約を解消させた。莫大な慰謝料と新しい良縁を子爵令嬢にあてがって。
そしてニクラスとティアナを結婚させてくれた。侯爵夫妻は最後まで反対していたが、公爵家からの圧力には屈せざるを得なかった。
子爵令嬢はショックのあまり病み、良縁も断って家族と共に辺境へ移り住んだ。子爵令嬢にはもったいないくらいの良縁だったのに、なんて恩知らずなのかしらと、憤ったのを覚えている。
「なぜニクラス様との結婚をそこまで責められなければなりませんの? わたくし、好いたお方と結ばれただけですわ。皇帝ご夫妻だってそうではありませんか」
「……皇帝陛下の婚約者であられた公爵令嬢は病死された。皇帝陛下はその後皇后陛下に求婚されたのだ。お前とはまったく違う」
ため息をつく兄が気に入らない。
この兄はずっとそうだった。ティアナの言うことなすことに文句ばかり。
両親はいつでもティアナの味方になってくれるのに。
「好いたお方と結ばれただけと言うが、そのために何人が泣いた? 子爵令嬢だけではない。ニクラスはもちろん侯爵夫妻、子爵令嬢の家族、双方の友人縁者……数えだせばきりがない。お前がいまだに『次期侯爵夫人』なのは、そのせいだ」
「っ……」
「皇妃殿下は逆だ。皇妃殿下はご自分を犠牲になさり、あまたの人々を救われた。ヴォルフラム殿下、皇帝陛下に皇后陛下、帝国の臣民、祖国の姉女王陛下、王国の臣民……皇妃殿下に感謝する者は数えきれないだろう。誰からも感謝されないお前に、あの気高いお方を非難する資格はない」
切り捨てるように断言され、ティアナは強い憤りと同時にとまどいを覚える。
ガートルードは皇帝アンドレアスの熱望で迎えたのだから、アンドレアスを敬愛するリュディガーがかばうのは当然だ。ましてや帝国までの道中、ずっと一緒だったとくれば情も湧くだろう。この兄は子どもには甘い。
だがそれだけにしては、今のリュディガーは熱がこもりすぎているように見える。
翡翠の瞳にも、貴婦人がたをうっとりさせる声音にも……ただの情だけではない何かがひそんでいるような……。
「以後、皇妃殿下のことは口にするな。外はもちろん、侯爵家でも実家でもだ」
「そんな、なぜそこまで……」
「これはお前のためでもある。実家に帰ってくる頻度も減らし、次期侯爵夫人としての研鑽を積むように」
取りつく島もない口調に、ティアナは黙るしかなかった。




