5・転生ものぐさ皇妃、異形の獣と怠惰を満喫する
ゆっくりと意識が浮上する。
「まだ朝ではありませんよ」
そのたびに甘いささやきを吹き込まれ、優しく頭や背中を撫でられる。髪をすく指は慈愛に満ち、浮かびかけた意識をずぶずぶと眠りの沼に沈めてゆく。
小さな身体は、美しい青年に抱き込まれたまま。
そんなことを、何度繰り返したのか。
「う~ん……、……チョコレートぉ……」
夢の中でぱくつこうとしたチョコレートケーキを寸前で落としてしまった悲しみで、ガートルードは覚醒した。黄金の散った碧眼をぱちぱちとしばたたけば、チョコレートよりも甘い声音が降ってくる。
「何を悲しんでおいでですか、我が女神」
ぽんぽん、と背中をあやすように叩かれる。前世、弟妹たちにはしょっちゅうやっていた仕草がこんなに心地よいなんて、初めて知った。
「……チョコレートが……なくなっちゃったの……」
「チョコレートが?」
「うん。レシェが作ってくれたチョコレートのケーキ……食べようと思ったら……落としちゃったの……」
「何とおかわいそうな」
哀切を帯びたささやきの後、魅惑の甘く香ばしい匂いがガートルードの鼻をくすぐった。もしや、とガートルードは跳ね起きる。
「わああああっ……!」
ベッドの上にふよふよと浮いているのは、チョコレートを使った様々なケーキだ。
ザッハトルテはもちろん、オペラ、ガトーショコラ、チョコレートタルト、フォンダンショコラ、ブラウニー、チョコレートテリーヌ、名前はわからないが見るからにおいしそうな手の込んだものがたくさん。どれも前世のガートルードがテレビやインターネット、ショーウィンドウなどで眺め、絶対に口にできなかったものばかりだ。
「我が女神がお休みの間、記憶を探り、強く残っていたお菓子を再現してみました。……お喜び頂けたでしょうか?」
「もちろん!」
チョコレートしか目に入っていないガートルードは喜色満面で頷く。眠っている間に記憶を探られるなど、普通の人間は嫌がるものだが、ガートルードには喜びしかない。
(だって、寝てる間に何でも察してやってくれるなんて最高じゃない!)
「ありがとう、レシェ。レシェがいてくれて本当に良かった」
にっこり笑えば、レシェフモートの美貌は甘くとろけた。どこまでもお世話を許されることを、心の底から喜ぶ顔だ。
「もったいないお言葉。私こそ、もはや我が女神のいらっしゃらない世界など想像もできません。……どうか、いつまでもお世話させてくださいね?」
「当たり前よ。わたし、これからはずっと、ずぅーっとレシェにお世話されながら食っちゃ寝ライフを満喫するつもりなんだから」
レシェフモートの言う『いつまでも』は文字通り永遠。
ガートルードの『ずぅーっと』はせいぜい人間の寿命が尽きるまでの数十年。
二人の間には決定的な齟齬があるのだが、レシェフモートは気づかせないし、ガートルードは気づかない。
今の二人にはただ甘く平和な時間が流れている。
「さあ、召し上がれ。我が女神」
レシェフモートが膝に乗せてくれると同時に、ガートルードの服は絹の夜着からフリルとレースがふんだんにあしらわれた可愛らしいワンピースに変わる。
肌も髪もさっぱりして、つやつや潤っていた。洗浄の魔法を使ってくれたようだ。
有言実行のレシェフモートによって、出会い以降、ガートルードの身につけるものはすべてレシェフモートのお手製に替わっていた。国元から持ち込んだ衣服はお役御免となり、服から下着までレシェフモート特製である。
食っちゃ寝ライフ以外に興味のないガートルードは、服などどうでも良かったので、差し出される服や下着を何の疑問も抱かず身につける。何ならレシェフモートが魔法で着替えさせてくれる。
その態度はガートルードの指一本動かせたくないレシェフモートを歓喜させた。
ちなみに歓迎式典でまとっていたドレスももちろんレシェフモートが糸から紡ぎ、織り上げた布を仕立てたものである。装飾品もレシェフモートが作成した。
元々帝国が用意していたものは使われず、それがまた『ガートルード皇妃は帝国を厭うている』説を加速させたことをガートルードは知らない。レシェフモートはもちろん把握している。
「頂きます!」
前世の癖でてのひらを合わせ、口を開く。レシェフモートがちょうどいい大きさに切り分けたケーキを絶妙のタイミングで運んでくれる。一つ食べ終え、次はあっちが気になる……と思ったケーキがすかさず口に入れられる。
(同じチョコレートのケーキでも、こんなに違うんだ)
昨日も食べたザッハトルテは表面のチョコレートのコーティングが口の中でとろけ、チョコレートを練り込んだスポンジと杏のジャムに絡むのが絶妙だし、ガトーショコラはサクッとしているのにとろける生地が最高だし、チョコレートタルトは単体でもおいしいタルト生地に濃厚なチョコレートクリームが絡んで極上だし、フォンダンショコラは温かい生地から流れ出るチョコレートが至高だし、ブラウニーはザクザク交ぜられた胡桃と大粒のチョコレートが後を引くし、チョコレートテリーヌは濃厚なチョコレートの風味に溺れそうになる。
前世では想像するしかなかった味を、朝ベッドに横たわったまま、口を開けるだけで堪能できる。
(何て怠惰で、何て最高なの!)
これも帝国に呼んでもらえたおかげだ。ガートルードは心の中で皇帝夫妻とヴォルフラム皇子に感謝の祈りを捧げる。
(ヴォルフラム皇子も回復しているみたいだし、このままいけばわたしの地位は保証されたも同然。これからはずーっと食っちゃ寝ライフ!)
何なら死ぬまでこのガートルードの宮殿から出ないつもりでいたら、嫌なことを思い出してしまった。めざとく気づいたレシェフモートが顔を覗き込んでくる。
「いかがなさいましたか、我が女神」
「うん……ちょっと思い出しちゃって。歓迎式典の後、皇帝陛下が明日は聖ブリュンヒルデ勲章の授与式を行う予定だっておっしゃっていたでしょう?」
ガートルードとしては特権だらけの勲章をもらえたという事実だけでじゅうぶんなのだが、アンドレアスはどうしても貴族たちの前で勲章を授けたいようだった。
太いスポンサーの機嫌を損ねたくなかったので仕方なく受け入れたが、本音では授与式なんて参加したくない。ずっとごろごろしていたい。
「ご安心を、我が女神」
レシェフモートはガートルードの唇についていたケーキのかけらを取り、その指を舐めた。
「我が女神は歓迎式典の後、五日ほどお眠りになっておいででした。その間何度も訪れた皇帝の使者には、我が女神は過酷な旅路で体調を崩され、歓迎式典に無理を押して参加したせいで寝ついてしまわれたと伝えておきました。二度と面倒な式典に参加しろとは申さないでしょう」
「……レシェフモート、貴方……」
五日も眠り続けるなんて尋常ではない。この元魔獣の王が魔力で眠らせていたにちがいない。
普通の人間なら、何を勝手なと憤るところだ。
でもガートルードは普通ではなかった。
「貴方、……最高だわ!」
身体の向きを変え、レシェフモートの胸に抱きつく。眠っている間、何度も嗅いだ匂い……蜜で練った砂糖に希少な香辛料を混ぜたような、不思議となつかしい匂いがする。
欠席理由が『食っちゃ寝したいから』では皇帝も激怒案件だが、『体調不良』なら角は立たない。元々六歳の幼女に無理を強いたのはそちらなのだ。
しかも神使相手なら『お大事に』としか言えまい。完璧な作戦である。
「ありがとうございます、我が女神。常にこの私を受け入れてくださる、我が女神ガートルード様こそ最高のお方です」
「そ、そう?」
前世ではめったに誉められたことがないので、称賛を浴びせられるのにはまだ慣れない。
もじもじするガートルードのつむじや額に口付けを落とし、レシェフモートはとろけるように微笑む。
「そうでございますとも。……眠っておられる貴方は最高でした。私にすべてを委ね、あどけなくも安らかな寝顔を私の胸に埋め、浅ましい私が求めるがまま、何度も何度も……ああ……」
「レシェ……?」
蜜のような金色の双眸に溶かされてしまいそうな錯覚に陥り、ガートルードはレシェフモートの上着を引っ張る。
レシェフモートはゆったりと目を細め、互いの額を重ね合わせた。かすかにざわめいていた胸が鎮まってゆく。
「もちろん起きておられる貴方も最高ですが。……お召し上がりになったら、少し散歩でもなさいますか? 庭園がございましたので、ガートルード様のお好きなお花を咲かせておきました」
「本当? するする!」
ずるずる寝倒して起き、ベッドで朝ごはん代わりにケーキをむさぼってからの散歩。これぞ怠惰!
ニコニコするガートルードは知らなかった。
宮殿の外で、嵐が吹き荒れていることを――。




