15・皇帝と悪女ガートルード(第三者視点)
「そうだね。……本当に懐かしい」
ガートルードはあたりを見回し、感慨深そうに息を吐いた。ピアノの譜面台の右隅を、そっと指差す。長年使われてきたからか、そこだけ黒い塗装がほんの少し剥げてしまっている。
「ここ、前世でも剥げてたんだよ。あと、楽譜が置きっぱなしになってるのも同じ」
ピアノの屋根にはブックスタンドが置かれ、何冊もの古びた楽譜が並べられていた。吹奏楽部や合唱部などの歴代の卒業生が置いていったものだそうだ。
「そうなんだ。全然知らなかった」
「授業でしか来ない人は、知らなくて当然だよ。わたしはお昼休みとか放課後にもたまに来てたから、知ってただけ」
そうだ、ガートルードは……佳那はたびたび音楽室を訪れていた。少し弾んだ足取りを、楽しそうな後ろ姿を、完璧くんと呼ばれていたころのヴォルフラムは何度も見送った。
『僕も一緒に行っていい?』
かけようとした声を呑み込んだのは、音楽室で彼女を待つ存在のことを知っていたから。
自分以外の男と楽しそうに話す彼女を見たくなかった。話しかける勇気すらなかったくせに……。
(……そう言えば……)
ふと、小さな疑問がヴォルフラムの胸に芽生える。さっきガートルードはピアノを軽やかに弾きこなしていたけれど。
(櫻井さんはピアノを弾けただろうか……?)
弟妹の世話に追われる彼女には、習い事をする余裕などなかったと思う。実際、こっそり覗いた音楽室でプロのピアニスト顔負けの演奏を披露していたのは……。
「わたしたち、同じ夢を見てるのかな?」
ガートルードに見上げられたとたん、ヴォルフラムの胸に渦巻きつつあった疑問は霧散した。
そうだ、これは夢だ。現実では不可能なことができてもおかしくはない。
「……たぶん、そうだと思う。僕も君たちを送り出した後、執務室で寝落ちして、ふと気づいたら校門の前に立っていたんだ。櫻井さんは?」
「わたしも……たぶん、そう。自分の部屋で眠り込んじゃって、…………」
ガートルードはなにかを思い出そうとするようにまぶたを伏せたが、やがてゆるゆると首を振った。
「……うん、やっぱり神部くんと同じ。気がついたらここでピアノを弾いていたの。だから外には出ていないんだけど、外もこんな感じ?」
「恐ろしいくらい、前世の記憶そのまんまだったよ。……ひょっとして……」
思い浮かんだことを言いかけ、ヴォルフラムは口を閉ざした。我ながら自意識過剰というか、妄想が過ぎるというか、こんなことを言い出して彼女にドン引きされたら立ち直れない……と思ってしまったのだ。
「『ひょっとして』?」
だがガートルードはヴォルフラムの気持ちなど知らず、先を促してくる。『知りたい、教えて』と訴える大きな瞳に見つめられると、小さなプライドなどどうでもよくなってしまう。
「……ひょっとして、僕が君に会いたいと願いながら寝落ちしたから、君の夢の中に招いてもらえたのかな、と思って……ほら、二人分の記憶だからこんなに鮮明なのかなと……」
「……」
「僕たちは同じ世界からほぼ同じタイミングで転生したから、その、なにか特別なつながりがあるのかな、……って……」
あまりの居たたまれなさに、声がだんだんしぼんでいく。夢に招いてもらったとか、特別なつながりとか、改めて言葉にするとなかなか……いや、かなり痛い。前世で若い女性相手に発言しようものなら、痛い男認定間違いなしである。
しかし。
「そうか……そうだね」
ぽん、とガートルードは手を打った。この世で彼女とフローラだけしか持たなくなった神秘的な碧眼に、嫌悪はかけらもにじんでいない。
「わたしも神部くんに会いたいと思っていたから、お互いの夢が共鳴したのかもしれないね」
「……え? ……、会いたい? 僕に?」
予想外の言葉に目をぱちぱちさせていると、ガートルードは頷いた。
「わたしのために怒って、かばってくれたでしょう? リュディガーとジークフリートも……すごく嬉しかったから、お礼を言いたいなって思ってたの」
「そんなの……当たり前だよ。だって君は」
姉の尻拭いで祖国のために嫁がされて、皇禍に巻き込まれ夫を喪った。
それだけでもじゅうぶん悲劇なのに、親代わりだった姉女王たちを義兄に殺され、祖国を乗っ取られてしまったのだ。そんな彼女に、今すぐ王族の義務を果たせと迫るジーンの方がどう考えてもおかしい。
「違うの」
ヴォルフラムが告げる前に、ガートルードは首を振った。夢なのに青白い頬が震えている。
「みんな、わたしが国や民のために自分を犠牲にしたって言ってくれるけど……本当はそうじゃないの」
「櫻井さん?」
「わたし、ガートルード王女に生まれ変わった時に思ったの。王女様なら誰のお世話もしなくていい、お世話してもらう側だって」
ぐっ、ぐっ、と、小さな拳を何度も握っては開く。今にもあふれそうになるなにかを、抑え込むように。
「でもお姉様たちを見ているうちに、王女は王女で果たさなければならない義務があるとわかってきて……もう誰かのために働かされるなんて嫌だ、一生食っちゃ寝して過ごしたいって思っていた時だったわ。帝国から皇妃を寄越せって要求があったのは」
当初、差し出されるのはガートルードのすぐ上の姉、第四王女フローラであるはずだったことは、ヴォルフラムも知っている。フローラ王女が取り巻きの貴族子息と通じ、懐妊してしまったから、六歳の第五王女ガートルードが身代わりにならざるを得なかったのだと。
「……わたしね、知っていたの。フローラお姉様が取り巻きと通じていたことを。帝国への輿入れを逃れるために、妊娠を狙っていたことも」
ガートルードの無垢な顔が自嘲にゆがんだ。
「知っていて、黙っていたの。侍女にもお姉様たちにも。フローラお姉様が輿入れできない身体になれば、次はわたしだってわかっていたから」
「……」
「お姉様の身代わりで帝国へ輿入れすれば、食っちゃ寝ライフを一生保障してもらえる。かわいそうなお姫様として同情されて、つらいことはなにも押しつけられないんだって……わたし、うきうきしながら迎えの馬車に乗り込んだんだよ」
――最低でしょう?
穢らわしそうに吐き捨てられ、ヴォルフラムの胸はきゅっと痛んだ。
(そんな顔、しないでくれ)
そんな……雨に濡れた仔猫が寒さに震えながらも必死に毛を逆立て、大きく強く見せようとするような顔を。
「エルマとロッテが言ってた。わたし、女神様の愛し子とか、聖女とか呼ばれてるんだって。……ぜんぜん、そんなのじゃないのに」
「……櫻井さん」
「わたしは自分のことしか考えない、ずるくて悪い女なんだよ。……だからきっと、罰が当たったんだ……お姉様たちは、わたしの、……せいでっ……」
震える細い肩と、白い頬を伝う大粒の涙を見てしまった瞬間、ヴォルフラムの中でなにかが切れる音がした。突き上げる衝動のまま、ヴォルフラムは叫ぶ。
「……そんなわけ、あるか!」




