9・転生ものぐさ王女をからめとる四本の腕
死んだらおしまいだ。ガートルードは身をもって知っている。
前世、過労死した櫻井佳那はガートルードに転生した。佳那の魂はガートルードの肉体の中で生きている。
……でも。
櫻井佳那の人生は、死を迎えた瞬間に終わってしまった。櫻井佳那が家族やかつての友人知人と会い、言葉を交わすことは二度とない。ヴォルフラム……神部薫だった彼と再会できたのは望外の幸運だ。
死んでしまった姉たちとは、二度と会えない。
どんなに望んでも、せめて声だけでも聞きたいと願っても叶わない。
ガートルードを案じてくれる手紙が届くことは絶対にない。
「あ、あ、あ」
奈落に沈みそうな感覚に襲われ、ぞくりと震えるたび、四本の腕が優しく絡みつく。今のガートルードが、そこにいたわりと優しさ以外のなにかを見つけるのは難しい。
「我が女神。なんとおいたわしい」
狼と蜘蛛の本性を秘めた男のささやきは、どこまでも甘くなめらかだ。慈愛を経糸に、愛情を緯糸に織り上げた極上の絹織物のように。ただし完成したそれが、美しい模様だけを浮かび上がらせているとは限らないが……。
「妾の姫御子。かわいそうに……」
かつて沼の王と呼ばれ畏れられた男の手は、震える背中を慈母のごとく慰撫する。タンザナイトの双眸で大蛇のように細められる瞳孔にちらつく残虐さは、ふだんは周到に隠されているものだ。
もしもこの寝室にガートルード以外の人間が足を踏み入れようものなら、渦巻く殺気と濃厚な魔力に耐えきれず即死するだろう。
ただ、二人の腕に囲われたガートルードの周囲だけが静穏だ。
荒れ狂う台風の目のように。
時化の夜の深海のように。
「う……っ、レシェ、……カイ、レン……」
嗚咽に己の名が混じるたび、二人の魔獣がにじませる笑みをガートルードが目撃できないのは幸運だった。もし見てしまったら、身内を喪う以上の恐怖に襲われただろうから。
「私がおります。なにがあろうと決して貴方を一人にはしません」
「妾は、いつでも貴方のおそばに。妾たちは切っても切れない絆で結ばれているのですから」
二人がさざ波のように繰り返すささやきは、真実しか含んでいない。そこからどんな意図を見出すのかは聞いた者次第だ。
ガートルードは純粋な優しさといたわり、温もりだけを受け取った。そして子守唄のようなささやきを聞いているうちに嗚咽はおさまり、まどろみの波が押し寄せてくる。強い衝撃を受けた心と身体が、休息を欲しているのだ。
(まだ、寝ちゃ、だめ)
考えなくてはならないことがたくさんある。
ああ、でも、囲い込む腕は優しく頼もしく、吹き込まれるささやきは甘くて。
「おやすみなさい」
二人の蠱惑的な声音が重なった瞬間、ガートルードは深い眠りに引きずり込まれた。
眠る少女をベッドに横たえ、ふわふわの布団をかけてやった直後、二人の魔獣の王から魔力が漏れた。魔力の低い者なら一瞬で命を落とすほど強烈なそれは、二つの影を描き出す。
レシェフモートの背中には、狼と蜘蛛が混ざり合った魔獣の影を。
カイレンの背中には、大蛇と竜が混ざり合った魔獣の影を。
影とは言え、ガートルードの前で本性をさらさずにはいられぬほどの憤怒は、王と呼ばれる二人には生まれて初めての経験だった。
「沈めてしまいましょう」
口火を切ったのはカイレンだった。影の竜が五本の指から生えた鋭い爪を震わせ、大蛇は巨大なあぎとから鋭い牙をむき出しにする。
「小賢しい僭王も、僭王に股を開いたあばずれも、追従した貴族どもも……みな、王宮ごと水底に沈めてしまいましょう。そうすれば妾の姫御子の憂いはすべて消えてなくなります」
大蛇と竜が司るのは、水。
カイレンにかかれば、シルヴァーナ王国全土を飲み込む海嘯を発生させるのはたやすいだろう。
「愚昧な」
レシェフモートが嗤った。影の狼はくつくつと喉を震わせ、蜘蛛は八本の脚をうごめかせる。
「そのような生易しい制裁では、我が女神の味わわれた辛苦のひとかけらも与えてやれぬではないか」
身体の内側を無数の蜘蛛に喰い荒らされ、数ヶ月の間生き地獄の苦痛に呻吟した末、最後にやっと心臓と脳を喰らわれ絶命するオズワルドとフローラ、そして彼らに与した貴族たち。狼蜘蛛に蹂躙され、無惨な屍の山と化した民。
レシェフモートの脳裏に描かれる光景を、カイレンは正確に読み取った。
「……むろん、ただ沈めるだけでは済ませません。生きたまま窒息させ、鱶や鯱どもの玩具にさせましょう」
「手ぬるい。しょせん外傷だけではないか。それでは我が女神の苦痛の億分の一にも及ばぬ」
二人の王は睨み合いながら議論した末、ようやく妥協点にたどり着いた。
「では、まず私が僭王どもに蜘蛛を植えつけ、食い荒らされる苦痛に悶えているところ……」
「妾が海嘯で王国を飲み込み、鱶と鯱に弄ばせ、仕上げに二人で王国ごと蹂躙する、というわけですね」
オズワルドたちにとっては生き地獄に等しい末路でも、二人の王にとっては妥協の産物である。
人間以上の知能を持つ二人は、当然、シルヴァーナ王国を取り巻く情勢も、それに乗じて周辺国が暗躍する可能性も把握している。ガートルードこそがその中心にいることも。
だが彼らの関心は、唯一無二の女神を嘆かせた愚か者に対する報復にしかない。
……ガートルードの心はいつだって自分だけに傾けられていなければならないのに。
「人間の分際で女神のお心を占めた増上慢。その報いは、きちんとくれてやらねばな」
「まことに」
くす、くすす。
残虐な笑みにゆがむ唇を、カイレンは小袿の袖で覆い隠した。
影の狼と蜘蛛がレシェフモートに、大蛇と竜がカイレンに寄り添う。
二人が影を放った瞬間、シルヴァーナ王国は二人の望み通りの結末を迎えただろう。あまたの犠牲を巻き込んで、オズワルドを凶行に走らせた原因もなにもかも不明なまま。
もしもこの時――彼方で轟いた雷鳴を、二人の耳が捉えなければ。
「……!」
二人が息を呑む音が重なった。
今まさに災厄を降り注がせようとしていた影はふっと消え失せ、皇宮の上空に出現する。
影と視界を共有する二人には、はっきりと見えた。雲一つなかった蒼天に一瞬で垂れ込め、無数の稲妻を降り注がせようとする雷雲が。
大蛇と竜の影は天に昇り、雷雲に絡みついた。雷雲は生き物のようにうねり抵抗するが、とうとう組み伏せられてしまう。
そこへ狼と蜘蛛の影が跳躍し、雷雲にのしかかった。鋭い牙が突き立てられるや、雷雲はみるみる収縮し……霧散する瞬間、異形の輪郭を描く。誰が見てもいびつでしかない、だがレシェフモートとカイレンにとってだけは特別な意味を持つ輪郭を。
「あれは……」
影と視界を共有していた二人が同時につぶやき、どちらからともなく顔を見合わせた時。
「……ぐっ、……」
シルヴァーナ王国王都ルナフレア。正統なる主人を喪ったぬけがらの王宮で、一人の男が胸を押さえながらよろめいた。くずおれそうになるのを、壁に手をついてこらえる。その唇には、かすかな血がにじんでいる。
「勝手な、……、を……」
「陛下。……陛下?」
隣室から聞こえてきたかん高い声に、男は眉をひそめる。無視してしまいたいが、彼女は男の地位を守るためには必要不可欠な存在だ。今のところはご機嫌を取らなければならない。
(玩具では足りないのか。……クローディアの妹とは思えないな)
内側から叩きつけてくるような鼓動をどうにか鎮め、オズワルドは妃のもとへ向かった。
今のこのオズワルドの状態を覚えておくと、後々楽しい発見ができるかもしれません。




