4・アンドレアスとリュディガー(第三者視点)
ガートルードの歓迎式典が盛大に催された、その夜。
ソベリオン皇宮の最奥、皇帝夫妻とその一粒種ヴォルフラム皇子が住まう皇族のプライベートエリアをひそかに訪れる者がいた。
リュディガー・フォルトナー。
皇帝アンドレアスの従弟にして、近衛第一騎士団の団長を務める男である。
「遅かったな」
腹心の侍従に案内されてきたリュディガーに、アンドレアスはしどけなく腰かけたソファから手を振った。ずいぶん砕けた態度である。
「妹と甥たちに捕まって質問責めにされていたんですよ。仕方ないでしょう」
対面のソファに座るリュディガーも気安いものだ。ここを訪れる時は皇帝と騎士ではなく、幼なじみの従兄弟同士に戻るというのが二人の暗黙の了解である。
「何だ、身内か。てっきりご婦人がたに囲まれているのかと」
「そちらの方がまだましでしたよ。少なくともご婦人がたなら逃がしてくださいますからね」
リュディガーの妹ティアナはアッヘンヴァル侯爵家に嫁ぎ、早々に跡取りをもうけた。
しかしいまだ健在の姑は甘やかされて育った公爵令嬢の嫁が気に入らず、侯爵夫人の座をなかなか譲ろうとしない。
鬱憤を溜め込んだティアナはたびたび子連れで実家に帰っては、甥を両親に任せ、リュディガーに愚痴をこぼしたり友人を呼んで茶会を開いたりと気晴らしをしている。
だから侯爵夫人に認めてもらえないのだろうとリュディガーは思うが、妹を溺愛する両親は娘の里帰りにニコニコするばかりだ。
今日も妹は押しかけてきた。ガートルードを無事帝国まで送り届け、ほとんど休む間もなく歓迎式典にも参列し、疲れはてて帰宅した兄のもとへ。
アッヘンヴァル侯爵家からは姑の侯爵夫人とその夫の侯爵、跡取りであるティアナの夫、そしてティアナが参加する予定だった。しかし直前になって侯爵夫人がティアナの参加を禁じたため、ティアナはガートルードを迎える記念すべき式典に立ち会えなかったのだ。
そこでティアナはガートルードの警護役を務めた兄に突撃し、ガートルードの容姿や人となり、道中のエピソードなどをねだりまくったのである。
今や時の人となったガートルードの情報を得れば社交の場でもてはやされると期待したのだろう。侯爵夫人の苦虫を噛み潰したような顔が思い浮かぶ。
「何も話さなかっただろうな」
アンドレアスも苦い顔をした。
「当然です。あの妹に話せば、翌日には噂に尾びれどころか胸びれや手足まで生えて帝都中を走り回りかねませんからね」
「ならば良い。皇妃を……ガートルードを刺激することはなるべく避けたいからな」
アンドレアスがガートルードを呼び捨てにした瞬間、リュディガーの胸はちくりと痛んだ。
形だけとはいえ夫なのだから当たり前なのに、今日の輝かしい姿を思い出すと息苦しさに襲われてしまう。
「そこまで大きいですか。皇妃殿下の影響は」
「ああ。俺はすっかり女神の愛し子を祖国から引き離した、残虐非道な皇帝だ」
アンドレアスは肩をすくめ、手酌で注いだワインを呷る。冗談めかした口調とは裏腹に、その表情は冴えない。
『今日よりは皇妃として、両陛下の障りとならぬよう、この神使レシェフモートと共に皇宮のかたすみで生きることをお許しくださいませ』
挨拶で述べたあの言葉を聞いた時、アンドレアスもリュディガーもコンスタンツェも思った。ガートルードは皇妃として帝国で暮らすことを疎んじているのだと。きっと貴族たちも思っただろう。
神使を与えられるほど女神の寵愛あつき愛し子なら、どこに行っても誰と会っても歓迎される。
しかも生まれはかの神聖なるシルヴァーナの王女だ。伯爵家出身の皇后などよりも高位貴族から好感を持たれるのは間違いない。
ガートルードがその気になれば、コンスタンツェをしのぐ社交界の女王になれる。
なのにあの発言は、持てる影響力すべてを捨ててでも帝国の人間とは関わりたくないという意思表示に他ならない。幼き皇妃にとって、自分を祖国から奪い去った帝国での栄華など不要なものなのだ。
だからガートルードのために用意した人員はことごとく断られた。路傍の石と思って欲しいとまで言われてしまった。
『ガートルード皇妃はよほどご自分の境遇がお嫌らしい』
『まあ無理もなかろうよ。我らの娘より幼い御身で、父親より年上の皇帝の妃などと……それも祖国から供の一人も伴うことすら許されずに……』
『けなげに耐えておいでだが、今にも泣き出されそうではないか。おいたわしい』
反皇帝派の貴族たちはひそひそとささやき合った。一人の供も連れてこなかったのはガートルードの意向なのだが、いつの間にかアンドレアスが禁じたことにされている。
場所を移した立食パーティーの間、ガートルードはずっと悲しげな表情を浮かべていた。求めても与えられない何かを、それでも求めずにはいられないかのように。
リュディガーは直感した。
ガートルードは家族を……そばにいてくれる温もりを求めているのだと。レシェフモートはガートルードを心から大切にしているが、血のつながった家族とは違う。
……実際のガートルードが求めていたのはこの世界で初めて出逢えたチョコレートのケーキであり、丸かじりさせてやればすぐにでも上機嫌でウキウキしていたのだが、誰も真実を教えてやる者はいない。リュディガーにとっては幸いだったかもしれない。
しかもガートルードはしばらくすると最低限の義理は果たしたとばかりに退出していってしまった。
メイドの一人もいない宮殿にレシェフモートと二人きりでこもり、出て来ないという。運んだ食事もことごとく断られたそうだ。
「……食事に関しては心配無用かと。神使様は食材を自由自在に出現させ、自ら調理しては皇妃殿下に差し上げておりました。皇妃殿下が飢えることはないでしょう」
「早馬の文にもそう書いてあったな。食材を自由自在に出現させるとは、魔力で創造しているのか? それとも次元魔法で収納しておいたものを取り出しているのか?」
「あいにく、私には判別がつきませんでした。皇宮魔法使いならわかるかもしれませんが……そもそも神の遣いの行使する力が、人間と同じ理で発動しているとは限りませんし……」
無から物体を創る創造魔法も、空間を自在に操る次元魔法も、遣い手は破邪魔法より少ない希少魔法だ。生まれれば国で囲って保護という名の飼い殺しにするレベルである。
「お前にわからないのなら、皇宮魔法使いでも難しいだろうな」
アンドレアスの口からため息が漏れる。
ガートルードは帝国の力がなくても生きられる。それはアンドレアスにとって悪い報せだった。
帝国の財力と権力に依存し、与えられる贅沢に溺れてくれる人間ならいくらでも好きに操れる。
けれどガートルードはそういう性格ではないし、あの神使がついている限り、こちらが差し出す飴に食いつくこともないだろう。
さらに悪いことに、ガートルードは様々な方面から人望を集めてしまった。
反皇帝派の貴族は『皇妃殿下は皇帝の悪逆に悲しんでおられる』とアンドレアスの非を責め立てるだろう。特にかの公爵家はその筆頭になる可能性が高い。
ガートルードと同年代の子息を持つ貴族家は、神の愛し子を形ばかりの皇妃にするなど神に対する不敬だと主張し、離婚して自分の息子の妻にと求めるだろう。
神殿もやっかいだ。女神シルヴァーナの神殿は帝国にも存在する。彼らは女神の愛し子は女神に近いところで過ごすべきだと、神殿に引き取りたいと申し出るはずだ。
どれもやっかいだが、アンドレアスにとって最大の痛手は対魔騎士団だろう。
魔獣との戦いの最前線に立たされながら報われない、騎士とは名ばかりの者たち。
彼らにとってガートルードが起こした奇跡は、奇跡以上の……そう、救済だった。皇帝すら救おうとしない自分たちを、皇帝に無理強いされ連れてこられた幼い皇妃が救ってくれたと一途に思い込んでしまったのだ。
「……対魔騎士団については、貴方にも責任はありますよ」
リュディガーは酒杯を断り、主君であり従兄であり友でもある男をじっと見つめる。リュディガーの立場でなければ、こういう苦言は呈せない。
「先帝の御代から彼らの忠誠心は下がる一方でしたが、反意を隠さなくなったのは、貴方が国内の破邪魔法使い全員を皇宮に常駐させ始めてからです。破邪魔法使いなしでは、魔獣によって負った傷は治療できないのに」
「……世継ぎの皇子のためだ。仕方ないだろう」
「それを不入の土地へ行って、傷つき苦しむ彼らの前で言えますか? 我が子のために四肢も命も失えと?」
「……」
言える、とすぐに断言できないアンドレアスは、為政者としては不適格なのかもしれない。だがそういうアンドレアスだからこそリュディガーは救われてきたし、その分支えてやりたいとも思うのだ。
「魔沼までは浄化されませんでしたが、魔獣の群れはしばらく出現しないでしょうから、近いうちに対魔騎士団は帝都に帰還するはずです。その際は目に見える形で彼らをねぎらうべきですね」
「わかっている。不正は暴き、その上で慰労の式典を催し、功績のあった者には相応の褒賞金を与えよう」
対魔騎士団が何度も要請した援軍や物資は、実際にはその半分程度しか不入の土地に届いていなかったことが判明した。
わけありや犯罪者ばかりが集まる対魔騎士団なら、どんな扱いをしてもいいと考える者は軍内部にも多い。要請を握りつぶした者は対魔騎士団へ送るはずだった物資を着服し、私腹を肥やしつつ、対魔騎士団を罰してやったつもりにでもなっていたのだろう。悪気などかけらもなかったにちがいない。
そういった不届き者を、歴代の皇帝はあえて放置しているふしがあった。どう扱ってもいい相手にどんな態度に出るか。それをその者を量る試金石にしていたのだろう。
実際、対魔騎士団にも誠実に対応した者はその後それなりの出世を遂げている。対魔騎士団にとっては迷惑な話だが。
「それがいいでしょう。……あの男がどう出るかはわかりませんが」
「あいつか……」
リュディガーとアンドレアスの頭に同じ隻眼の男の面影が浮かぶ。指先に刺さって抜けない棘のような、あの男……。
「それと、外務大臣の処罰もお忘れなく。コンスタンツェ様のお身内だからといって、今回ばかりは許されませんよ」
リュディガーが話を変えると、アンドレアスはほっとしたようだった。
「ああ。あいつは解任の上、皇妃にも謝罪させる。家督は親族に譲らせよう。コンスタンツェも否やはあるまい」
外務大臣はシルヴァーナからガートルードの両親の死の真相について知らされ、配慮を求められていたにもかかわらず握り潰した。皇后の身内だからこそ厳罰に処さなければならない。
なぜならガートルードが皇妃になったことにより、最大の影響を受けるのはコンスタンツェだからだ。
王女に生まれながら皇妃に落とされた不遇の幼い姫と、伯爵家出身でありながら皇后におさまったコンスタンツェ。二人はこれから死ぬまでことあるごとに比較され続けるだろう。
すでにコンスタンツェの旗色は悪い。
コンスタンツェは世継ぎの母という点でガートルードに勝っており、こればかりはガートルードも巻き返しようがない。
しかしヴォルフラムは見違えるほど回復したが、皇子として国政に参加できるようになるのはまだまだ先だ。現在の帝国において、より大きな影響力を持つのは女神の愛し子たるガートルードである。
ヴォルフラムにしても、ガートルードを犠牲にしてまで生き延びた以上、相応の成果をもたらさなければ貴族たちは納得すまい。女神の愛し子を不幸にしてもこの皇子を生かして良かった、と誰もが賛嘆するほどの成果だ。
ヴォルフラムの前途はコンスタンツェ以上に多難である。
たった一人の少女によって帝国は大きく変わろうとしている。
だが少女を迎え入れたのはこちらである以上、どんな変化も受け入れなければならないのだ。