砂糖菓子のお姫様(番外編・ティアナ)4
「私はここまでだ。しっかり話してきなさい」
付き添ってきてくれた祖父アッヘンヴァル侯爵に頷き、ヘルマンは廊下の奥に進んだ。飾り気がないだけの建物に見えるが、一歩進むたび空気が重く感じるようになっていくのは、ここが牢獄だからか。
皇宮の片隅にあるこの牢獄の一室で、ヘルマンは今日、数ヶ月ぶりに母ティアナと対面するのだ。
ティアナがブライトクロイツ公爵の野望に荷担し、実家のフォルトナー公爵家からも絶縁されたことは、ヘルマンも聞かされていた。伯父リュディガーから。
ティアナは平民に堕とされ、身一つで市井に放り出される。それは決して厳しい処断ではない……むしろ女性であるがゆえにかけられた温情だ。爵位も財産も剥奪され、早晩処刑場の露と消えるブライトクロイツ公爵とその一派に比べたら、命があるだけ恵まれている。
わかっている。ティアナとはもう住む世界が違うのだと……関わらないのがお互いのためなのだと。
わかっていてもなお忘れられない。すがるようにヘルマンを抱き締める、母の細く頼りない腕を。華奢な身体の温もりを。白い肌からほのかに香る、甘い花の匂いを。
祖父母も伯父も、ティアナに関わるなとは言わなかった。母と今後どう接するか、ヘルマンに任せるということだろう。
突き放さなければならない。
でも、もし母が『助けて』と涙を流したら……。
定まらない心を持て余したまま、ヘルマンは目的の部屋にたどり着いた。警備の兵士がヘルマンに無言で頷き、部屋の鍵を開ける。
どきん……どきん……。
ヘルマンは高鳴る左胸を押さえ、扉をくぐった。この先に母が……。
「まあ! ヘルマン、久しぶりー! 会いたかったわぁ!」
母……が……?
「ちょっと聞いてちょうだいヘルマン、みんなひどいのよ。わたくしをよってたかって罪人扱いして牢獄に閉じ込めて! もう、もうもうもぉ!」
ヘルマンの顔を見るなりまくしたてるのは、女性……なのだろう。たぶん、きっと、おそらく。胸より腹の方が突き出ていても、今にもボタンが弾け飛んでしまいそうなワンピースは袖口にレースがついた女性用だし、もうもう鳴く声は甲高い。
「どうしたのヘルマン? どうしてこちらへ来てくれないの?」
未知の生き物は二段になった腹をぶるんと揺らし、よろめきながらソファから立ち上がった。足元がふらついている。生まれつき細い足首が、急激に増えた体重を支えきれず悲鳴を上げているのだ。
そう、この未知の生き物は間違いなくティアナ――ヘルマンの母であり、『砂糖菓子のお姫様』と謳われた、いや揶揄された元フォルトナー公爵令嬢だ。
元々、ティアナは非常に太りやすい体質だったが、独身時代は母親が、ニクラスの妻だった間は姑の侯爵夫人アーデルハイトが食事の管理をしていたため、令嬢らしいほっそりとした体格を保てていた。しかしブライトクロイツ公爵邸に身を寄せ、彼女に注意できる者がいなくなったとたん、ティアナは箍が外れたように食べ始めたのだ。
ヘルマンの事件、ニクラスとの離縁、ブライトクロイツ公爵邸への移住など、溜まり続けたストレスが食欲に拍車をかけた。本能を満たすため、不安を忘れるため、ティアナは食べ続けた。
特に砂糖と油をたっぷり使った甘い甘い揚げ菓子をむさぼる間は幸福感があふれ、恍惚と至福に酔っていられたのだ。ヴォルフラムあたりが聞いたなら、糖質の中毒性と危険性についてこんこんと講義したかもしれないが、本人に聞き入れる意志がなければ医師の忠告などなんの意味もない。
かくしてティアナは元の倍近くまで体重を激増させ、知人友人はおろか、実兄のリュディガーすら見ただけでは誰なのか判別できない姿に変貌を遂げてしまったのである。彼女を溺愛する両親でも、娘だと一目で見抜けないだろう。
かつて曲がりなりにもニクラスを魅了した、小柄で細身ながらも出るべきところはしっかり出た魅惑のボディは、出てはいけないところばかりが出まくった禁断のボディへ。
彼女を忌み嫌う者たちでも認めざるを得なかった美貌は、みっしりついたぷるぷるのぜい肉に埋もれてしまった。頬肉に押し潰され細くなった茶色の瞳と、二重顎に押し上げられた唇、艶を失った赤毛だけがかつての姿を留めている。
急激な肥満が健康にもたらすリスクよりも恐ろしいのは、ティアナが自身の変化に気づいていないことだ。
過剰に食べれば太ること、肥満体の令嬢が社交界では笑い者にされることも、常識としては知っているし、太ってはならないとも思っている。なのに自分だけはいくら食べても嘲笑されるほど太るわけがないと盲目的に思い込み、以前より明らかに肉がついてきても、男を魅了するグラマラスな身体になったのだと信じて疑わない。
たとえ鏡を見たとしても、ティアナの目に映るのは豊満な肉体で崇められる女神のごとき己の姿だ。ある種の正常性バイアスと言えるのかもしれない。
「ヘルマン? ほら、早くこちらへ来てちょうだい。ろくに食べ物をもらえなかったせいで力が入らなくて、あまり歩けないのよ」
だからティアナは幼い息子がなぜ硬直したまま動けないのか、本気でわからない。ちなみに歩けないのは増えすぎた体重に膝が悲鳴を上げたせいであり、食事は通常の囚人の五倍以上が与えられている。
「それから早く揚げ菓子を持って来させて。わたくし、空腹で死んでしまいそうだわ」
「……う……、ああ……」
「ヘルマン? ……どうしたの?」
顔面蒼白になったヘルマンがふらつきながら口をぱくぱくさせるに至り、ティアナはようやく息子の異変に気づいた。ふらふらとしゃがみこんでしまったヘルマンに慌てて駆け寄ろうとした瞬間、ぐきぃっ、と膝と足首に激痛が走るが、どうにかこらえる。
「ヘルマン、しっかり……」
「……触るな、化け物っ!」
ぱしんっ!
助け起こそうとした手に痛みが走った。涙のにじんだ目に睨まれ、ティアナはやっと理解する。息子に手をはねのけられたのだと。
「お前は誰だ!? お母様をどこへやった!?」
「ヘ、ヘルマン……」
「お母様を返せ! 化け物、……化け物……っ!」
落ち着かせようとした手をまた叩かれ、ティアナはどすんと尻餅をついた。ヘルマンの濡れた目を見て、はっとする。
そこに映っているのはあまたの令息をときめかせた『砂糖菓子のお姫様』でも、肉惑的な美女でもない。
(……誰……?)
息子の拒絶と痛みは、ティアナの曇りまくった目を覚めさせていた。彼女は今、初めて本当の自分を見たのだ。
かつての面影はどこにもない自分。
息子に……親にすら気づいてもらえないだろう、変わり果てた自分……。
「化け物!」
息子の泣き声が、胸に突き刺さる。
気づけば監視員が駆けつけてきて、ティアナはヘルマンと引き離された。息子に危害を加えようとしたのではないかと疑われたのだ。
疑いが晴れた後は、自ら元の牢獄の一室に戻った。あれほど焦がれた揚げ菓子は憑き物が落ちたように欲しくなくなり、騒ぎもしないティアナに監視員は驚いていた。
(……わたくし、なにをしていたのかしら……)
たくさんの出来事がティアナの頭をぐるぐると回り、駆け抜けていく。両親に溺愛され、なんの不安もなかった少女時代。兄たちの冷ややかな眼差し。友人ミリヤムから奪い取った結婚相手。祝福の気配もなかった結婚式。冷たい舅姑。お義理でしか声をかけられなかった社交界……。
『化け物!』
ああ、そうか――ティアナはぐっと歯を噛み締めた。
(わたくしは、化け物だった)
だからどこにいても嫌われて、最後には実の息子にまで見放された。誰かのせいじゃない。全部、全部自分の……。
「ヘルマン……、ごめんなさい……」
両親以外に初めて紡いだ謝罪を聞く者は、誰もいなかった。
その後、ティアナは自ら修道院の扉を叩き、またもや周囲を驚かせることになる。
『砂糖菓子のお姫様』。
それはヘルマンが考えていたのとは違い、頭の中まで砂糖でできているお姫様――甘やかされまくった令嬢を揶揄するあだ名だったのだが。
「……あれでもリューの血を引いていた、ということか」
予想外の結末はジークフリートも驚かせた。ティアナとヘルマンを対面させる前、彼はリュディガーにこう提案したのだ。
『ヘルマンが今のティアナを一目で母親だと見抜き、その上で交流を望むのなら考えてやればいいのではないか?』
リュディガーすら見抜けなかったのだから、ヘルマンにも不可能だろうとは思っていた。だがティアナが自ら身を引くのはさすがのジークフリートにも想定外だった。
ヘルマンはティアナを母親だと見抜くどころか、化け物と錯乱したそうだ。今後、ティアナがヘルマンの人生に関わることはないだろう。
だがもしも彼女がこれまでの所業を心から悔い、傷つけてきた人々に詫び、許されたのなら――もしかしたら、いつか……母子の道が交わる日も来るのかもしれない。
その日が喜ばしい日になるのかも、呪わしい日になるのかも、すべてはヘルマン次第。
いずれにせよ大人にできるのは、子どもがなるべくまっすぐ歩けるよう、そっと手を差し伸べてやるくらいだが。
「頑張れよ、少年」
ジークフリートはひとりごち、歩き出す。
彼もまた、新たなる自分の道を切り開くために。
「砂糖菓子のお姫様」これにて完結です。お付き合い下さりありがとうございました。




