砂糖菓子のお姫様(番外編・ティアナ)3
少なくともヘルマンが幼いうちは、ヘルマンとティアナ双方が望む限り、面会の機会をもうけてやらなければならないだろう。そうひんぱんにとはいかないが、数ヶ月に一度程度でもティアナにはじゅうぶんなはずだ。彼女に必要なのは『侯爵家の後継者の生母である』と周囲に知らしめることなのだから。
ヘルマンとティアナの間に親子としてのつながりがあると知れば、ティアナを欲しがる男はたくさんいるだろう。親子の情愛はいかなる法でも禁じられない。
ティアナからヘルマンを通じ、侯爵家に影響を及ぼせる。子を生ませればその子はヘルマンの異父きょうだいだ。正妻としてでなくとも、妾としてなら欲しがる貴族は多い。高位貴族とのパイプを求める下級貴族、あるいは貴族相手の市場に食い込みたい新興商会の主人……。
「相変わらず、金づるを見つけるのだけは上手い女だ」
くくっと喉を鳴らすジークフリートを見ていると居たたまれなくなる。
ティアナは皇太子妃になろうと、ジークフリートに恥も外聞もなく媚びへつらっていたらしい。ブライトクロイツ公爵邸のメイドの証言によれば、夜這いをかけようとしたこともあるようだ。
「申し訳ありません、ジーク……」
「お前が謝ることじゃない。結局のところ、あの女は自分が一番可愛いだけだ。そんなふうに育ててしまったのはお前の両親だからな」
両親はティアナの捕縛が判明すると同時に、領地の屋敷へ送り出し、厳重に監視させている。帝都にいられてはこの期に及んでティアナの平民落ちに反対されかねないからだ。
非公式ではあるが、ヴォルフラムのはからいでフォルトナー公爵家の家督と爵位は父からリュディガーに譲られた。今のリュディガーは近衛騎士団団長であり、フォルトナー公爵でもある。
「……そうでしょうね。普通の母親なら、ヘルマンとは可能な限り関わりを絶とうとするはずですから」
公爵令嬢から平民に落とされるほどの罪を犯した女が生母で、いまだにまとわりついていると知れば、まともな人間はヘルマンから距離を取るだろう。ただでさえヘルマン自身、まだ醜聞にまみれた身だというのに。
「だったら、だ。いっそヘルマンに選ばせたらどうだ?」
突然のジークフリートの提案に、リュディガーは翡翠の双眸をしばたたく。
「ヘルマンに、選ばせる……?」
「ああ。……つまり、こういうことだ」
ジークフリートは長い脚を組み、話し始めた。
(まったくもう、嫌になってしまうわ。このわたくしが五日以上、湯浴みもできなかったなんて)
もぐ、もぐもぐ。
ティアナは手にした袋からクッキーを何枚も掴み取り、一気に口の中へ放り込む。
取り調べの最中、調査官がどこかから調達してきたそれは甘味があまり強くなく、バターの量も控えめでティアナの好きな胡桃やアーモンドなども入っていない、みすぼらしい庶民の食べ物だ。とても公爵令嬢が口にしていい代物ではない。
……と思っているのはティアナだけ。
比較的砂糖の手に入りやすい帝国でも、やはり砂糖をふんだんに使った菓子は高級品だ。このクッキーだって、貴族はともかく、庶民の子どもは特別な時にしか食べられないおやつである。ティアナから証言を引き出し、大人しくさせるため、調査官が自腹を切ったのだ。
しかしティアナが調査官の心遣いに感謝するわけもない。
(わたくしはあれほど揚げ菓子が食べたいと言ったのに、こんなものしか寄越さないなんて!)
口に入れた瞬間じゅわっと染み出る豊かな油の香りとコク、たっぷり油の染みた生地に包まれた濃厚なクリーム、まぶされた砂糖の強烈な甘さ……それらが渾然一体となってもたらす美味。
ブライトクロイツ公爵邸に滞在していたころ、毎晩のように味わっていたそれに、ティアナはすっかり魅了されていた。メイドに山盛り持って来させ、食べ終えた後に油と砂糖まみれになった指をしゃぶるのさえ悦楽だった。合間に丸ごと揚げた芋にたっぷり塩をかけ、とろけるバターを絡めて食べ、しぼりたてのオレンジの果汁で流し込めば、甘さに慣れた舌がしゃっきりしてまた一皿ぺろりと平らげられるのだ。
皇禍の首謀者としてブライトクロイツ公爵が捕縛され、調査隊が公爵邸に踏み込んできた時、ティアナは揚げたての菓子をむさぼり始めたばかりだった。
『おい、女! 貴様、何者だ!?』
揚げ菓子の皿を問答無用で取り上げた挙げ句、ティアナの細腕を無理やりひねり上げた調査隊員の無礼さといったら、今でも思い出すだけではらわたが煮えくり返る。じろじろと無遠慮に眺め回したのは、ティアナの熟れた肉惑的な肢体に欲情したからにちがいない。
『無礼者! わたくしを誰だと思っているの!? わたくしはフォルトナー公爵令嬢よ!』
ティアナが何度そう訴えても『……公爵令嬢?』『これが?』と目を見合わせるばかりの隊員たちは、貴族ではあるのだろうが、きっと夜会にもろくに呼ばれない下級貴族出身だ。『砂糖菓子のお姫様』と賛美されたフォルトナー公爵令嬢の美貌は、上級貴族には知らぬ者がいないのだから。
驚くべきことに、ティアナはそのまま皇宮に連行されてしまった。兄リュディガーが呼ばれてようやく公爵家の令嬢だと信じてもらえたのだ。
『……ティアナ、なのか……?』
生まれてからずっと同じ屋敷で育ったのに、一目で妹だとわかってくれなかった兄は薄情者だ。しかもティアナの身柄の引き取りまで拒否するなんて、血も涙もない。おかげでティアナは薄汚い牢獄につながれ、厳しい取り調べを受けるはめになってしまったではないか。
食事は日に三度しか出されず、小鳥の餌程度の量で、調査官に菓子を買って来させなければ飢え死にしてしまったかもしれない。最悪の事態は免れたけれど、きっと痩せ細ってしまったはずだ。
(本当にもう、信じられない。もうもうもうもう、モォォォォッ!)
荒い鼻息を吹き散らしながら、袋のクッキーをまた掴み取ってむさぼる。控えめな甘みでは苛立ちがおさまってくれず、また袋に手を突っ込むが、ガサガサと音がするだけだった。数十枚は入っていたのに、休みなく食べ続けたせいで空っぽになってしまったのだ。
「ンモォォォォォォン!」
ティアナは憤りのままくしゃくしゃと袋を丸め、床に叩きつけた。背後に控えていた監視員を振り返り、鼻息も荒く命じる。
「ちょっと、早くお代わりを持ってきて! クリームとジャムとチョコレートが入った揚げ菓子よ! とりあえず三十個!」
「できません」
「なんですってぇ!?」
まなじりを吊り上げるティアナに、監視員はうんざりしたように答える。
「こちらに厨房はありませんし、あったとしても貴方のためにこれ以上の人員も予算も割けません」
「たったの揚げ菓子三十個よ!? 公爵令嬢たるこのわたくしに、その程度のもてなしもできないというの!?」
食用にできる油は砂糖ほどではないがそれなりの高級品だと、ティアナは知らなかった。その油を大量に消費する揚げ菓子を毎晩食べられたのは、ブライトクロイツ公爵家の財力のおかげであり……公爵家はもう存在しないことも。
自分もすでに、公爵令嬢の身分を失っていることも。
「なんと言われてもできません。……それにそろそろ先方がいらっしゃるのでは?」
視線で扉を示され、ティアナははっとした。自分がなんのために牢獄からこの面会室へ連れて来られたのか、思い出したのだ。
これからヘルマンがここへやって来る。ティアナが会いたい会いたいと主張し続け、ようやく叶えられたのだ。
(やっとここから抜け出せる!)
ブライトクロイツ公爵もジークフリートもリュディガーも、実権を取り上げられ領地へ送られたという両親ももう頼りにはならない。
けれどヘルマンは、ヘルマンだけはなにがあってもティアナの味方でいてくれるはずだ。お腹を痛めて産んでやった我が子なのだから。
(まずは揚げ菓子を用意してもらって、その後は湯浴みね。わたくしにふさわしいドレスも、宝石も……その後はまた揚げ菓子を……)
ティアナの目には、文字通り甘い未来しか見えていなかった。




