貴方はもう要らない(番外編・ロッテ)2
「え? ミリヤム……?」
エルマがきょとんとしながらニクラスとロッテを見比べる。彼女とて貴族の令嬢だ。貴族家の事情はある程度把握しているはずだが、自分とニクラス、そして『彼女』の醜聞が社交界を騒がせたころ、エルマはまだ十歳になるかならないかの少女だったはず。
きっと知らないだろう。
『わがまま令嬢に引き裂かれた悲劇の恋人たち』なんて。
「ミリヤム、俺だ、ニクラスだよ。忘れてしまったのか?」
立ち尽くすロッテに、ニクラスは焦燥をにじませながら訴える。その手には紅い薔薇の花束が握られていた。かつての求婚の時にも捧げられた花。あの時は心からの笑顔で受け取れたのに。
どうして今は、乾いた砂を掴むような虚しさしか感じないのだろう?
「なんとか言ってくれ、ミリヤム……!」
「っ……」
伸ばされた手に、本能的に身体がびくっと震えた。このままでは捕まってしまうのに、動けない。おみ足隊もニクラスがガートルードではなくロッテの客だとみなしたのか、様子見の姿勢だ。
「――失礼ですが、お引き取りください」
足音もたてず二人の間に割って入ったエルマが、穏やかな声で警告した。ぴんと伸びた背中は凛々しく頼もしい。
「こちらはガートルード皇妃殿下のお住まいです。どなたであろうと立ち入りは禁じられております」
「……、いや、私は皇妃殿下にお目にかかりたいわけではない。そこのミリヤムと別の場所で少し話したいだけなのだ」
「ミリヤム? どなたのことでしょう。こちらの宮殿に、そのような名の者はおりませんが」
エルマがわざとらしく首を傾げると、馬鹿にされたと思ったのか、ニクラスは端整な顔に朱を注いだ。声を荒らげそうになってこらえたのは、皇妃の騎士に喧嘩を売るのはまずいと理性が働いたからか。
「貴殿の後ろにいる女性のことだ。……ああ、申し遅れたが私はニクラス・アッヘンヴァルという。アッヘンヴァル侯爵家の嫡男だ」
どうだ、とばかりにニクラスは胸を張った。アッヘンヴァル侯爵家は帝国有数の武の名門だ。その家名を知らぬ騎士はいない。
それにエルマの実家ノイベルト子爵家は、確かアッヘンヴァル侯爵家の遠縁だったはず。世代が違うから面識はなくても、アッヘンヴァル侯爵にニクラスという息子がいることは知っているだろう。
(……変わらないわね)
現当主のアッヘンヴァル侯爵がそうであるように、嫡男ニクラスも優秀な騎士であることを幼いころから求められていた。本人も懸命に努力し、一般的な基準からすればじゅうぶん優れた騎士にはなれたけれど、父親はもちろん、近衛騎士団団長のリュディガーや対魔騎士団団長ジークフリートなどには遠く及ばなかった。
無意識の劣等感ゆえだろう。ニクラスはいつしか己の腕ではなく、生家の家名を誇り、ちらつかせるようになっていた。ロッテは彼のひたむきに努力するところにこそ惹かれたのに。
侯爵家の名を出せばいくら皇妃の騎士でも引き下がるにちがいない。ニクラスはそう信じて疑わなかったのだろうが、エルマは毅然と答えた。
「こちらの女性は皇妃殿下の専属侍女です。たとえアッヘンヴァル侯爵閣下のご子息であろうと、殿下のお許しなく連れ出すことは認められません」
「なっ……」
「それに本人も貴方と話したがっているようには思えません。嫌がる女性への無体は、騎士として見過ごすことはできません」
エルマは一歩、前に踏み出す。これ以上引き下がらないのなら実力行使も辞さないと、引き締まった背中は語っている。
「……っ……、ミリヤム、なあミリヤム、違うだろう? 俺と話したくないなんて、そんなことないよな?」
焦ったニクラスがエルマの肩越しに訴えかけてくるけれど、ロッテの心は凍りついたまま動かない。あの日から澱のように降り積もった感情はぐるぐると渦を巻いているのに、ただ立ち尽くすことしかできない。
「ミリヤム!」
「っ……!」
苛立ったニクラスが踏み出した足は石畳を越え、綺麗に整えられた芝生を踏みつけていた。
この宮殿内のものはかまどの灰まで偉大なるガートルード皇妃殿下の所有物であり、絶対に損なわれてはならない。モルガンからそう教え込まれたおみ足隊がいっせいにまなじりを吊り上げる。
「キィエェェェェェッ! おみ足っ!」
「貴様ぁ! なんということを!」
「許さぬ! そこへ直れぇぇい!」
――おみ足! おみ足! おみ足!
おみ足の大合唱と怒り狂ったおみ足隊に取り囲まれ、ニクラスはたじたじとなった。そこへエルマが最後の警告を発する。
「立ち去ってください。これ以上留まるのならば、命の保証はできません」
「……うっ……」
助けを求めるようなニクラスの視線から、ロッテはとっさに目を逸らした。ニクラスはため息をつきながら後ずさり、きびすを返す。
「……ミリヤム。今日は帰るが、俺は諦めない。やっとティアナから解放されたんだ。今度こそ君と添い遂げてみせるから」
「……ニクラス様……」
ニクラスは振り返らず去っていった。大柄な後ろ姿が曲がり角の向こうに消えると、ロッテは軽いめまいに襲われる。
「ロッテさん!」
ふらついたロッテを、エルマが慌てて支えてくれた。持ち場に戻るようおみ足隊に指示し、宮殿内の控え室へ連れて行ってくれる。
「……ごめんなさい、エルマ」
ソファに座らせてもらい、ロッテは頭を下げた。エルマは心配そうに首を振る。
「謝ることなんてないですよ。ロッテさんが連れてきたわけじゃないんですから」
「でも、私が呼び込んだようなものよ。……聞いたでしょう? ミリヤムって。あれは私の、本当の名前なの。私はずっと貴方を……いいえ、皇妃殿下までも騙していた」
ロッテは深呼吸し、ゆっくりと告げる。今はもう他人のそれのように感じるようになった名を。
「私の本当の名前はミリヤム……ミリヤム・ヘルテル。ニクラス様の婚約者でした」
ヘルテル子爵家は帝国貴族としては珍しく武より文に重きを置いた家で、当主は代々王宮の文官を務めてきた。現当主であるミリヤムの父もそうだ。
軟弱者と揶揄されることも多い子爵家と、武の名門アッヘンヴァル侯爵家。共通点など一つもない両家が家族ぐるみの付き合いをしていたのは、子爵夫人と侯爵夫人が親友同士だったからだ。幼馴染みでもある二人は『いつか自分たちに子どもが生まれたら結婚させたいわね』などと昔から冗談交じりに話していたらしい。
ミリヤムの父とアッヘンヴァル侯爵も正反対の気質なのが逆に良かったのか、不思議なくらい馬が合い、こちらも深い友誼で結ばれた。物心ついたころからひんぱんに顔を合わせ、侯爵夫人から実の娘のように可愛がられていたミリヤムとニクラスが互いを意識し、惹かれ合うのはもはや当然の流れだった。
『愛している、ミリヤム。俺の帰る場所になって欲しい』
大輪の薔薇の花束と真珠の指輪を差し出しながら、若き日のニクラスはミリヤムに求婚してくれた。帰る場所になって欲しい、というのは、戦地におもむく騎士独特の求婚の言葉だ。
『……はい。喜んで』
十代の小娘だったミリヤムは迷わず受け入れた。子爵令嬢と侯爵家の跡取り。身分違いではあるが、双方の両親はことのほか喜んだし、特に侯爵夫人アーデルハイトは精神的に打たれ弱いところのあるニクラスをしっかり者のミリヤムが支えてくれると期待している。
ミリヤムは幸せだった。
……『友人』のティアナにニクラスを紹介するまでは。