1・ガートルード王女、帝国に到着し奇跡を起こす(第三者視点)
シルヴァーナ王国の第五王女、ガートルード姫と女神シルヴァーナが遣わした神使レシェフモートが乗った馬車が近衛騎士団に守られ、帝国領内に入った瞬間、驚くべき変化が生じた。
「……! ま、魔獣が……」
「消えていく……!?」
驚愕の声を上げたのは、辺境に派遣された対魔騎士団の騎士や兵士たちだ。
ソベリオン帝国は元々、大陸で最も小さな国だったが、周辺の未開の土地を切り開いて版図を広げ、そこを足がかりに周囲の小国を呑み込んでいったという経緯がある。
そのため帝国領には魔獣に支配され、瘴気に毒された『不入の土地』が他国に比べ非常に多く、特に辺境は不入の土地に人間の街や村が点在しているようなありさまだった。
ゆえに皇帝アンドレアスは魔獣退治に特化した対魔騎士団を定期的に派遣し、任務に当たらせるのだが、不入の土地には高い確率で魔沼が発生している。
魔沼はその土地が長時間魔獣の魔力や瘴気にさらされることにより生じる、瘴気溜まりだ。黒い泥水をたたえた沼のように見えるので魔沼と呼ばれる。
しかし魔沼を満たすのは、魔獣の魔力と瘴気をふんだんに溶け込ませた汚泥だ。
瘴気はさらなる魔獣を呼び寄せ、彼らの魔力を吸い上げ、新たな魔獣を生み出してしまう。魔獣の多くはそうして魔沼から生まれてくる。
さらに魔沼は魔力を供給することにより、魔獣を強化する。強化された魔獣は人間を襲い、その血肉を喰らってさらに力を増していく。
最悪なのは『王』が誕生することだ。あまたの魔獣を率いる最強最悪の個体。王が誕生した国は、小国なら滅亡を覚悟する。
帝国は初代皇帝の治世以来、王の出現はないものの、不入の土地の多さに比例して魔獣の出現数も高い。
魔獣を全滅させた上、魔沼を浄化魔法で浄化すれば新たな魔獣は生まれなくなるのだが、魔沼を浄化できるのは破邪魔法のみ。
しかし破邪魔法使いは稀有であり、穢れの結晶とも言うべき魔沼を浄化できるほどの魔力を有する破邪魔法使いともなれば、百年に一度現れるかどうかだ。
現在、帝国が抱える三人の破邪魔法使いの魔力量は、最も多い者でも中の上といったところだ。魔沼浄化には最低でも上クラスの魔力量が必要とされるため、浄化は不可能である。
これは皇帝アンドレアスとヴォルフラム皇子にとっては幸いだった。魔沼の浄化が可能なほどの破邪魔法使いを皇子の治療のために独占すれば、反乱が起きていただろうから。
しかし魔獣との戦いの最前線に在る対魔騎士団の者たちにとっては、高魔力の破邪魔法使いの不在は不幸でしかない。
倒しても倒しても、魔獣は魔沼から湧いて出る。終わりの見えない戦いほど人間の心をすさませるものはない。
魔獣から採れる魔石は帝国の重要な資源でもあるのに、帝国の臣民を守る重要な役割を担うのに、いつしか対魔騎士団は数ある騎士団の中でも下の下、わけあり者や平民などが送られる吹きだまりとさげすまれる存在に成り下がってしまっていた。
皇帝からも見放されたと自らを卑下する、彼らが。
「なんて……綺麗な光なのだ……」
天から降り注ぐ銀色の光を、子どものように無垢な顔で見上げている。
来る日も来る日も戦い続け、さんざん帝都に要求した補充兵力も兵站も届かず、治癒魔法使いの魔力は尽き、誰もがもはやこれまでと覚悟していた。
そんな時とつじょ降り注いだ銀色の光は彼らの傷を癒し、失われた体力を回復させた。反対に魔獣どもは光に触れたとたん、断末魔の悲鳴を上げる間もなく、黒い煙と化し霧散した。
「……そろそろ、シルヴァーナの王女様が到着するころだよな」
兵士の一人がつぶやいた。
「ああ、そのはずだ。皇帝は欠陥品皇子を助けたい一心で、王女様にろくに準備もさせず脅して呼びつけたって話だからな」
「近衛の第一騎士団を迎えにやったんだろ」
「シルヴァーナじゃ皇帝は、姫様をさらう悪魔呼ばわりされてるそうだぜ」
近くにいた兵士たちが次々に応じる。
兵站は途絶えがちだが、駐屯地をひそかに訪れる闇商隊や娼婦たちから市井の噂はそこそこ手に入るのだ。噂話は彼らの数少ない娯楽である。
「へっ、いい気味だ」
嘲笑う兵士たちは、帝都ならすぐさま不敬罪で捕縛されただろう。だがここに彼らをとがめる者はいない。
対魔騎士団はその成り立ちや境遇から、皇帝に対する忠誠心は元々高いとは言えない。ことに当代皇帝アンドレアスは嫌われていると言っても過言ではない。
原因はヴォルフラム皇子だ。欠陥品皇子に貴重な破邪魔法使いをつぎ込むくせに、自分たちには何の心配りもしてくれないと思われているのである。
今の破邪魔法使いに魔沼の浄化は不可能でも、負傷者の治療はできる。魔力の高い魔獣によって負った傷口は瘴気で汚染されており、治癒魔法だけでは完治させられない。傷そのものはふさがっても、瘴気が内側から肉を腐らせてしまう。
瘴気を浄化してくれる破邪魔法使いがいなければ、汚染された部分は切断せざるを得ない。手足を失っても撤退は許されず、死ぬまで戦い続けるしかない。
いつ死んでもおかしくない皇子は安全な場所で手厚く保護され、帝国のため命がけで戦う兵士は放置される。身分制度とはそういうものだと言ってしまえばそれまでだが、兵士たちが己を納得させるのは難しい。
そんな彼らにとってとつじょ降り注いだ銀色の光は、文字通り救いの光だった。魔獣が消え去っただけではなく、瘴気を帯びた傷さえ癒してくれたのだから。
奇跡のような御業をなすお方を、彼らは一人しか思いつかない。
破邪の女神シルヴァーナの血を引き、邪悪なるものを寄せつけない聖なる王女。その力ゆえ皇帝に目をつけられてしまった、哀れな王女。
王女に自覚はないだろうが、王女は自分たちを救ってくれた。
「……噂じゃシルヴァーナの王女様、ガートルード様とおっしゃるそうだが、まだ六歳だそうだぜ」
「六歳!? うちの娘より小さいじゃないか!」
「皇帝は三十路近いだろ。そんな小さな姫様を、息子のために家族から引き離したのか」
「皇帝は悪魔だな」
皇帝への反感も手伝い、兵士たちの心はガートルード王女へどんどん傾倒していく。元より彼らは幼く罪のない姫君に同情的だった。
王女の話題で盛り上がる兵士たちを遠くから眺めながら。
「……欠陥品にはもったいない、な」
隻眼の騎士は、一つだけ残った目を細めてつぶやいた。
ソベリオン帝国の帝都アダマン。
その日、皇宮の謁見の間は詰めかけた貴族たちによって埋め尽くされていた。
前もって入れるのは伯爵以上の爵位を持つ者とその家族のみに限定したのだが、もはや立錐の余地もない。緋絨毯の敷かれた中央の通路にはみ出す者が出ないよう、近衛騎士が目を光らせながら警備に当たっている。
謁見の間がこれほど賑わったのは、現皇帝アンドレアスの即位式典の時くらいだ。立ちこめる熱気と人々の熱狂という点では、今日の方が勝っている。
なぜなら今日はシルヴァーナ王国第五王女、ガートルードの歓迎式典が催されるのである。
欠陥品皇子と揶揄されるヴォルフラム皇子を救うため、アンドレアスがなりふり構わずシルヴァーナを脅し、奪い取るも同然で皇妃に迎えた、たった六歳の幼い王女。
アンドレアスとその妻の皇后コンスタンツェのわがままの犠牲にされた王女に、帝国貴族は最初から同情的だった。
だが数日前、ガートルードが帝国領内に入った時、辺境で起きた劇的な変化は彼らを沸き立たせた。
天から降り注いだ銀色の光が、辺境を荒らし回っていた魔獣どもを全滅させたのだ。しかも対魔騎士団の兵士たちの傷を完治させた。
瘴気に侵され、破邪魔法で浄化されなければ切断するしかなかった傷までも。
奇跡はそれだけでは終わらず、ガートルードがたどったルート上の『不入の土地』の魔獣はのきなみ全滅した。さすがに魔沼までは浄化されなかったが、現在出現している魔獣が消滅しただけでも、その地の領主や派遣中の対魔騎士団は一息つける。
『ガートルード姫様の奇跡だ!』
誰もが歓喜し、ガートルードを誉め称えたが、中でも熱狂的なのは命を救われた対魔騎士団だった。
彼らは元々、皇帝への忠誠心が低い。皇帝ではなくガートルードこそが主君だと言い出しかねない熱狂ぶりは、中央の貴族にもまたたく間に伝わった。
シルヴァーナの直系王女が持つ破邪の力は、誰もが知っている。アンドレアスがガートルードを無理やり皇妃としたのも、その力で世継ぎヴォルフラム皇子を救わせるためである。
邪悪なるものを寄せつけない聖なる力。それは魔獣や瘴気を寄せつけない、すなわち追い払うだけの力だと思われていた。
もちろんそれだけでも神の御業というべき奇跡なのだが、すでに存在する魔獣や瘴気を消滅させることはできない。ガートルードの姉、姫将軍とあだ名される王太女ドローレスも、魔獣を滅するには剣を用いるのだ。
ただそこにいるだけで邪悪を滅するのは女神シルヴァーナか、女神の寵愛あつき者しかありえない。
ガートルード王女は女神シルヴァーナ様の愛し子だ。
皇帝はその女神の愛し子を皇妃という不当に低い身分に押し込め、息子のため飼い殺しにしようとしている。
何と罪深い――。
アンドレアスに反抗的な貴族が非難する一方、皇帝派の貴族はアンドレアスを称賛した。
女神の愛し子たるガートルード王女を皇妃に娶られた皇帝もまた、女神に愛されている。
幼き王女に皇后の責は重すぎよう。聖ブリュンヒルデ勲章を与えられたのだから、むしろ皇妃に留める方が王女のためになる。女神シルヴァーナもお許しくださるはずだ。
双方の主張はどこまでも平行線だが、一つだけ共通の見解がある。
ガートルード王女が在る限り、帝国は魔獣の脅威から遠ざかれるということだ。
シルヴァーナ王国以外の大陸の国々にとって、魔獣の存在は苦悩と疲弊の温床。それから解放されるのだから、帝国は版図拡大のための大きなアドバンテージを得たと言っていい。
肝心のヴォルフラム皇子は、ガートルード王女が帝都入りを果たした折り、帝都に降り注いだ銀色の光を浴びたとたん容態が劇的に回復したという。
絶え絶えだった呼吸は安らかになり、生まれた時から顔に刻まれていた苦悶はほどけ、その身体をむしばんでいた瘴気はことごとく抜け去った。
新たな瘴気が蓄積されることはなく、ろくに取れなかった食事を完食して皇后コンスタンツェを歓喜させたそうだ。
病んでいた期間が長いので今しばらく療養が必要だが、回復すれば普通の健康な子どものように走り回れるようになる。治癒魔法使いはそう太鼓判を押した。
つまりヴォルフラムはようやく皇帝の世継ぎとして表舞台に出てくる、ということだ。さすがに今日の歓迎式典には欠席するが、いずれガートルード王女と交流を持つことになるだろう。
命の恩人であり命綱でもある王女をいかに扱い、いかに機嫌を損ねないかにヴォルフラムの未来はかかっている。
しかしそれはまだ先のことだ。
皇帝派も反皇帝派も、その関心はガートルード王女に向けられている。
いったいどのようなお方なのか。
自国の貴族からすら欠陥品とさげすまれる皇子を哀れみ、自ら帝国行きを姉女王に志願した慈悲深い王女とは――。
第2章スタートです。
長丁場になりそうですが、よろしくお願いします。