142・執着の行き着く果て(第三者視点)
しかしエリーゼにとってもまた、コンスタンツェは一番ではなかった。一連の事件がニーナの犯行だったと判明したことにより、酷な真実はコンスタンツェに突きつけられた。
ただでさえ弱っていたコンスタンツェは、それ以来ベッドから起き上がれなくなるほど消沈し、食事もろくに喉を通らない有り様だった。治癒魔法では精神の病を治すことはできず、多忙を極めるヴォルフラムも母のために長い時間を費やせない。
追い詰められたコンスタンツェがすがれるのは、もはやエリーゼだけだったのではないか?
数々の嫌がらせのほとんどがニーナの仕業だったとしても、一つか二つくらいはエリーゼによるものだったのではないか。コンスタンツェはそう思い込んだ……いや、信じた。エリーゼがあるべき場所へ逝ったことを、彼女は知らないから。
コンスタンツェがエリーゼの怨念を恐れる気持ちは本物だったと思う。
けれどそれは同時に、コンスタンツェにとって救いでもあり、やはり恐怖の象徴でもあり……。
「……殿下?」
錆びた低い声で、ヴォルフラムは我に返った。ジークフリートが心配そうな顔をしている。かなり長い間、黙り込んでしまっていたらしい。
「すまない。昔、本で読んだ話を思い出していたんだ」
「本で読んだ話……、ですか」
「ああ。遠い国の昔話を集めた、説話集のようなものだが」
昔、正確には前世で読んだ本に記されていた話を、ヴォルフラムはこちらの世界風にアレンジして説明する。
――ある小国の騎士は、生来、蝶をことのほか嫌っていた。蝶がさかんに飛び回る春を疎み、晴れた日は家に閉じこもり、わざわざ雨の日に花見をするほど。
友人たちはそんな騎士をおかしく思いつつも心配し、そこまで病的な蝶嫌いなら今のうちに治しておいた方がいいと考えた。騎士たる者、野営などで蝶に限らず虫のたぐいと遭遇するのは日常茶飯事だから、そのたびに取り乱していては務めを果たせまいという思いやりが半分。残りはどうしてそこまで儚い蝶ごときを屈強な騎士が嫌うのか、という好奇心だったのかもしれない。
雨天が続いていたある春の日、友人たちは『花見をしよう』と騎士を招いた。応じた彼に取って置きの酒をしこたま飲ませ、酔わせたところで小部屋へ連れて行き、捕らえておいた蝶を数匹放ってから閉じこめた。扉をしっかり閉ざして。
『く、来るな、来るなぁっ!』
『許してくれ……!』
小部屋の外で耳をそばだてる友人たちには、騎士の悲鳴や、逃げ回っているとおぼしき物音が聞こえてきた。
爪も牙もない蝶をあんなに怖がるなんて。
友人たちは笑い合い、悲鳴も物音も聞こえなくなってから小部屋を開けた。荒療治のおかげで蝶嫌いも治ったにちがいない。そう信じて疑わなかった友人たちは、絶句する。
騎士は――死んでいた。
すっかり冷たくなった遺体の鼻には、友人たちの放った蝶がすべて詰まっていたという。
「……皇后陛下のご遺体を初めて見た時、真っ先にこの話を思い出したのだ」
ヴォルフラムが語り終えると、ジークフリートは興味深そうに頷く。
「初めて聞く話ですが、確かに皇后陛下の亡くなり方とよく似ていますね」
「くだんの騎士は蝶に気道……空気の通り道をふさがれ、窒息してしまったのだろう。その死因自体に疑問はない」
あるいは病的なまでに忌み嫌っていた蝶が体内に入り込んだことにより、強い精神的衝撃を受け、脳あるいは循環器に致命的な症状が生じた可能性もあるが、蝶が元凶であることに変わりはあるまい。
疑問なのは。
「なぜ蝶が騎士の鼻の穴に詰まったのか、ですね」
ジークフリートが打てば響くように言った。まさにそうだ。蝶は基本的に人を襲わない。毒を持つ蝶もいたはずだが、襲われた時に身を守るためのものであり、こちらから手出ししない限り毒の餌食にされることはないだろう。
騎士の友人たちにたやすく捕らわれた蝶は、毒蝶とは思えない。大声を上げて暴れる騎士から逃げこそすれ、自発的に襲うことはないはずだ。
友人たちはずっと小部屋の外にいた。小部屋の中には騎士と蝶だけ。
それらの事実から、ヴォルフラムは一つの可能性を見出だす。
「……私は、騎士が自ら詰めたのだと思う」
「騎士が? しかし騎士は、晴れた日には家に閉じこもるほど蝶を嫌っていたのですよね?」
「そうだ。だが、そもそもなぜ騎士は蝶をそこまで嫌っていたのだと思う?」
前世で読んだ本には、騎士が蝶を嫌う理由については記されていなかった。
生理的な嫌悪やなんらかの経験に基づくトラウマなど、いくつも思いつくが。
「私は思った。……騎士はいずれ自分が蝶によって命を落とすと予感していたから、嫌い、避けていたのではないかと」
ジークフリートはまじろぎ、小さく首を傾げる。
「お言葉ですが、だとすればなおさら、自ら鼻に忌み嫌う蝶を詰めたりはしないのでは?」
「『嫌う』というのは、憎悪同様、強い執着の裏返しだ。すなわち騎士は蝶に強く執着していた」
同時に『蝶によって命を落とす』と予感していた騎士は、その執着を嫌悪の感情で覆い隠し、蝶を避けて暮らしていた。
だが小部屋に蝶と閉じ込められた時、パニックに陥った騎士の心の嫌悪の殻は砕け散り、剥き出しの執着だけが残された。騎士はその強い執着のまま、蝶を我が物にせんと動き……。
「……そうして自ら鼻の穴に詰め込んだ、というわけですか。なんという……」
「むろん人によって解釈は様々だろう。あくまで私はそう思う、というだけだ」
「いえ、……わかる気がします」
はあ、とジークフリートは詰めていた息を吐いた。
「すると騎士は己が蝶への執着ゆえに死ぬと予感しており、周囲から見れば異様なまでに蝶を避けていた。ゆえに友人たちはあのような行動を取り、騎士を死なせることになった、と……まるで騎士の執着が、巡り巡って彼を死に至らしめたかのようですね」
「そうだな。私も同感だ」
もしも騎士が蝶に対するあからさまな嫌悪を示していなければ、友人たちは彼を蝶と閉じこめるような真似はせず、彼も死なずに済んだだろう。しかし結局、どこかで騎士は蝶によって命を落とした気もするが。
「つまり皇后陛下もまた、エリーゼに……いえ、『エリーゼに一番憎まれている自分』に執着しており、その強すぎる執着心が黒薔薇の花びらを造り出し、窒息死させた。殿下はそうお考えなのですね」
「ああ。……父上があんな形で亡くなり、知らなかったとはいえ自分が荷担してしまい、陛下は打ちのめされていた。きっとそのころから、この世に絶望しておいでだったのだろう」
愛していた夫を殺したも同然の身。息子の計らいにより幽閉だけで許されたが、周囲からは『夫殺しの皇后』と冷ややかな眼差しを突き刺される。そして信頼していた侍女の裏切り。
もはやこの世に、コンスタンツェの居場所はなかった。孤独と絶望が混ざり合い、凝り、彼女の息の根を止めたのではないか――。
「……いずれにせよ、痛ましいことです」
ジークフリートはしばし黙祷し、端整な顔に哀惜をにじませた。
「お悔やみを申し上げます、殿下。お父上に続きお母上までこのようなことになるとは……お力になれない我が身を口惜しく思います」
「ありがとう、ジークフリート。貴方はじゅうぶん力になってくれている」
実家の公爵家を失ったジークフリートは公爵子息ではなくなったが、対魔騎士団団長と騎士の身分はそのままなので、ヴォルフラムの臨時の配下として働くこと自体に問題はない。
しかし、いかにジークフリートが皇禍の解決に貢献したとしても、彼が首謀者の実子であることは事実。大罪人の息子に対する周囲の目は、決して温かいとは言えなかった。
ヴォルフラムが読んだのは『蝶に命とられし武士の条』というお話です。武士を騎士にしてあります。色々な解釈ができるお話だと思うので、よろしければ皆さんの解釈も聞かせて下さいね。