140・嫌がらせの真実(第三者視点)
本日は二話更新しております。
こちらは一話目です。
支配人には申し訳ないが、変わり果てたコンスタンツェの遺体を目の当たりにしても、ヴォルフラムの心は凪いだままだった。
哀れだとは思う。
だがそれは前世でも命を落とした患者に対し覚えていたのと同じもので、母親を喪った嘆きからはほど遠い。
元々コンスタンツェが己の母親である、という実感は薄かった。彼女がガートルードに対し数々の無礼を働くうちに、嫌悪感すら抱くようになっていった。
それでも自分を産み、ここまで守り育ててくれたことには感謝していたのだ。なのにここまで冷静でいられる、いや、心が動かないのは。
(……これの、せいなんだろうな)
ヴォルフラムはそっと左胸を押さえる。
かつてその奥にあった硬い感触――魔獣の核はもうない。膨大な魔力をヴォルフラムに奪い尽くされ、残されたかけらもヴォルフラムの心臓に吸収されてしまった。
レシェフモートやカイレンの反応から察するに、魔獣の核を取り込んだ人間はおそらく今まで存在しないのだろう。
前代未聞の事態。ヴォルフラムがこれからどう生きてどう死ぬのか、誰にも……あのレシェフモートにすら予測はつくまい。
だが融合から十日以上経てば、身体でわかってくることもある。
誰にも何事にも興味のかけらも抱かないくせに、心を奪われた人間にはどこまでも執着する。高位の魔獣特有の本能が、ヴォルフラムにも備わったと。
なぜなら実母の無惨な遺体にはぴくりとも揺るがない心が、彼女を思い浮かべるだけで荒れ狂う。美しい異形に囚われた彼女を力ずくでも奪い返して、代わりにこの腕に捕らえて……なんて、できもしないくせに。
衝動と欲望だけが、性懲りもなく溢れ出る。
「この離宮で、黒薔薇は栽培されているのか?」
前世よりもはるかに取り繕いやすくなった冷静な表情で問えば、支配人はまた首を振った。
「黒薔薇に限らず、花のたぐいは一切植えられておりません。皇后陛下が『花は見たくない』と仰せになりましたので、陛下が移り住まれると同時にすべての花壇が撤去されました」
「……そうか」
コンスタンツェの意図は不明だが、これで黒薔薇は外部からも内部からも持ち込まれていないことが判明した。
ならば考えうる可能性は、二つ。
何者かが使用人全員の目を盗んで届けたか、コンスタンツェ自身がなんらかの手段で持ち込んだか。
どちらにせよ、解けない謎がある。
「『エリーゼ様』。皇后陛下は、確かにそう叫ばれたのだな?」
ヴォルフラムが肩越しに問うと、入り口で青ざめていたメイドはがくがくと頷いた。
「は、はい。とても大きなお声でしたので、間違いございません」
「その時間帯、皇后陛下の寝室の近くで仕事をしていた他のメイドも同じお声を聞いたと証言しております。連れて参りましょうか?」
「いや、いい。お前たちを疑ってはいないし、なにがあったのだとしても、皇后陛下が亡くなったことに変わりはない」
申し出を断ると、支配人もメイドも沈痛な面持ちになった。父皇帝に続いて母皇后まで亡くしたヴォルフラムへの憐憫、だけではあるまい。すっかり人望を失ったコンスタンツェだが、こんな死に方はさすがに哀れだと思われているのだろう。
「……ヨナタン。ニーナはどうしている?」
「姉は、……ニーナは屋敷の地下室に監禁しております。常に交代で監視役が付けられておりますので、少しでも怪しい行動を取ればすぐ報告があるはずですが、今朝の報告では、以前と変わらぬ状態だと」
ヴォルフラムの質問を予想していたのか、ヨナタンの返答はなめらかだった。女性に騒がれる端整な顔は、ますます濃い疲労と罪悪感に侵食されつつあるけれど。この分ではまた侍従を辞めたいと言い出すかもしれない。
――五日前、ヨナタンの姉であり、コンスタンツェに長らく仕えてきた侍女ニーナが捕縛された。ブライトクロイツ公爵に協力した罪によって。
厳しい取り調べの中、ブライトクロイツ公爵は白状したのだ。ニーナを買収し、コンスタンツェに執拗な嫌がらせをさせていたと。彼女を心身共に弱らせ、付け入りやすくするために。
ニーナはコンスタンツェのドレスを引き裂いたり、エリーゼが好きだった黒薔薇の花びらをばらまいたり、スープにエリーゼと同じ黒髪を混入させたり、香水をエリーゼが愛用していたものとすり替えたり、真夜中にエリーゼが飼っていたのと同じ黒猫を忍び込ませたり、エリーゼに扮してコンスタンツェの前に現れたりもした。それですっかりコンスタンツェが弱ってしまったことは、ヴォルフラムも知っている。他ならぬニーナ自身がヴォルフラムに相談しに来たからだ。
今にして思えば、あれは一連の怪現象がエリーゼの怨念ではなく生きた人間の仕業ではないかと疑われた時、容疑を免れるためのパフォーマンスだったのだろう。コンスタンツェの誰より近くに仕えるニーナなら、どんな嫌がらせだって可能なのだから。
ヴォルフラムが母を慕うごく普通の子どもで、母を心配してくれたニーナに好意を抱けば、味方になってくれると踏んだわけだ。あの時の妙な態度は、期待通りの反応をしないヴォルフラムに対する苛立ちゆえだったのだろう。
『コンスタンツェ様がいけないのよ……!』
捕らえられたニーナは、なぜ公爵などに協力したのかと追及され、血走った目を爛々と輝かせながら叫んだ。
『わっ、私は何度も、何度も宿下がりをお願いしたのに……、全然、許してくださらなかった……! そのせいで、お父様が調えてくださった縁談は、全部、流れてしまって……』
幼いうちに婚約し、ろくに顔合わせもしないまま結婚……というのも、貴族なら絶対にない話ではない。しかしそれは戦争の最中とか、夫が出征を控えていてどうしても妻を迎えておかなければならないとか、本当にどうしようもない場合に限られた話である。
貴族である以上ある程度政略が絡むのは当然としても、結婚までに交際を重ね、互いの人となりを見定めておこうとするのが普通だ。
よって顔合わせすらままならない、というのは縁談において大きなマイナスポイントになってしまう。人前に出せないほど器量の悪い娘なのか、と思われてしまうのだ。
ニーナの場合は皇后付きの侍女だからだが、コンスタンツェは常にその地位と品位を危ぶまれている皇后だった。唯一の子であるヴォルフラムも無事成人できるかどうかわからない。コンスタンツェが失脚した時、あまりに皇后と距離が近すぎれば、巻き添えを喰らってしまうかもしれない。
コンスタンツェの姪でもあるニーナは敬遠され続け、婚期を逃し続けてきた。並み居る高位令嬢を差し置いて皇后になったコンスタンツェには、信頼できる侍女がニーナ一人しかいない。もはや一生未婚のまま、侍女としてコンスタンツェに仕え続けるしかないのか。
さんざんニーナの幸せを邪魔してきた、コンスタンツェに。
鬱々としていたニーナに、ブライトクロイツ公爵は誘惑の手を伸ばしてきた。
最初は手紙で。
『お前の幸福を踏みにじる皇后に復讐したくないか?』
無視しようと思っていたが、宿下がりが許されない時間が長くなるにつれ、公爵の誘惑はより魅力的に響き……気づけば公爵が差し向けた使者に案内され、公爵本人と対面していた。
『どんな手を使ってもいい。皇后を弱らせろ』
尊大に命じる公爵は、ニーナが断るなんて思ってもいないようだった。
それも当たり前なのだ。ブライトクロイツ公爵とこうして対面し、その陰謀を知ってしまった以上、断ればニーナは殺される。秘密を守るために。
わかっていて会った以上、ニーナの心は決まっていたのだ。コンスタンツェを裏切ると。