136・転生ものぐさ皇妃と神聖なるおみ足
『むぐぐ、むぐ、むぐぅぅっ!』
(いや、絶対疲れのせいなんかじゃないよね!? 部屋、ぐらんぐらん揺れてるわよね!?)
『お疲れのせいです』
『神使様のおっしゃる通りです。おみ足は正義です』
レシェフモートがまた小さなチョコレートパイをガートルードの口に入れ、モルガンはもがくガートルードの足を見つめたまま頷いた。
その間にも揺れは強くなってゆき、覚えのある声が耳の奥に届く。
『妾の姫御子……』
妙なる音色にも似た、ゆかしく優しい声。
これは――。
『……カイレン?』
つぶやいた瞬間、ドンッ、と地下から突き上げてくるような衝撃が部屋を揺さぶった。
ガートルードはレシェフモートがとっさに張った結界に包まれ、モルガンは素早く操った鞭を天井のシャンデリアに引っかけて空中に跳び上がったおかげで事なきを得たが、置物や花瓶などが次々と床に落ちて割れ、破片と化してゆく。
ドォンッ……!
絨毯ごと床を突き抜けたのは、巨大な水柱だった。
その中心にたたずむ下半身は鱗に包まれた魚、上半身は見事な肉体美を誇る男性の肉体の異形が、水越しにふわりと微笑む。
白い手が優雅に振られ、水はきらめく光の粒と化して異形を包んだ。藤の花の襲をまとい、人間のそれに変化した足で、麗しい異形は床に降り立つ。
『妾の姫御子』
『カイレン……!』
今までどうしていたの、と問いかけようとした口に、一口サイズのエクレアがひょいっと放り込まれた。反射的に咀嚼してしまうガートルードを、レシェフモートが腕の中に閉じ込める。
『貴様など呼んでいないぞ、邪竜が』
『誰が蜘蛛になど応じるものか。妾は愛しい姫御子のお声に応えたのみ』
もぐもぐ、もぐもぐ、ごくんっ。
ガートルードは必死に口を動かし、エクレアを飲み込んだ。このまま二人の王をぶつかり合わせたら、きっと皇宮なんてぷちっと潰されてしまう。その証拠に、床に着地したモルガンがこちらに頷きを寄越す。
『レシェ! カイレン! ……めっ!』
レシェフモートの腕から身を乗り出し、駄目、と注意しようとしたのに、焦りのあまり幼い弟妹を叱るような口調になってしまった。
これでは威厳もなにもあったものではない、とガートルードは項垂れたが、二人の王を取り巻いていた殺気は一瞬で消え去る。
『ああ、妾の姫御子』
カイレンが白い指を伸ばし、ガートルードの口の端に付いていたエクレアの屑を取った。屑のついた指先をためらいなく舐め取る舌が、ぞくりとするほどなまめかしい。
『なんて可愛いのでしょう、妾の貴方は。お会いできない間はさみしくて、さみしくて……ええ、本当にさみしくて……』
『だから海を荒らし回ったと?』
ひゅんっ、と蜘蛛脚がカイレンの首目がけて襲いかかる。舞でも舞うかのように優美なしぐさで避け、カイレンは柳眉をひそめる。小袿の袖で口元を覆いながら。
『荒らし回るなど……恐ろしいことを。そのような真似をした覚えはございませんのに』
『船を十三隻沈め、海の魔獣の群れを五つ壊滅させたことのどこが恐ろしくないと?』
『じゅっ、十三隻!?』
ガートルードは思わず悲鳴を上げ、ぎゅんっ、とモルガンに目を向けた。
モルガンはできる秘書よろしく、片眼鏡を押し上げる。
『いずれも他国の私掠船、海賊船、あるいは禁じられた奴隷売買を行う商人どもの商船です。海の藻屑と消えたとて、帝国に喜ぶ者はいても嘆く者はいないかと』
私掠船とは確か、国王から特別な許可を得て海賊行為を行う船のことだ。財宝を積んだ他国の船を襲わせ、船に積まれた財宝を奪わせるのである。もちろん奪った利益の何割かは国王の懐に入るのだ。
(世界史でも習ったわよね。なんだっけ、有名な海賊……サラリーマン御用達の飲み屋みたいな……そうそう、『どれ行く?』さんとか……)
国王の許可を得ているとはいえ、奪われる船――この場合は帝国の船から見れば、海賊に変わりはない。正真正銘の海賊船も、奴隷商人の船も、モルガンの言う通り沈められても誰も悲しまないのかもしれないけれど。
『……でも、海賊はともかく、奴隷商人の船には奴隷も乗せられていたはずでしょう?』
好き好んで奴隷に堕ちる者はいないのだから、彼らはのっぴきならない理由で売られたか、無理やりさらわれてきたのだろう。言わば犯罪の被害者だ。そんな人々まで海に沈められてしまうのは、あまりに哀れではないだろうか。
『心配は無用ですよ、妾の心優しい姫御子』
タンザナイトを思わせる蒼い瞳が愛おしそうに細められた。
『塵芥のごとき命でも、失われれば貴方はきっと悲しまれると思いましたので、乗り込んでいた者どもはみな生け捕りにし、帝国に引き渡しております』
『えっ? ……本当に?』
『はい』
ガートルードの問いかけに、モルガンは頷いた。
『私掠船の乗組員及び奴隷商人どもはいずれ帝国法に則り、裁きを受けるでしょう。奴隷として捕らわれていた者たちのうち、祖国への帰還を望む者はヴォルフラム殿下が責任持って帰し、帰るべき場所のない者は帝国民として遇すると宣言されました。無学な者には教育を施し、生きるすべを授けるとも』
『かん、……ヴォルフラム殿下が……』
『不肖このモルガンも、帝国民となった者たちには我が女王とおみ足の偉大さ、紳士としての心構えなどを説くなどして教育に協力しております』
『……はっ?』
ガートルードは思わず半眼になった。途中まではすごくいい話だったのに、突然とんでもないネタがぶちこまれた気がする。
『おみ足の……偉大さって?』
『生きとし生けるものはみな、おみ足にひざまずくことこそが歓び。未だ無知という名の暗闇に囚われた彼らの蒙を啓くことこそ、第一のおみ足のしもべとして当然の務めにございますゆえ』
断言するモルガンは敬虔な聖職者のようだが、言葉の内容にはなにひとつ同意できない。
……はずなのに。
『おみ足は真理を理解しているな』
『人間にしておくのがもったいないですね』
なぜかレシェフモートとカイレンはうんうんと頷いている。犬猿の仲のくせに、どうしてこんなろくでもないところでは息が合うのか。いつの間にか魔獣の王二人の懐に入り込んだモルガンの世知も恐ろしいが、さらに恐ろしいのは……。
『そ、その、奴隷だった人たちは……?』
『ご安心を。おみ足の威光はいかなる無知の闇をも照らす女神の光ゆえ、すでに彼らはみなおみ足の歓びに目覚め、真理の理解者となりつつあります』
――おみ足! おみ足! おみ足!
――我らが神聖なるおみ足に! 敬礼っ!
大歓声の中、目をギラギラと輝かせ、モルガンの指揮でいっせいに敬礼する人々がガートルードの脳裏に浮かんだ。彼らの見上げる先、バルコニーから手を振るのは……自分……。
(……って、ありえないから! そんなの絶対ないから!)
ぶんぶんと首を振るガートルードは、まだ知らない。その光景が単なる妄想ではなく、予知であったことを。
『……え、ええと、じゃあカイレンは、この五日間ずっと海で過ごしてたってことよね。身体は、もう大丈夫なの?』
ガートルードが妄想を振り払ってから尋ねると、カイレンはその場でふわりと回ってみせた。天女の舞のような典雅さに、目を奪われる。
『おかげさまをもちまして。そこの蜘蛛めに阻まれておりましたが、今日よりは我が命尽きるまで、妾の可愛い姫御子のおそばを離れないと誓います』
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