134・転生ものぐさ皇妃と異形の血
『貴方が一番最初に手を差し伸べてくれた。たとえこの先、わたしがどれだけたくさんの人に出逢おうと、それだけは変わらないわ』
震える褐色の頬を、ガートルードはもちもちと撫でる。
『だから貴方はわたしの特別なのよ、レシェ』
『……ッ……、我が、女神……』
わななく唇から覗いていた牙が縮んでゆき、全身から溢れていた殺気が霧散する。けれど細くなった瞳孔と蜘蛛脚はそのままだ。
『どうすれば、貴方はわたしを信じてくれる?』
『ウ、ウウ、ウッ……』
『貴方の傷ついた心を、どうすれば癒やせるの?』
重なる肌から伝わるレシェフモートの魔力は乱れ、荒れ狂っている。ふだんが凪いだ湖面なら、今は嵐の海のようだ。
おそらく、カイレンの領域に干渉した影響でもあるのだろう。同格の王の異質な魔力が、彼の領域に干渉したことでレシェフモートに流れ込んだ。レシェフモートの体内では、普通の人間なら狂い死ぬほどの苦痛が暴れまわっているはず。
『……私を……、貴方の、中に……』
ぎら、と金の瞳が焦熱の光を帯びた。
『貴方がカイレンと名付けたあの輩は、一時とはいえ、貴方を己の中に取り込んだ。……ならばこのレシェフモートには、最初に貴方の中に入る栄誉を賜りたい』
『わ、たし、の中に……レシェを? ……そうしたら、わたしは、どうなるの?』
カイレンの時はなにも考えずに受け入れてしまったせいで、最悪の事態に陥りかけてしまった。
ガートルードに芽生えた淡い用心を慈しむように、あるいはそんなものいつでも蹂躙できる圧倒的強者ゆえの余裕をにじませるように、レシェフモートは唇を吊り上げる。
『私から、離れられなくなります』
『離れられなく、なる……?』
『ええ。たとえこの世の果て、冥府に降ろうとも、私からは決して離れられなくなる。逃げられなくなる。そういう意味ですよ』
吸い込まれてしまいそうな金の瞳と目を合わせたまま、ガートルードは真剣に考え……こてん、と首を傾げた。
『それは、わたしがどこへ行ってもレシェが付いて来てくれる、ってこと?』
想定外の問いだったのか、レシェフモートが答えるまで少し間があった。
『……そう、とも言えますね』
『わたしがまたどこかへ連れて行かれても、レシェが必ず連れ戻してくれるってこと?』
『そう……なります、ね』
なぜかとまどっているレシェフモートをじっと見つめ、ガートルードは頷いた。たくましい背中にゆっくり腕を回す。
『じゃあ、いいわ』
『え……』
『レシェと離ればなれにならなくて済むようになるのなら。わたしの中に、入って』
どく……、どく、どくどく、どくん。
聞こえてきた異様な速さの鼓動は、もちろんガートルードのものではない。ヴォルフラムが居合わせたなら、『ハムスターか?』と呆れただろう。
『私と……、離ればなれになりたくないから、……私を、貴方の中に、入れてくださるのですか?』
『そうよ。そう言ってるじゃない』
ますます速くなる鼓動と熱を帯びていく褐色の肌が、ガートルードは不思議だった。
前世では三十歳まで生きたのだ。その手の知識が皆無というわけではない。中に入る、というのがそういう意味も含むことくらいわかっている。
けれど今のガートルードは月のものすら迎えていない、幼女の肉体だ。いくらレシェフモートが魔獣の王でも、なにもしようがないではないか。
……ガートルードは忘れていた。いや、結びつかなかったのだ。
レシェフモートは、魔獣の王は、愛しい者に気に入られるためならいくらでも姿を変えられる。美男にも美女にも、老人にも青年にも少年にも。その力を他者にも行使できるなんて……ガートルードもまた、摂理も時間も無視し、男を受け入れられる肉体に成長させられるなんて。
成長させられた肉体に昼となく夜となくレシェフモートを受け入れさせられ、胎が休まる暇もないほど魔の仔を孕まされ続ける。
ガートルードに待ち受けていたのは、そんな未来のはずだった。
だが、レシェフモートには。
『私と、私と、私と、私と……』
『レ、レシェ? ねえ、大丈夫? ハムスターみたいになってるんだけど』
ガートルードは思わずレシェフモートの左胸に耳を当てた。今にも孕まされそうになっているとも知らず、小さな身体が腕の中で安心しきって身を預ける。そのいとけなさ、純粋さに頭を白く染め上げられてしまった今のレシェフモートには。
幼い女神のいじらしいまでの信頼を、裏切ることなどできなくなってしまった。
『……我が女神』
愛おしさのしたたる声音が降り注ぐと同時に、蜘蛛脚は人間のそれに変化した。音もなく出現した天蓋付きの大きな寝台に、ガートルードはそっと横たえられる。
『私を……、受け入れて……』
覆いかぶさってきたレシェフモートが、己の人差し指に鋭い犬歯を立てた。蠱惑的な美貌に混じる野性的な空気にドキリとしていると、血のにじむ指先がガートルードの口元に差し出される。
(なに、これ……甘い匂い……)
蜂蜜とも果汁ともチョコレートとも花ともお菓子とも違う、とろけるほど甘い匂いがガートルードを惹きつける。なにも考えられなくなるくらいに。
ねだるように開いた唇へ、指はそっと入ってきた。夢中で舌を這わせたとたん、今まで味わったことのない濃厚な甘さが口いっぱいに広がる。
『美味しいですか?』
もつれた髪を撫でられながら問われ、ガートルードは夢中で首を上下させた。流れ続ける甘い血を、それを与えてくれる指を、一秒たりとも離したくなかった。
『良かった。……たくさん、たくさん召し上がってくださいね』
また指を咥えたままこくこくと頷けば、髪を撫でる手はいっそう優しくなった。
その手は甘い血を嚥下する細い喉、そして胸、腹をたどってゆき、やがて小さな身体を抱き込む。もう一方の手の指先はガートルードに与えたまま。
『我が女神』
とろけるささやきは血の甘さと溶け合い、ガートルードを酔わせていく。
うっとりとまぶたを閉ざす少女は、知らない。
魔獣の血は生きとし生ける者にとって猛毒であることを。
ガートルードが無事なのは体内を流れる女神の血と、レシェフモートが常に解毒し続けているおかげであることも……受け入れた血は一生体内を巡り、レシェフモート以外の雄の種を宿せなくなってしまうことも。
生殺与奪をレシェフモートに握られてしまったことも。
なにも知らぬままガートルードは眠りにつき、その間にレシェフモートの血は小さな身体に根づいた。
『……この力。私が遭遇した、あの女神とは違う……?』
そうして夢と現をさまよいながら、レシェフモートによる徹底的な『身体検査』を受けたことは当然、ガートルードの記憶には刻まれなかったのだ。
深い眠りから覚めた後は。
『我が女神、さぞお腹が空かれたでしょう。女神のお好きなものばかり用意いたしましたよ』
チョコレート尽くしのお菓子がずらりとテーブルに並べられ、レシェフモートの膝の上で、美しい異形手ずから与えられる。
指摘通りお腹ペコペコだったガートルードは喜んでお菓子に食いつき、しばらくは腹を満たすのに集中した。かつてないほどの空腹が植えつけられた魔獣の王の血のせいだと、知るよしもなく。
しかし、次から次へとお菓子を平らげ、空腹が癒やされれば、現実と向き合う余裕も出てくる。
レシェフモートの神域は朝も昼も夜も存在しないから、現実世界でどれだけ時間が経過していてもわからない。
『ねえレシェ、わたしが神域で過ごし始めてからどれくらい経っているの?』
ガートルードは恐る恐る尋ねた。
レシェフモートが姿を変えられる件については、書籍版にて加筆したエピソードに収録されています。お楽しみに!