133・転生ものぐさ皇妃と狂乱の獣
蜘蛛脚が降り立ったのは、覚えのある魔力に満ちた空間だった。レシェフモートの神域だ。レシェフモートと彼が許した者以外、誰も侵入できない。
『わがめがみ』
金の双眸には、初めて出逢った時よりも激しく狂おしい炎が燃え盛っていた。飢餓、焦燥、憤怒、嫉妬、不安、恐怖、憎悪、悲哀、悲嘆、欲望――あらゆる負の感情を燃料に。
『レシェ……』
『っ……あ、ああ、あぁっ、わがめがみ、わがめがみ……っ……!』
渇き死ぬ寸前だった旅人が、一杯の水を飲み干し、ようやく渇きを自覚したかのように。
『わがめがみ、わがめがみ、わがめがみ……っ』
――なぜです。なぜ。
『わがめがみわがめがみわがめがみ、……わ、が、……めがみ、……あ、……はぁ……っ』
――なぜ、私以外の魔獣を侍らせたのですか。
『わ、ガ、めが、ミ、ワガメ、がみ、わが、……』
――なぜ、私以外の虫けらどもをおそばに寄せたのですか。
『……ウッ……、グ、……ヴヴヴッ……』
――なぜ、私だけの女神になってくださらないのですか。
蠱惑的な唇から覗く歯が鋭く尖り、獣のそれへ変化するにつれ、レシェフモートの言葉は不明瞭になっていく。その分ガートルードの頭に響く声は雄弁になってゆき、ガートルードは心を揺さぶられる。
(レシェが嫉妬、するなんて)
カイレンに対して……だけなら、ガートルードは驚かなかった。カイレンはレシェフモートと同じ魔獣の王だ。王と王、対等な立場である。
けれどレシェフモートはカイレンのみならず、ヴォルフラムにもモルガンにもリュディガーにもジークフリートにも……ガートルードの周りの人間すべてに嫉妬している。もしかしたら女性のエルマやロッテ、幼いヘルマンにも。
『グ、ア、ああああアァァァアァア!』
蜘蛛脚が暴れ狂い、暴風が吹き荒れ、横殴りの驟雨が降りそそぎ、雷鳴がとどろき、地面がうなる。いっぺんに巻き起こった天災は、たった一つでも外で起きたなら、その地域一帯に壊滅的な被害をもたらすだろう。
安全なのはレシェフモートの腕の中だけ。いや、逆か。ある意味ここが一番危険な場所だ。
だって金の双眸では、あらゆる狂暴な欲望と衝動がせめぎ合っている。喰いたい、奪いたい、啜りたい――ガートルードのすべてを。
どこにも行けないように。
救いの蜘蛛糸一本すら届かない場所に。
愛しい女神を。
内側から、外側から、むさぼり喰らって。
天災なら、幸運と能力と努力次第で生き延びられる可能性はある。ごくわずかであっても。
けれどレシェフモートは駄目だ。
どうあがいても逃げられない。どんな努力も才能も幸運も嗤って蹂躙する。美しい理不尽の権化。
……でも。
『ごめん、ね、レシェ』
レシェフモートがそういう異形だとわかっていて、離れて行動することを選んだのはガートルードだ。
たとえこの身が脅かされようと、最後には彼が助けてくれる。身勝手にもそう信じ込んでいた。だから好き勝手に動き回って、傲慢にふるまって……あんなことになってしまった。
カイレンを助けたことは、後悔していない。かけらたりとも。
でもカイレンの条件を誤解し、あさはかにも受け入れてしまったのはガートルードの過ちだった。レシェフモートは来てくれたのに。……止めようとしていたのに。
『貴方の、前から、いなくなって……ごめんなさい……』
『ウッ、……ア、ア、ワが、めが、ミ』
『わたし……ひどいことをしたわ。どうすれば許してもらえるのか、わからないくらい……』
ぎらり、と、金の瞳が殺気を帯びる。ガートルード以外のすべての生き物に向けられたそれは、熱い腕に包まれた身体が凍りつきそうになるほど恐ろしいけれど。
『カイレンの懐にしまわれて……わたし、たぶん、あのままなら出られなくなってしまったんだと思う……』
生かすか、喰らうか。
揺らぐ金の瞳から目を逸らさず、ガートルードは暴風になびくレシェフモートの銀髪をきゅっと掴んだ。
『でも、貴方の声が聞こえたから』
『ガ、ガ、あ、あ、ァ……』
『わたしの食っちゃ寝ライフには、貴方が……わたしのそばにいてくれる人も笑っていてくれなきゃ駄目だって、わかったの』
もう一方の手を、そっとレシェフモートの唇に伸ばす。指先が触れた瞬間、捕食の衝動に震えていたそれはぴたりと動きを止めた。
『ありがとう、レシェ。わたしを呼んでくれて……助けてくれて』
今ならわかる。カイレンの懐――魔獣の王の領域に干渉することが、どれほどの危険を伴うか。
王がその領域に捕らえたモノは、王の所有物。それは何事にも囚われない魔獣たちの世界において、数少ない不文律だった。
王の領域は、言わば一つの王国。
そこにヴォルフラムはひびを入れ、レシェフモートは救いの糸を垂れた。二人とも相応のダメージを受けただろうし、ただでは済まないことはわかっていたはずだ。
『……ワたシが……、怖ク、ないノで、すか?』
伸びた牙のせいで少しくぐもった問いに、ガートルードは首を振った。
『そんなわけないでしょう? わたしはレシェが大好きで、レシェがわたしを傷つけるわけないんだもの』
『好……キ、……』
レシェフモートはぱちぱちと目をしばたたき、きゅっ、と瞳孔を細めた。
『ですが、貴方は……、わタシ以外の虫けらモ、お好キ、なのデしょう?』
『レシェ……』
『わたシには、貴方しカ、……貴方だけシか、望マナいノに……!』
撒き散らされる殺気が、ガートルードには痛々しく感じられた。
出逢ったばかりのころ、レシェフモートは恐れるものなどなにもない王だった。その気になればすぐにでもガートルードを神域に連れ去れただろう。
帝国まで一緒に来てくれたのはガートルードの望みを叶えるためだが、レシェフモートにとってどうしても許せない事態になれば、すべてをひっくり返せる。その自信があったからにちがいない。まるでゲームをリセットするみたいに。
でも、レシェフモートはそうしなかった。……最後まで、ガートルードの好きなようにさせてくれた。
裏切ったのはガートルードだ。
だから。
『レシェは、わたしの特別よ』
ガートルードは両手をレシェフモートの頬に添え、乾いた唇にそっと自分のそれを重ねた。やわらかな感触にレシェフモートは目を見開き、すぐに離れていったそれの温もりを惜しむように震える指先で触れる。
『特、別』
『だって貴方は王女でも皇妃でも女神の愛し子でもなく、ただのガートルードのそばにいてくれた、初めての人だもの』
祖国を出立してから出逢った人々の好意を疑うわけではない。フローラを除けば、姉たちもガートルードを愛してくれていた。
でも彼らはガートルードがシルヴァーナの王女に生まれなければ関わることすらなかった人々だ。たとえ出逢うことがあったとしても、今のような関係にはならなかっただろう。
しかし、レシェフモートは。
『貴方はわたしが帝国へ輿入れしなくても、きっとわたしを見つけ出してくれたでしょう?』
『わ、ガ、女神』
『そして、わたしのそばにいてくれたでしょう?』
理由も見返りも求めず、そばにいて尽くしてくれる。
それはガートルードをカイレンの懐から脱出させてくれた過去の自分が弟妹たちに注ぎながら、注がれることはなく……だからこそ求め続けていた愛情だった。
生まれ変わった後でさえ。




